第六話 捜査本部

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第六話 捜査本部

 自分らの捜査本部となる、都心からぎりぎり外れる手前の工場町にある雑居マンションに須藤は到着した。  その建物は昭和の時代に建築されたままのものなのか、壁のあちこちに亀裂が走っているうえ、非常階段の大半が錆びており、床も多くのタイルが剥がれている。しかも、ほとんどの部屋の窓から灯りが漏れておらず、人の気配がまったくない。もはや取り壊しのカウントダウンが始まっているような廃墟といっていい。  むしろ、それが警察の隠密捜査を扱う本部の設置場所と選ばれた理由なのかもしれない。 「うっひゃひゃー! いいじゃん、いいじゃん。最高かよ、この捜査本部! なんかばんばん悪党を退治できそ!」    今はドクロの絵が大きくプリントされたTシャツに厚手のアーミージャケットを羽織っている口裂け女が部屋の中をぴょんぴょんと跳ねまわる。  頭痛を感じ始めた須藤はげんなり溜息をついた。 「ああ……なんでこんな事に……」 「後でスマートフォン支給されたら、この捜査本部の写真とってSNSにあげていい? 私もあれやるから! だから後でやり方を教えてよ、巡査部長」 「ダメです。こんなところでも警察の極秘の施設なんですから、情報漏洩は許されません」 「ちぇーっ、いつの時代もお固いねえ、警察は。あ、てかもう私もその一人だった。警部だ、警部!」  実際、この捜査本部兼住居にあるのは寝室のベッドに、居間に置かれたTVと横型のソファー、キッチンには冷蔵庫と食器棚のみ、という正直まったく洒落っ気もクソもないコーディネートなのだが約半世紀もの間、地下牢に幽閉された口裂け女から見ると、この捜査本部は豪華ホテルまでとはいかなくとも、それなりにはしゃいでしまう環境なのだろう。    須藤は入室時に抱えてきた段ボール箱をテーブルに置くと、いつの間にか奥の部屋に進んで窓の外の光景を眺めている口裂け女の背中に声をかける。 「さあ、こっちへ来てください。明日から捜査です。早速、警察からの支給品をお渡しします」  しかし、口裂け女は返事一つ返さず、傍を流れる川と土手を行き交う人々をぼうっと見続けている。 「え? どうしました? 支給品です。待望の警察バッジとスマートフォンを渡すんですよ。お待ちかねだったんじゃなかったんですか? 特に警察バッジが」  だが、振り返りもしない。    あ……そういうことかあ……と、ある言葉が足りない事に気がついた須藤は物臭そうに一度息をつく。  やれやれ…………。 「警部殿、支給品です。あなたの輝ける新しい人生を保証する警察バッジとスマートフォンを今ここでお渡しします、警部殿!」 「ハイハイ、行きます行きます。警部さんが今すぐ行きますよ! なんでしょなんでしょ?」  そう元気よく返事すると、口裂け女はホップステップジャンプの容量で須藤の前まで飛んできた。  ああ……先が思いやられる、この昭和の都市伝説。    口裂け女はワクワクという感情を表情に出しながら勝手に段ボール箱をまさぐり、中から手帳を取り出す。 「さてとさてと、警部から質問だ。これはなんだね、巡査部長?」  ……本当に事件の捜査の名の下にこの茶番を続けなければならないのかと、須藤はげんなりした顔で答える。 「警察手帳ですよ。捜査一課所属と記されていますが、あくまでもそれは表向きの肩書です。ひとまず広げてみてください。警部の写真と待望のバッジが中にありますから」 「おお、これが本物の警察バッジ? マジか?」  と、口裂け女は喜々とその手帳を開くが、その中身を見るやいなや不快そうに顔をしかめた。 「んん、なんじゃあ、こりゃあ!」  ええ……今度は何よ……もう……。 「なんですか、警部? バッジについている写真の写りが悪いってクレームだったら僕は知りませんよ。その写真が撮られた時、僕は自転車で町のパトロールをしてたんですから」 「涼風理沙?」 「はい?」 「いや、このバッジ。写真は私だけど、名前、涼風理沙ってなってる」 「ああ、それがあなたの新しい名前ですよ、警部殿。これからあちこちに捜査に行くんですから、まさか口裂け女なんて現役時代のリアルな名前使うわけにはいきません。爽やかないい名前をもらったじゃないですか」 「うげええええええ!」    え? うげええええええ? 「これ、なんかカマトトぶったお清楚な小娘みたいな名前で嫌だ。こんな名じゃ捜査なんてできないな。他の名前にチェンジだ、チェンジ!」 「全国に実在する全ての涼風理沙さんに謝りなさい! 