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八章
朝になっても、僕の部屋は暗いままだった。
カーテンを開けても、僕の力では開けることのできないシャッターが邪魔をする。
その代わりに耳を劈くようなサイレンと、警笛の音が防音の壁を突き破って聴こえてくる。
法律がなくなったことが関係しているのかもしれない、それにしては朝から物騒すぎるけれど。
「……おはようございます、いらっしゃいますか」
強めに叩いた扉への応答がない、間隔を空けて何度か尋ねても返事が帰ってくる気配すらない。
一瞬躊躇ったものの、僕は扉に手を掛けた。
「え……」
鍵で止まると思っていた扉は、簡単に開いてしまった。
それでも声は返ってこない。
「誰かいらっしゃいませんか……」
進んだ部屋の違和感に気づく、窓が開いている。
窓際の縁には靴が丁寧に揃えられていて、そのすぐ横に封筒が添えられていた。
宛名は『ノエル』、僕だ。
ー*ー*ー*ー*ー
初めまして、僕は『テラ』と申します。
朝からお騒がせしてしまってすみませんね。ノエルさんの貴重な朝の邪魔をしてしまいました。
結論から申し上げますと、僕は二日後に終わる世界に向けての選択で『死』を取りました。
僕は、二十二歳です。
ノエルさんと同じ環境なら、二十二年間この屋敷の狭いこの部屋にいたことになります。
それでも僕はずっと、言葉を交わしてきた一人の存在が在りました。
ノエルさんは、その方に会ったことがあるでしょうか。
『ヨミ』という、この屋敷の管理者であるとても美しい方です。
その方と、この世界の情勢を操る役を果たす。それが僕の人生でした。
だから八人の中で最も早く、この世界が終わること、法律と掟が無効になることを知ったのは僕です。
僕が最後にヨミ様と話をしたのは、三日前の夜になります。
ノエルさんがお聴きになられていたかはわかりませんが、無線放送の数分前のことでした。
法律と掟が無効になるという無線放送の担当が僕だったからです。
様々な放送中での留意点を伝えられた最後に、僕自身の選択の話になった時のことです。
ヨミ様から『生きてくれ』と頼まれました。
僕は返事をすることもないまま、放送を始めたんです。
僕は何度も考え直して、それでも選択の希望は変わらなかった。
それは、ノエルさんが僕のために一日を割いてくれたとしても変わらないと思ってしまうくらい。
だから、そんな人の死に立ち会うなんて酷なことをさせたくなくて、僕は今日の朝この窓から飛ぶことを選びました。
ショッキングな言葉を並べてしまって、ごめんなさい。
こんな僕の言葉よりも、新たな世界の創始者になる貴方に聴いてほしい言葉があります。
そしてその言葉を並べてくれるのは僕ではなく、ヨミ様です。
ヨミ様は近づき難い雰囲気を纏っていると感じてしまうかも知れませんが、彼女も人間です。
きっと心を開いて話すことができれば、素敵な時間になると思います。
この手紙を読み終わったら、ヨミ様のもとへいくように、これが僕からの一つ目のお願いです。
そしてもう一つは、貴方は僕と同じ選択をしないこと。
それではまた、何百年後か何千年後、貴方と顔を合わせて言葉を交わせることを楽しみにしています。
ありがとうございました、そして、さようなら。
ー*ー*ー*ー*ー
『テラ』と名乗る人間は、几帳面な字で綴られた手紙を置き去り飛び立った。
一日の猶予すらも諦めて。
その言葉に朝のサイレンと警笛の意味を知った。
きっとこの窓の下を覗けば、彼の眠った後をみることができる。
それでも僕はみないことを選ぶ、きっとこの人は僕にみられることを望んでいないから。
「……ヨミ様」
手紙を持ったまま、僕は階段を降った。
吸魂室への階段の反対側、温かいレースの雰囲気は奇妙なほどにいつもと何の変わりもない。
数日前、生きることを願った人間が死を選んだというのに。
