七章

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七章

 何もない床の上に寝そべったまま、夜が明けた。 冷たくて硬いコンクリートの上で硬直した身体を解き、起こす。 寿命三日の世界は、変わらず光が指していた。 「これ……」  五人目を迎えにいくために開けた扉の先に、一枚の紙が置かれていた。 不自然に、触れてはいけないような雰囲気を漂わせながら、その紙は僕をみている。 躊躇いながらしゃがみ、その紙の端を指先で掬う。 「ミスタ……」  不恰好な字で言葉が綴られている。 何度も擦り、滲んだ後が残ったその紙には、彼の選択が記されていた。 『僕はノエルのものになった世界をみたい、どんなに傲慢だっていい。その世界は、きっと優しさで溢れているから』  その言葉に、僕は身勝手に安堵した。 欲を言うなら、彼がこの紙を置き去った瞬間の表情をみたかった。 眠っているであろう彼の部屋の前を通り過ぎ、五つ目の扉を叩く。 「おはようございます、誰かいらっしゃいますか」 「……おはよう、どちら様ですか?使用人さん?」 「いえ、あの僕は……ノエルという者で」 「ノエル……えっ……ノエルって本物の?」 「本物も偽物もないですよ、僕はノエルです」 「えっ、ノエル様が喋ってる……動いてる……!」  僕の名前の後に『様』がついた、初めて。 口元を手で覆い困惑する彼女へ、次に発する言葉に戸惑う。 「あの……お名前は」 「私はニア、呼び方はノエル様の呼びやすいように呼んでいただければ……もう私を視界にいれてくださっているだけで幸せなので……」 「ねぇ、ちょっと待って」 「はい」 「まず、その『様』呼び辞めようよ。なんか緊張するし」 「……じゃあなんとお呼びすれば」 「普通に『ノエル』でいいよ、僕も『ニア』って呼びたいし」 「……そんな、私の名前を覚えて、呼んでくださるなんて……」 「あのさ」 「はい」 「どうして、僕のこと知ってるの?」 「私はスピカ様とアルト様を愛してやまないからです」 「え……」 「私の部屋をみたらわかりますよ」  無数の絵画と地図、数字の連なった文書、古びた模型。 足を踏み入れた彼女の部屋は奇妙な雰囲気を纏っていた。 「これは……何」 「まずこの絵画、ノエルはみたことあるんじゃないかな」 「ごめん、初めてみた……」 「嘘でしょ!この美しすぎる容姿の女性と、雰囲気から勇敢さが滲み出ている男性……こんな人、答えは一つしかないでしょ!」 「そんなこと言われても……僕は本当に初めてみたんだ」 「親の顔も忘れるなんて……」 「え?」 「これは、スピカ様とアルト様を描いたものなの」 「……親の顔ってどういう意味?」 「だって、ノエルはスピカ様とアルト様の遺伝子を最も濃く継いでいるんでしょう」 「どうして……どうしてそのことを知ってるの?」 「だって私は生まれてからずっとこの部屋にいるんだよ。スピカ様とアルト様に関する本は全てなんかも読み返したし、絵画だって穴が空いてしまうほどみたの。もちろん、ふたりが世界を創った理由、創られたこの世界についてもね」  彼女は本棚に並ぶ背表紙を慈しむようになぞりながら、そう語る。 壁一面に貼られている絵画は全て、几帳面に額に収められている。 「ニア」 「はい」 「僕は確かに、スピカ様とアルト様の遺伝子を最も濃く継いでいるよ」 「はい、それはもちろん存じ上げてますよ」 「でも、一つだけ違うことがある」 「え……」 「僕の父親と母親は、スピカ様でもアルト様でもないってこと」 「そうなの……?」 「そうだよ、だからそこだけニアの記憶を書き換えてくれないかな」 「記憶を書き換えるなんてロマンチスト……やっぱり遺伝子から尊さは伝わっていくものなんですね!」  彼女は満面に喜悦の笑みを浮かべる。 