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 切燈台(きりとうだい)に灯された小さな火が揺らめき、文机に置かれた紙屋紙(かやがみ)に映る火の灯りもゆらりと乱れる。  書き物に集中していた弧月(こげつ)は頬にかかる白金色(しろがねいろ)の長い髪を押さえ顔を上げた。 (風は吹いていないと思ったが……?)  見ると、燈盞(とうさん)の油の中に焦げた羽虫が浮かんでいる。  どうやら灯りに釣られ火に入ってしまったようだ。 (自ら火に入るとは……憐れな)  小さな命が絶えたことに僅かながら哀しみを覚えた。  夏にはよくある光景だというのに、何故か今日は感傷的になってしまっているらしい。  集中力が途切れ、蒸し暑さを思い出し自嘲気味に笑う。  夏虫さえも寝静まったかのように静かな夜だったため、暑さも忘れ集中していたようだ。  気付けばじっとりと汗をかき、衣が肌に張り付いている。その不快さに細く弧を描いた眉をハの字に変えた。  じわりと額に浮かぶ汗を手の甲で拭うと、弧月は火よりも赤い紅玉色の瞳に灯火(ともしび)を映す。  ゆらゆらと惑わすように揺れる灯火は、まるで何かの予兆を知らせているかのようだ。  ……何故か、胸の奥が騒めく。  ちりちりと焦がされている様な、焦燥に似た感覚。  その焦りの正体を探ろうと、自身の内面に没入した。  力の根源。心の内面。それらの奥深く。  そうして最も深い場所に焦がれるような思いを感じ取る。  だが、確かな形を得ようと集中した途端声がかけられた。 「主上、夜分失礼致します」  馴染みのある声に意識が引き戻される。  掴みかけていた焦りの原因はわずかに指先を掠り離れて行ってしまった。  焦がれるようなその思いは何だったのか。  自身に眠る感情(もの)だというのに、離れてしまった途端片鱗すら掴めない。  ふぅ……と弧月は小さく諦めの息を吐き、かけられた声に答えた。 「……時雨(しぐれ)か」  (えん)から呼びかけてきたのは幼い頃から馴染みのある故妖(こよう)時雨という男。  今代の帝である自分とは筒井筒(つついづつ)の仲であり、現在は側近として働いてもらっている。 「どうした? こんな時刻に。もう屋敷に帰って寝ているのかと思ったぞ?」 「お戯れを。主上が休まれていないというのに、どうして寝ていられましょうか」  言葉の端々に責める色を感じ取り、苦笑する。 「ふっ……堅苦しい話し方はよせ。こんな夜中だ、聞く者はない」 「では率直に言わせていただきます。……こんな夜中まで仕事していないで早く寝ろ」 「くはっ」  許した途端遠慮の無くなった物言いに思わず吹き出した。  元々遠慮のない性格だが、許したとはいえ仮にも帝である自分にここまで砕けた物言いをする者はいないだろう。 「入るぞ」  短く断りの声がかけられると衣擦れの音が耳に届く。  開けられたままの半蔀(はじとみ)の下をくぐり時雨は(ひさし)へと入って来た。  目隠しのための几帳(きちょう)から青みがかった黒髪が現れ、不機嫌そうな金の目が弧月を見下ろす。  文机の上の紙屋紙(かやがみ)を見た時雨はこれ見よがしにため息をついた。 「大体それはお前の仕事じゃないだろう? 下級貴族に任せておけ」 「任せられるものはやらせている。……重要な案件は任せられないのだから仕方あるまい」 「だとしても妖の頂点である妖帝(ようてい)のすることじゃあない」  断言する時雨に、弧月は苦笑するしかない。  妖が統べるこの国・故妖(こよう)国は世襲ではなく力が強い者が帝として頂点に立つ。  その力に畏怖することで他の妖達は妖帝に従うのだ。……本来であれば。 「お前の言う通りだ。……だが、俺の場合は事情が異なるだろう?」 「……まあ、任せられる人材が不足しているのは分かるが」  視線を逸らし渋い顔をした時雨は、勧められてもいないのに弧月の側にどかりと座った。 