「おはようございます、ヨミ様」
「あら、奇跡が起きたのかと思ったら……ノエル、貴方だったのね」
「すみません、僕も死者を蘇らせる力は持っていないので」
「大丈夫よ、私のただの妄想だから。そこに腰を下ろして」
朝の空気に触れたままの冷たい椅子の感触。
彼女の動かない表情に怯えながら、故意的に僕は無言を放置した。
「ノエル」
「はい」
「今日はどうしてここへ来たの?」
「……テラさんが僕への手紙に、ヨミ様のもとへ行くようにと記してくださっていたので」
「テラが……?」
「はい、新たな世界の創始者になる僕に聴いてほしい言葉があると」
「だから私のところに……」
「はい、その言葉はヨミ様から受けて取れる言葉だと」
「……あの子は最後まで、本当に気の利く子なのね」
「……」
「ノエル」
「はい」
「貴方に今日は、この世界が終わる本当の理由を伝えようと思う」
「本当の理由……?」
「ええ、そしてノエルを七人の生死の選択に立ち合わせた理由も伝えようと思う」
彼女は右手のティーカップをソーサーへ置く。
その表面同士が接触する音に緊張が走る。
「まず始めに、五日前ノエルに伝えた理由を覚えてくれているかしら」
「はい、この世界で初めて自ら命を棄てた者がいると教えていただいた記憶があります」
「そうよ、よく覚えてくれていたわね」
「……忘れられませんよ」
「ノエルが信じてくれるかはわからないけどね、命を棄てたのは私の実の娘なのよ」
「え……」
「私はね、スピカとアルトの間に生まれた娘なの」
淡々と、それでも慎重に明かされていく事実に相槌すらも止まってしまう。
信じる、疑うのどちらでもない。選択肢もなく、受け取らなければいけない言葉を僕は咀嚼する。
「……そうだったのですか」
「ええ、だから本当なら私が新たな世界の創始者になるはずだったのよ。そのために生まれてきたも同然だったからね」
「それなら、どうして僕が……」
「私は、最も神聖な人類としての扱いを受けてきたの」
「……どういう意味ですか」
「檻の中で、何もない部屋の中で、この屋敷よりも酷く寂しい場所で育てられた」
「……」
「でもね、私に世話を焼いてくれるような優しさを持った人が一人だけいたの」
「どんな出逢いだったのですか」
「当時の使用人よ、容姿も美しくてね。一日の中で三度だけ逢えるの、それでもその使用人は部屋を抜け出して私の部屋の扉を叩きに来てくれるような……ちょっと遊び心のある少年のような人だった」
「……そうだったんですか」
「彼は優しく私の名前を呼んで、素直な笑顔をくれる人だった。それが私には暖かく感じてしまってね」
「……素敵な出逢いですね」
「私が十八歳を迎えた日、私は初めて彼を部屋の中に招いたの」
「それは……」
「密かに交際を始めていたのよ、私が十五の頃からね。だから部屋に招いた理由は察してくれると嬉しいわ」
「わかりました」
「私はね、幸福か不幸かは分類しづらけれど娘を授かったのよ」
「それが……朝おっしゃっていた」
「そうよ、私と彼の娘。名前は『サラ』可愛らしい名前でしょ」
「はい、すごく」
「でもね、彼女が生まれてからすぐ父親である彼は処刑されてしまったの」
「え……どうしてですか」
「私が規則を破ったからよ」
「……規則」
「誰かと恋に堕ち、愛し合ってはいけない。それがこの血を重んじる規則の一つだった」
「そんな規則があったのですね……ヨミ様はご存知だったのですか」
「ええ、私だけでなく彼も知っていたわ。それでも私達は逆らってしまうほど、おたがいを愛してしかたがなかった」
「……」
「ノエル」
「……はい」
「これは今から三千年前の話よ」
「え」
「私は、娘を授かった瞬間から歳を取らない身体になったの。だから私は実質十八歳、でも本当は三千歳を優に超えている」
「……ちょっと理解が追いつかないです」
「そうよね、突然こんなことを話してしまって申し訳ないと思っているわ」