時々舞うように一周し、軽快なステップの後、僕の隣で微笑む。 「ニアはどうしてそんなに、スピカ様とアルト様のことを慕っているの?」 「それは……生まれてきた時からこうして囲まれてきたから、おふたりの人柄……美貌に惚れ込んじゃったの」 「そうなんだ……」 「そうよ!この世界を愛するために生まれてきたような……それが今では愛されて続けている存在、本当に崇める以外に選択肢なんてないですよ」 「それは、すごいね」 「なんでそんなに他人事なの?」 「いや……僕はあんまりスピカ様とアルト様に詳しくないから……」 「そっか、それはちょっと残念」  妄信的な彼女は、すこし不服そうにそう言った。 背表紙をなぞっていた指で、額縁を愛でている。 「ねぇ、ノエル」 「何?」 「今更だけど……どうして私の部屋に来てくれたの?」 「それは……ちょっと難しい話だから、ちゃんと聴いてくれると嬉しいな」 「聴くよ、ノエルの話ならいくらでも聴きたい」 「あのね……僕達が住んでいるこの世界は、あと三日で終わるんだ」 「急に変な嘘つかないでよ、私そういう嘘は嫌いだよ?」 「嘘じゃないよ、嘘じゃない。本当に、この世界はあと三日で終わる」 「本当なんだ……」 「無理に信じ込もうとしなくていいよ、でも『嘘じゃない』って受け取ってくれたら嬉しいな」 「わかった、話を止めちゃってごめんね。続きを聴いてもいいかな」 「この世界が終わったら、新しい世界ができるんだ」 「……そうなんだ」 「だからニアに、新しい世界で生き続けるか、この世界と終わりを迎えるかを選んでもらわないといけないの」 「それは……スピカ様とアルト様の世界が無くなるっていうことなの……?」 「そういうことになるね」 「新しい世界は、誰が創るの」 「僕が創るよ」 「こんな時に冗談はやめてよ、笑えない」 「冗談じゃないよ、僕はそこまで酷な人間じゃない」 「そんなこと言われても……どちらかを選ぶなんて難しいことよ。スピカ様とアルト様のいない世界で生きたくない、でも私は死にたくなんかない」 「だから、一日外に出よう」 「え……?」 「ニアの行きたいところへ行って、世界をみてこようよ。そうしたらすこしでも選択のヒントがみつかるかもしれない……」 「じゃあ教会に行きたい!連れてってよ」 「教会……?」 「まさかノエルそんなことも知らないの?教会だよ、教会」 「いや、教会は知ってるけど……」 「じゃあいいじゃん、私の行きたいところに行っていいんでしょ?それなら迷わず私は教会に行きたい、そしてこの手をスピカ様とアルト様に向けて合わせるの」  再び同じ場所へ行くことに抵抗はない、それを拒む権利もない。 躊躇っている理由は『閉鎖された』と聞いた教会へ行き、彼女が落胆する姿をみたくないから。 「ノエル、何してるの」 「えっ……いや、ごめん。行こうか」  きっと僕に彼女の希望を逸らすための巧い言葉は思い浮かばない。 だから僕はレトロな服を身に纏った彼女を引き留めることもできずについて行くしかない。 「ノエルは教会、行ったことある?」 「僕は……初めてかな」 「そっか、じゃあ近道で行こうよ」 「えっ」 「教会は魅力がたくさんあるんだよ……だから行き道なんかより教会、そう、今日の本編をノエルには堪能してほしいの」 「だから近道ってことか……」 「そう!ちょっと迷いやすいから私にちゃんと着いてきてよね」  川の横道、立ち並ぶレンガ棟の隙間、廃工場の地下道。 彼女は不定期に後ろを振り向きながら僕が着いてきていることを確認する。 彼女の背を追いかけていると、見慣れた路地が広がる。 「着いた!綺麗でしょ、ここが教会だよ」 「そうだね、すごく綺麗だね」 「なんか反応薄くない?