「だとしても誰より強い妖力を持つのはお前だ。歴代の帝は鬼の一族ばかりだが、お前だって一応その血は流れている」 「一応、な」  そう。強い妖力を持つ者が妖帝となるため、歴代の帝は最強の妖である鬼ばかりだった。  母は先々代妖帝の娘だったので自分にも確かに鬼の血は流れている。 (だが、俺は鬼ではない)  普段は妖としての姿を隠しているため今は平民の人間と似た姿をしているが、本来の姿は鬼とは似ても似つかない。  それを心苦しいと思ったことはないが、鬼でない故に弧月を妖帝として立てることを不満に思う輩もいた。  その多くが歴代の妖帝に仕えていた重鎮達だ。  彼らが弧月以外に妖帝に立てたいと思う存在がいるのも不満が出ている要因だろう。  そしてその重鎮達の手は下級貴族にも及んでいる。  大事な案件を他に任せるわけにはいかないのはそのためだ。  信用出来る人材は地道に作っていくしかない。  分かり切っている結論を思い出し、深くため息をついた弧月は切り替えるように未だ不満顔の時雨に問いかける。 「それより、こんな時刻にどうした? まさかそんなお小言のためだけに来たわけではあるまいな?」 「まあ、小言も用件の一つだが……起きているならば早く知らせた方がいいかと思ってな」  本題を言えと促した弧月に、時雨は表情を真剣なものに改めた。 「碧雲(へきうん)の手の者が(みやこ)をうろついてると報告を受け探らせていた件だ」 「碧雲……」  碧雲の名に弧月の表情も引き締まる。  碧雲とは先代妖帝の子で、弧月を良く思わない重鎮達が今代の妖帝にと推している人物だ。  少々傲慢で気性が荒い碧雲は、『弧月が治める都になど住めぬ』などと言い現在は都から出て先代妖帝が建てた別荘に住んでいる。  そのような相手の部下が自分の治めている都をうろついている。  嫌な予感しかしないというものだ。 「奴等、明日大門付近で何やらことを起こすらしい。手下の一人に上手く近づけたこちらの手の者が『明日大門には近付くな』と言われたそうだ」 「大門か……」  内裏から真っ直ぐ整えられた大路の先にあるのが大門だ。  塀で囲まれた都から出るための一番大きく立派な門だが、貴族が住まう場所からは離れている。 (俺に害を成そうというのであれば狙うべき場所ではないと思うが……何か裏があるのか?) 「明日大門には俺が詰める。内裏には小夜(さよ)を置いていくから、こちらで何かあれば連絡をくれ」  女房として仕えてくれている白南風(しらはえ)小夜も時雨と共に弧月とは筒井筒の仲だ。  小夜は山に篭る大天狗の親族で風を操る。都内であれば風に声を乗せ伝達することも出来るため、連絡手段としても優秀だ。 「ああ……」  報告に相槌を打ちつつも、引っ掛かりを覚えて軽く眉を顰める。   (何だ……? 胸の奥が騒めく)  焦がれるような思い。そして焦燥。  これは先ほど切燈台(きりとうだい)の灯りを見て感じたものと同じだ。  明日大門で何かが起こる。  それが自分にとっても一大事なことだと、この予兆が知らせてくれる。 「……俺も行こう」 「は? いや、大門は囮で内裏に入り込む隙を突くためかもしれないだろう?」 「分かっている、だが行かねばならない気がするのだ。……小夜が内裏に残るなら、何かあればすぐ知らせが来るだろう?」 「まあ、お前なら連絡が来ればすぐに内裏に戻れるだろうが……」  まだ少し渋っている時雨から視線を切燈台(きりとうだい)の小さな火に移す。  自身の中にある焦燥に触れると、何かに呼ばれている気がした。  今行動を起こさねば何か大事なものが消え去ってしまうかのような、そんな焦り。  揺らめく火を紅玉の目に映しながら、弧月はもう一度告げた。 「もう決めた。明日、大門には俺も赴く」
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