彼女が紅茶を啜る。
その仕草を目で追いながら、僕はひたすら真実を脳内で反復させる。
「娘さんとは、どうなったのですか」
「娘から、スピカとアルトの遺伝子は検出されなかったの」
「ヨミ様の娘さんなのに……ですか」
「きっと彼の遺伝子が過剰に反応したのだと思う、だからサラが生まれて二ヶ月が経った頃に里親に送り出さなければいけなくなったの」
「そんな……」
「そして彼女も十八歳で身体の老化は止まる、私のせいでね」
「え……」
「私が十八歳で止まったように、彼女もその特性を引き継いでしまったのよ」
「それなら……彼女はずっと」
「そうね、そのことを知っていた娘の御両親は娘が十五の時に家を出したそうよ」
「それはどうして……」
「確実に、娘よりも生きられないから。だから責任者という形で、その家系でずっと娘を遠くから支えてくれていたらしいの」
「そうだったのですね……」
「親切で温かい方々なのよ、時々写真を送ってくれたり、様子を伝えてくれるの」
「不幸中の幸いなのかもしれませんね」
「ええ、本当に言葉には表せないほどに残酷な縁だった」
「……どういう意味ですか」
「私の娘を支えてくれていたのは、テラの御両親だったのよ」
「え……」
「二十二年前、遺伝子が検出されたテラを屋敷で引き取る際に告げられたのよ」
「テラさんの御両親から、ですか」
「ええ、そうよ。言葉は濁されたけど、確かにそう事実を伝えられたわ」
「……」
「娘の死を知れたのも、その方々のおかげだった」
何千年も独り生き続けた彼女の娘と、その運命を受け入れるという選択肢しか与えられていなかった彼女。
娘の未来も知れぬまま、世界から排除されてしまった彼女が唯一愛した人。
今の話が全て、僕の感性を養うためのフィクションであってほしい。
でもそんな不謹慎なフィクションなんてないということはわかりきっていて、彼女の表情から嘘など一つもついていないことがわかってしまう。
「だから娘が死を選んだ本当の理由を私は確かめることができない。でもきっと、息苦しかったのだと思う」
「……息苦しさ、ですか」
「『バレてはいけない存在』という自意識を背負って生きていくということが、どれだけ苦しいことか想像がつく?」
「想像しかできないことが……申し訳ないです」
「いいのよ、こんな無理難題を受け入れてくれて本当にありがとう」
「それが、世界を終わらせる本当の理由ですか」
「いいえ、後一つは私の両親であるスピカとアルトが理由よ」
「え……」
「この世界は確かに平和、求めずとも愛に満ちていると思う」
「僕もそう思います」
「よく何千年と歴史を刻んできていると思うわ」
「はい」
「でもそれは、この国が酷く無機質で盲目的だからだと私は思ってしまうのよ」
「……詳しく聴かせていただいてもいいですか」
「絶対的存在を慕うこと、敬うこと、命を重んじ、幸福で在り続けること。それだけを追い続けた愛の先に、ノエルは何があると思う?」
「……変わらない愛の在り方が残ると思います」
「私はそれに価値を、希望を見出せなかった」
「……」
「ただ『掟に従っている』という形骸化した愛は、もう誰にも本質を取り戻すことはできないと思う」
「それが理由ですか」
「そうよ、だからこの世界を終わらせるということは単なる私のエゴの形なのかもしれない」
「エゴ……」
「私は世界を始める権利を失った、愛おしい娘と彼の存在を代償にね。だから終わらせて、貴方に、ノエルに託したいと思ってしまったの」
あの日、言われた言葉が脳裏を過ぎる。
『世界の創始者になるなら、もっと卑怯になって』と、その言葉を届けるべき相手は世界を終末へ導く彼女だったのかもしれない。
「私はこの世界に嫌気が差してしまったから、だから……」
「それなら、どうして何も知らない僕に創始者を託したのですか。テラさんのような頼り甲斐のある人を選べば……」