絶対興味ないでしょ」 「いや違うよ、あまりの綺麗さに言葉を奪われたの」 「器用に言葉を使えばいいってことじゃないから……魅力に気づいた頃に後悔しても、もう遅いんだからね」  本当に、魅力に気づいた頃には遅いのかもしれない。 彼女のように盲信的に、一つの存在に心を注ぐしかないのだから。 僕の心がこの場所を拒んでいることには理由がある。一つは、僕自身に知識がないから。きっとここは、生半可な気持ちで『綺麗』と発していい場所ではない。 そしてもう一つ、ここへ復讐を目的で来た人間の存在を僕は知っているから。 彼女のようにその存在を信じる人間すらも拒絶し、生命の、世界の根源を恨んだ人間がいて、その人間は既にこの世界から足を洗っているという事実を忘れられずにいるから。 「みて、ノエル」 「ん?」 「この神聖な空気感、洗練された愛と生命に満ちた空間、この世界の全てだと思わない?」 「……そうだね」 「ねぇ」 「何」 「なんでそんな『僕は何も感じていません』みたいな返事ばっかりなの?」 「いや……ちょっと余計なこと、考えちゃって」 「余計なこと……?」 「そう、余計なこと」 「それは私に言えないようなこと?」 「いや、別に言えないってわけじゃないけど……」 「じゃあ教えて」 「え」 「ノエルが何を感じてるか、私は超能力者じゃないから言葉にされないとわかんない」 「信じている人間の、裏側の人間について考えてた」 「裏側の人間……?」 「信じることが善なら、信じられない人……信じたくない人はどうなるんだろうって」 「別にそのままでいいんじゃない?」 「え……?」 「信じることが善だなんて誰が言ったの?」 「それは、誰も言ってないけど……」 「私は、私を含めてスピカ様とアルト様を信じている人は、どうして『信じる』を選んでると思う?」 「どうして……そんなのわからないよ」 「難しく考えるからわからないんだよ」 「……」 「信じたいから信じてるの」 「そんなに単純なの……?」 「そうだよ、別に善行をしようと思って信じてる訳じゃない。ただ信じたいから、信じてしまうほど好きだから信じてるの」 「そうなんだ……」 「自由でいいんだよ、心まで縛られるなんて苦痛でしょ?」  あの屋敷に縛られていた彼女が、同じく縛られていた僕へ、そんな言葉を掛ける。 なんとも不思議なやりとり。 彼女は真剣に硝子の外壁へくっつき、教会の中を覗いている。 「そんなに中が気になるなら、入ればいいのに」 「そんなことできないよ」 「教会に入れる人にきまりがあるの?」 「きまりはないけど……こんな神聖な場所に足を踏み入れたら、呼吸困難で死んじゃう」  彼女はまた僕には理解し難いことを、それが当然かのような口調で放つ。 肩から斜めにかけたショルダーバッグの紐を握りしめ、彼女は彼女の最後を噛み締めている。 『     』    教会の裏側の敷地から、物騒な音が聞こえた。 どこかで聞き覚えのあるような音を追うように、人々の悲鳴と咽び泣く声が響く。 「ノエル、これ何の音……」 「いや、僕にもよくわからない……」 「不穏だよ……ちょっとみに行こう」 「待って、ニア」 「……何、止まってる暇なんてないよ」 「違う、何かはわからないけど……危険なことに変わりはない」 「だから行くなって言って止めるの?」 「違う、僕と手を繋いで」 「どうして」 「離れないように、離れたら……ニアに何かあった時に助けられなくなるから」  物騒な音は鳴り止まない。 響く音の方向へ駆けた僕達の前に広がっている景色の大半を埋める色は、限りなく黒に近い赤。 「ノエル……これって……」 「ニア、みたくなかったら僕の後ろで目を伏せてて」 「大丈夫、私は何も知らないから」 「ニア……」 「あの男の人でしょ、みるからに怪しそうだもん」  彼女が指を刺した男の右手には銃が握られている。 不敵に微笑んだ後に、周囲の人間の頭部に銃口を近づけていく。 