田舎のぶりっ子の名前なんかじゃありません。素敵な品格のある名前です! ともかくもうその名前でいろいろ登録されているんですよ、警部。今さら他の名前への変更はききません!」 「いやいや、私も子供じゃないんだから大人の女らしいぐっと貫禄のある名前にしてよ。夏目雅子とか大原麗子とか」 「多分それは昭和ネタですね。けどダメです」 「それなら早見優とか堀ちえみとかかわいい系で」 「その二つの名前は僕でも知ってます。けどそれもNGです」 「分かった、じゃあ今度は横文字を入れてジャッキー佐藤かマキ上田。うん、それ! それ、それでいこう! 強そうないい名前じゃあないかあ!」  え……誰、それ? 「おいおい、まさかビューティーペア知らないの? マジか? コンビで歌手でテレビのバラエティや映画はもちろん年末の紅白歌合戦にも出た女子プロレスの世界チャンピオンだぞ?」 「漫画じゃあるまいしそんなハチャメチャな設定の芸能人が現実にいるわけがありません! 冗談もいい加減にしてください。ともかくダメです! 僕にはあなたの名前を変える権限もありませんし、くだらない文句を言っていると上に知れたら口裂け女って名札つけて地下牢へ戻されますよ、涼風理沙警部!」 「ちぇっ……くっそお」  理沙は口を尖らせながらも、バッジをジャケットのポケットにしまった。  須藤はその唇を細目でじーっと見つめると、疑念たっぷりの目で眉をひそめる。 「ん、どうした、人の顔をじっと見て?」 「質問があります、警部。個人的な質問になりますけど……明日からの捜査の前にこれだけはしっかりと確認をとっておきたいので」 「いいよ、もうコンビなんだから遠慮なく聞いちゃってよ、巡査部長」 「あなた……本当に口裂け女なんですか?」 「なんだ?」 「いえ、だからあなた嘘偽りなく口裂け女なんですか? 冗談抜きで」   「あー……そのだ……男女が一つの部屋に二人きりという、いいムードなこのシチュエーションでの個人的な質問ってのがそれ?……」 「そうです。今の僕にとってはとても重要な問題です。共に事件の捜査をするのですから」  今はあえてフリーターのギャルにしか見えないという発言を控えた須藤に向かって、理沙は他に答えようがないと言わんばかりに両肩を傾げた。 「残念ながらそのとおり、正真正銘の口裂け女ってやつでして」 「しかし、でも……実際、裂けてないじゃないですか……口?」    その質問に理沙は意外な質問を受けたとばかりに目を大きく見開く。 「いやいや、おいおい、このご時世にリアルに口が裂けた姿で街に出ちゃやばいっつの! そんな姿を見られた日にゃあ、捜査どころかたちまちまた世間に恐怖の噂を与えてあの時代の繰り返しになっちゃうって。あの顔が今年のメイクの流行ってわけじゃなし、もうあの顔は封印だ!」   と、理沙は今後は酸っぱい顔をして首を横に振った。 「それにあの当時はあちこちの週刊誌にある事無い事書かれて大変だったのなんのって。やれ口裂け女の正体は成形手術に失敗して発狂した患者だの、やれ本気で走ったら時速200キロだの、刃物で誰これかまわず襲うだの、実際、何度誉棄損でマスコミを訴えてやろうと思ったことやら!」 「違うんですか? それらの逸話」 「おいおいおい、だからどれもこれも出鱈目だっつの! べっこう飴なんて産まれてから一度も食べた事ないし、ポマードの臭いにも弱くない。てか、おいおいなんだ、ポマードって? 整髪料だぞ、整髪料! なんで怪物が十字架でも呪文でもなく、たかが整髪料にビビらなくちゃならない? マジか? いったいどんな怪物設定なんだっつの!」  そうか……やはり効果なしか。そうだよな、ただのポマードだし……ひとまず気休めで買っておこうかと思ってたけどやはり効果がないのか。 「で、巡査部長、君は怖くないのかな?」 「何がです?」 「え? 何がって、ほら一応、警察の捜査の一環とはいえ都市伝説の怪物と一つの部屋で二人きりなわけだよ。恐怖の一つや二つは感じたっておかしくないシチュエーションだ」  言うと理沙が獲物を前にした獣のようにギラリと目を光らせた。 「遠い昔の話とはいえ、口裂け女の残虐エピソードの一つや二つは知ってるでしょ? そのリアルな口裂け女が今、あんたの目の前にいるわけだ。しかも逃げ場なしで」 「うっ…………」  正直言って、須藤の心中は穏やかなものではない。だが万が一、この都市伝説の怪物が自分を攻撃して逃亡を企てる事態が生じた時のバックアップとして、公安の刑事二人が捜査本部の近辺に潜んでこちらを監視している。
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