「五日前にも話したように、ノエルは何も知らないからよ」
「……」
「テラは、今話した全てのことを知っているの。だから、私は彼を息子のように可愛がってきた」
「そうだったんですね……」
「彼とは幾度となく言葉を交わしたわ、私の過去について、テラの御両親について。そしてこの屋敷の構造について」
「屋敷の構造……?」
「一つ例を挙げて話をするなら、使用人が顔に布を覆っている理由が最適かしら。それがテラと定めた最初の事だったからね」
「どんな理由があるのですか」
「私の過ちを繰り返さないためよ」
「え……」
「使用人と恋に堕ちてしまった私と、同じ罪と別れを与えないため。人の温かさを遮断することを提案してきたのは、私の過去の話を聴いた直後のテラだった」
「……的を得た提案ですね」
「そうね、テラは頭の切れる子だったから」
「……それなら僕より、テラさんのような人の方がいい世界を創れますよ」
「そうね、そうかもしれない。でもきっと全てを知ってしまっているテラに世界を預けてしまったら、また同じことを繰り返してしまうような気がしたのよ」
「それなら、僕を生死の選択に立ち合わせた理由は……なんですか」
「ノエルに、正解のないことを感じて、知ってほしかったからよ」
「正解のないこと……」
「ノエルの頭の中にある感情も思想も、きっと一つも正解なんてわからないものだと思うわ」
アイラ、イリア、ランセ、ミスタ、ニア、テラ。
僕が六人から授かったものに、きっと名前も正解も存在しない。
そんなことで括ってしまうことは不毛だと感じてしまうほど、一つしかないものだったから。
「スピカとアルトは、確かに愛情を持っていた。それでも、ふたりは何も知らなかった」
「え……」
「人の感情も、思想も、心も知らないまま世界を創ったの」
「……」
「でも、それは私も一緒よ」
「どういう意味ですか……」
「私は何も知らないまま、たったひとりを愛したいと思ってしまった。その裏に生まれる残酷もわからない、稚拙なまま」
「……」
「ノエル」
「はい」
「確かに何も知らないということは、知恵のある人には計り知れない創造性を持っているわ」
「……はい」
「でも、何も知らないということは、誰かを傷つけてしまう意識を知らないままでいるということなのよ」
事実、スピカ様とアルト様は何も知らぬまま愛を育み、キスをした。
そうして創られた世界は探さずとも幸せが転がっているような世界だった。
けれど、深層に目を向ければ、哭いている人間はそれ以上に存在していたのかもしれない。
彼女はきっと、僕に全ての幸せを創る方法を教えたかったわけではない。
幸せが成り立つ裏で、発生してしまう不幸の存在への気づきかたを伝えたかったのだと思う。
あくまでこれは、僕の稚拙な想像だけれど。
「ヨミ様」
「何、ノエル」
「僕に、知恵よりも大切な何かを授けてくださりありがとうございました」
「……その言葉が聴けたなら、私はノエルにこの選択肢を与えても大丈夫そうね」
「……選択肢?」
「この世界は、スピカとアルトのキスによって始まったわ」
「はい」
「始まりは、新しい世界も変わらないのよ」
「え……」
「明日、ノエルが出逢う相手が共に世界の創始者となる人物」
「……はい」
「でも、世界を始めるかどうかは最終的にノエルに委ねたいと思う」
「どういう意味ですか」
「そのままよ。明日、ノエルがキスをすれば世界は始まる。でも強制はしない」
「それは……」
「このまま、世界という概念すら終わらせても構わないという意味よ」
突然の宣告に、震えた僕自身の手を握りしめることしかできない。
与えられていた未来を、運命を受け入れるだけの僕に選択肢が降ってきた。
彼女は目を合わせてくれない。
それはきっと、僕が酷く情けない目をしているから。
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