「ねぇ」 「なんだ、お嬢ちゃん」  その男に思考を奪われている隙に、彼女と僕の手は離れていた。 そして恐れることを知らない足を動かし、彼女は確実に男に近づいている。 「お嬢ちゃんじゃない、私の名前は『ニア』」 「そうか、死人に名前なんて必要ない。銃を持った人間に近づくなんて、いい度胸だ」 「名前は?」 「は?」 「おじさんの名前は?」 「お前な、初対面の人間に向かって『おじさん』とは無礼にも程があるだろ」 「私は名乗った上で『お前』って呼ばれてるの、私はまだ貴方の名前を知らない。だから『おじさん』って呼ぶしかないの」 「生意気な餓鬼だな」 「何、それが名前なの?」 「馬鹿か、俺の名前は『パルラ』だ」 「素敵な名前ね、パルラ」 「そうか、俺とは感性が合わないな」 「そう、それならそれで私は構わないわ」  彼女は男と驚くほど落ち着いた様子で会話を続けている。 その光景に腰を抜かす者もいれば、映像に収めようとカメラを向ける者もいた。 そして何もない僕は、ただ立ち尽くしている。 「餓鬼が何の用だ」 「だから、私は『ニア』だって」 「わかったよ、ニアだな。覚えたよ」 「それは嬉しい、ありがとう」 「だから何の用だよ!お前のことを撃ち殺すなんて簡単なんだからな」 「いいよ別に、でも痛い目をみるのはパルラの方だね。私をここで撃ったらパルラは一生檻の中だよ」 「おっと、ニアは世間を知らないようだね。残念ながら、俺はそこまで馬鹿じゃない」 「どういう意味?」 「もうこの世界には法律も掟も無いってことだよ」 「それは嘘だよ」 「嘘じゃない。それを決めたのはお前らが崇めてるスピカ様とアルト様だからな」 「そんなことする訳ないよ」 「一旦素直に俺が言ったことを呑み込め、話はそこからだ」 「じゃあその銃置いてよ、話はそこからでしょ。片方だけが武力を持っているなんて不公平」 「やかましい餓鬼だな……」  そう言い、男は渋々銃を投げ捨てた。 彼女は満足そうな顔をして、僕に手を振る。 頼むから大事にはしないでくれと僕は祈る。 「法律と掟が無いなんて嘘よ」 「俺は銃を捨てたんだ、信じることが筋だろ」 「無差別に人を殺めるような人に筋だなんて説教、喰らいたくないな」 「俺のことを信じられないなら、他にここにいる奴の顔みてみろ」 「え……」 「無駄に勘が鋭いお前ならわかるだろ、俺が言ってることが嘘じゃないって」  どうやら男が言っていることは本当らしい。 そしてそれが、スピカ様とアルト様によって定められたということも。 「わかった……信じるよ、でもそれが人を殺めていい理由にはならないでしょ」 「死んでるんだよ。不自然に人が、何人も」 「詳しく聴かせて、否定はしないから」 「二日前の夜からな、わかっているだけで俺の周りの人間の六十八人が死んだ」 「どうして」 「俺に訊かれたってわかるわけないだろ。全員、突然倒れて、泡を吹いて死んでいったんだ」 「そんなの偶然でしょ」 「お前、否定しないって言ったよな」 「ごめん、続けて」 「だからな、その日の夜に教会に駆け込んだんだよ」 「パルラが?」 「ああ、最初は一人で家を出たよ」 「最初は……」 「行き道で同じことを考えた奴が何人もいてな。でもその半分は道中で、同じように泡を吹いて死んだ」 「え……」 「教会に着いたら、既に先客がいた」 「そうだったんだ」 「なぁお前、教会について詳しいか」 「いや……そんなに詳しい訳じゃないけど」 「一応訊く、教会の門が締まることってあると思うか」 「思わない、教会の門が閉められることはない」 「だよな。でもな、その夜は門どころか、どの扉も閉鎖されてたんだよ」 「え……」 「灯も全て消えててな、朝になっても門が開くことはなかった」 「それじゃあ、来た人達はどうしたの……?」 「家にある鈍器を持ち寄って鍵を壊した、それしか方法がなかったからな」 「門が開かなかったっていうのは……単なる偶然じゃない?」 「門が開くのを待って数時間が経った頃にな、無線放送が鳴ったんだよ」 「無線放送……」 「全ての法律と掟が無効になるって、何度も繰り返して伝えられたんだ」 「……それは」 「法律と掟はスピカ様とアルト様が定めたものだよな」 「……そうだね」 「それが一夜にして消滅したんだよ、これでもまだ『偶然』だなんて言葉で片付けられるか?」  男の話に涙を流している人は、恐らく死んだ人間の遺族だろう。 そして僕は、多発した不可思議な死の正体に覚えがある。 新しい世界へいくための『人間の選別』きっと死を迎えた人間は、人工知能に『不要』と判断された人間。 そんなこと、口が裂けても言うことはできないけれど。 「お前、これがどういうことかわかるか」 「……急に訊かれてもわかんないよ」 「神に見捨てられたってことだよ」 「それは……」 「この世界を護っていた法が消えて、愛で護られてきた人間が奇妙に死んでいる、それは今も続いていることだ」 「今も続いてるの……?」 「ああ、今日嫁から伝えられたんだ。娘と息子が死んだって」 「そんな……」 「俺が銃を持った理由は、復讐でも反抗でもない」 「……じゃあ、何のためなの?」 「最期まで信じるためだよ」 「え……」 「ニアが、法律に従っていたのは何のためだ」 「……世界に住む人を護るため」 「じゃあ掟を重んじていたのは何のためだ」 「……それがこの世界で生きるための術だから」 「そうだよな、今はその逆なんだよ」 「え……」 「スピカ様とアルト様は、その逆を望んでいるんだ」 「だから……人を殺めたの?」 「娘と息子のことを聴いた時、俺は嫁に言ったんだよ」 「なんて……?」 「三十分置きに連絡をして、安否を伝えることって」 「……」 「最後に連絡が来てから、もう四時間前が経つ」 「それは……」 「きっとそういうことだ。それにこいつ、俺が撃ったこいつ、俺の唯一の兄弟なんだよ」 「え……」 「法律がなくなって、家族もいない。頼まれたんだ……終わらせてくれって」 「それって、スピカ様とアルト様への復讐じゃないですか」 「今度は少年か、どうした話ならいくらでも乗るよ。俺もいつまで生かされるかなんてわからないからな」  僕は無意識に、声をあげてしまっていた。 不意に頭を過った、復讐を目的に教会を訪れた彼と、声を震わせる目の前の少女の影が重なってしまったから。 「みせしめに、人を殺めたんじゃないですか」 「最初にも言っただろ、これは最高の信仰なんだ」 「え……」 「代弁するわけではないが、僕達は疑うこともせずに『スピカ』と『アルト』という存在を信じてきたんだ」 「はい」 「掟なんて、時々頭では思ったよ『生命を重んじるなんて不可能だ』と。俺もそんなに単純な頭の造りをしている訳じゃないからな」 「……」 「それでも受け入れることを選んできた、その存在を信じたかったからな」 「残酷ですね」 「愚かだよ、もしかしたら架空の存在かもしれないのに、みたことすらないものを信じて命すら捧げてしまうのだから」  彼女は俯いて、頬から滴が伝っている。 人々の咽び泣く声は、いつしか啜り泣く声へと変わった。 この瞬間にも、人工知能から選別された誰かの生命が終わっている。 「僕達はね、独りじゃ何もできないんだ」 「大人になっても……ですか?」 「大人も子供も変わらないよ、人間は人間だ」 「それなら、どうやって生きるんですか」 「縋るんだよ」 「縋る……?」 「何かを信じることに、愛することに縋って、それを離さないんだ」 「それに何の意味があるんですか?」 「意味なんてないのかもしれない。幸せになる保証だってない、事実俺は家族を全員喪くした。これは縋った代償だから仕方がない」  彼の瞳は寂しそうで、それでも全てを拒絶したような手の差し伸べ方のわからない瞳だった。 三日後の僕は、上手に手を差し伸べられているだろうか。 「パルラ」 「なんだ、ニア」 「間違ってないよ」 「え……」 「世界を創って愛したスピカ様とアルト様も、それに縋った私達も、誰一人間違ってなんかないよ」 「そうだな、そうなのかもしれないな」 「どうしてかわかる?」 「……馬鹿な俺にはわからないや」 「確かに救われていたからだよ」  法律を消すことの必要性も、それによって人を殺める人間の気持ちも、僕には理解ができなかった。理解することが、失礼にあたるような気がした。 ただ、それほど縋りたい何かがあったことと『信じる』という行為の深層を僕はこの目で受け止めた。 信仰心は人を生かし、時に人を奪う。 そんな単純な因果のもとで、人々は何かに縋っている。 「ニア」 「何、パルラ」 「俺の勘だが、ニアは到底死にそうにない。だから縋り続けろ」 「え……」 「ニアが生きたいように生きろってことだよ」  そう言い残し、男は動かなくなった目の前の人間を担いだ。 人混みを掻き分け、どこかへ歩いていく。 行方はわからない。 「ニア」 「……ノエル」 「他に行きたい場所がないなら、屋敷へ帰ろうか」 「…帰ろ、ごめんね。こんなことに付き合わせて」 「いいんだよ、僕にとっても必要な時間だったと思うから」 「…ねぇ、ノエル」 「ん?」 「手、繋いで帰りたい」  彼女は僕の目をみてくれない。 俯いたまま辿々しく足を動かして、時々目元を手で拭う。 交わす言葉もないまま、屋敷の敷地内の芝生を踏む音だけが僕と彼女の鼓膜を刺激する。 「ねぇ、ノエル」 「どうしたの、ニア」 「私、信じなければよかった」 「え……」 「私、何も知らなかったんだ。言葉を絵画に重ねて『この世界の全て』だと思い込んでただけだった」 「それがどうして『信じなければよかった』に繋がるの?」 「私、今思っちゃってるんだ」 「何を?」 「スピカ様とアルト様は私達を裏切ったって」 「……」 「こんなこと思いたくなかった。でも私はその存在を信じて、理想を描いてしまったから、だからそんなふうに感じちゃうんだよ」 「ねぇ、ニア」 「何……?」 「疑わなければいいんだよ」 「え……」 「『信じる』じゃなくて『疑わない』。その存在を信じられなくなったら、疑わずに遠くからみてみる時間をつくってもいいんじゃないかな」  これは僕が、この世界で初めに教えてもらったこと。小さくて、でも賢い、誰よりも優しさを隠していた少女の生きる術。 彼女の言葉を僕が代弁したところで、届くものなんてないのかもしれない。 だって、それは彼女の言葉だから。 そんなことをわかっていても僕は、僕が信じてしまっている言葉を彼女に伝えたかった。 「でもね、ノエル」 「何」 「私ね、今は裏切られたって思っちゃてるけど……確かに救われてたんだよ、スピカ様とアルト様に」 「そうだったんだね」 「私はずっとあの部屋の中でひとりだったけど、独りじゃなかった」 「え……」 「壁の絵に話しかけても、返事なんて返ってこない。そんなことはわかってるけど、それでも私は寂しいって思わなかったから」 「ニア……」 「だから私は、スピカ様とアルト様のことを信じてた。そして今は疑いたくないって思ってる」  彼女が僕に向けた表情は、どこか苦しそうで、それでも光がみえた。 それが僕にはなんとなく、彼女が息を止める最期の表情のように映った。 この世界が終わるということは『スピカ』と『アルト』という存在が、事実上無いものとされることに等しい。 そんな世界で、彼女が生き続けることを望むと僕は到底思えなかった。 「ねぇ、ノエル」 「どうしたの」 「ノエルはさ、どんな世界を創ってくれるの」 「……わからない、わからないけど優しさが無い世界は嫌だな」 「そっか、ノエルはこの世界に優しさはあったと思う?」 「あったよ、僕はその優しさの中で息をしてきたと思ってる」 「それはどうして?」 「誰が何を心から信じているかなんて僕にはわからないけど、人を殺めたあの人も、神を信じたあの人も、根底にあったものは全て優しさだったと思うから。僕はそう、思っていたいから」 「そっか、ノエルなら優しい世界が創れそうだね」 「ニアは?」 「私は世界なんて創らないよ、知ってるでしょ?」 「そうじゃなくて、どんな世界で息をしたい?」 「私は、誰も独りにならない世界がいい」 「……そっか」 「ねぇ、ノエル。伝えたいことがあるんだ」 「聴かせて」 「ごめんね、私……ずっと、私自身の愚かさを認められなかっただけなんだ」 「え……」 「たぶん、信じてた訳じゃない。考えることから逃げていただけだと思う」 「でもさっき『確かに救われてた』って……」 「ごめん、たぶんそれも半分嘘」 「本当のこと、聴きたいな」 「私の部屋には、ふたりに関するもので溢れていたから退屈だって思ってた」 「うん」 「だから最初は本なんて読まなかったし、壁に掛けられた絵も奇妙なだけだと思ってたんだ」 「……そうだったんだ」 「でもね、途中から受け入れた方が楽だってことに気づいたの」 「どういう意味……?」 「信じたことにしちゃえば、私は好きなものに囲まれた幸せな子になれる。それに気づいてから、私は『信じてる』っていう形に拘るようになったんだ」 「……」 「だから私は教会にいた人達みたいに、スピカ様とアルト様を信じる理由を持ってない。理由どころか、ふたりの何を信じているのかすら私にはわからない」 「……ただ、惰性で信じることを選んだの?」 「そうだよ。だから私は信じたかったんじゃなくて、きっと何も考えたくなかっただけなんだと思う」  彼女の口から、信じ難い真実が語られる。 彼女が背表紙をなぞる指も、額縁を撫でる手も、その一つ一つを眺める瞳も、本当のものだと思っていた。 それでもどこか、彼女の真実に込められた想いに共感してしまうような僕がいる。 それは、惰性で『生きる』という選択肢を受け入れてしまっている僕なのだと思う。 「ノエルをみた時、私は失礼な態度をとってしまった」 「え……」 「ただ遺伝子が強く継がれているという情報だけで、ノエルとあのふたりを重ねてしまったこと。本当にごめんなさい」 「そんなことはいいよ……ニア、頭をあげて」 「でも、今は違うってわかるよ」 「……そうなの?」 「わかる、ノエルはノエルだった」 「……」 「隣で、初めて顔を合わせた私の話を聴いてくれて、本には載ってないけどすごく優しい人だった」  信じることと、考えないこと、それはきっと紙一重な感覚。 どちらも人を救う感覚だけれど、そのどちらかは人を虚しさで埋めてしまう。 「ノエル、私は考えられる人になりたい」 「ニアならなれるよ」 「どうしてそうなりたいかわかる?」 「……寂しくならないため?」 「違うよ、人を傷つけないため」 「え……」 「考えたうえで信じたいし、考えたうえで疑いたくない。私はもう、未遂だとしても誰かを傷つけるようなことはしたくないから」 「……そっか」 「だからノエル」 「ん?」 「私、生きるよ」 「え……」 「この過ちを償うために生きる、生きていないとなりたい人間になれないから」  そう笑う彼女の顔に嘘はない。 僕の手を掴み、屋敷の扉を開けた。 『私、この階段降らないからね』  そう言い、彼女は無邪気に部屋への階段を駆け上がった。 登った先で僕を待ち伏せ、僕に手を手を振る。 優しい世界を創れるような気がする。 彼女が考えられる人間になれるような、心から信じたいと手を合わせられるような世界を。
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