妖帝の妻

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妖帝の妻

 そのまま牛車に乗って密かに内裏へと向かう。  きぃぎぃと車輪の音が響く中、美鶴は屋形の中で弧月と二人きりでいた。  牛飼童はいるが、お忍びで来たため他の供は連れてきてはいないらしい。  大門の火事もあったため、時雨は警護のためにと外に出てしまったのだ。  牛車に乗るなど分不相応だと思っていた美鶴も共に下りようとしたが、時雨に困り笑顔で押し留められてしまった。 「貴女を秘密裏に内裏に連れて行かなければならないんだ、出られては困ります。それに、妖帝の妻となる方だ。尚更歩かせるわけにはいきませんよ」 (妻……ほ、本当に主上の妻となるのね)  覚悟は決めたはずだが、人に改めて言われると気恥ずかしい。  しかもその相手と牛車の中で二人きりなのだ。  いくら異能持ちとして仕えるだけのお飾りの妻だとしても、緊張はしてしまう。 「どうした? そんな隅にいては転げ落ちてしまうぞ?」 「は、はい」  弧月の邪魔にならないようにと隅に座っていたが、彼の言う通り入り口に近すぎる。  座り直そうと軽く腰を上げると、車輪が小石にでも乗ってしまったのだろうか。がたんと屋形が揺れた。 「あっ!」  体勢を崩し、本当に転げ落ちてしまいそうになる。  だが、後簾(うしろみす)から体が出てしまう前に弧月に腕を掴まれ引き寄せられた。  ぼすりと弧月の胸に飛び込む形で受け止められ、衣から煤の臭いの他に黒方(くろぼう)の薫物の香りがする。  その落ち着いた香りに癒される余裕もなく、美鶴の胸の鼓動が一気に早まった。 「ふぅ……危なかったな」  近くで聞こえる低い声にもぞくりと心が震える。  思えば、異性とこのように触れ合ったことなどない。  近くに感じたことのある異性と言えば父だけであったし、抱き締められたのも最早遠い記憶の片隅だ。  近年では殴られたことしかなく、触れ合いとは呼べぬものだった。 「あ、あのっ……申し訳ございません! もう大丈夫ですので、離してください」  それに母や妹にも触れてもらうようなことなどはなく、人の体温そのものが美鶴にとって未知の領域だ。  衣の下の硬い胸板を感じ取り、その体温にどこか安心する。  だが、その安らぎを自分が得てもいいのだろうかと不安も同時に過ぎってしまった。  だから離してほしいと願ったのだが。 「いや、このまま支えられていろ。何やら危なっかしくて不安だ」 「うっ」  幼子を見るような目で心配され、言葉に詰まる。  いくら何でも子供ではないのだから危険なことはしない。  だが、今まさに落ちそうになったのだから説得力もないだろう。  何より、弧月は掴む美鶴の腕を離すつもりがないらしい。  強く掴まれているわけではないが、簡単に逃れられるほど弱くもない。  何より、もう片方の手が優しくではあるが美鶴の腰に回された。 「あ、あ、あのっ……!」  鼓動がさらに早くなり、顔が熱を持つ。  あまりにも熱くて、目が回りそうだった。 「落ち着け、このような場所で取って食ったりなどせぬ。……だが、俺の妻となる女をよく知っておきたい」  あまりの慌てぶりに苦笑した弧月は、それでも美鶴を離すどころか囲い込む。  今度は腰に回された手をそのままに、腕を掴んでいた手が頬に触れた。 「煤がついている。内裏に着いたらまずは身を清めなくてはならないな」 「あ、も、申し訳ありません」  謝りながら、汚れているのだから尚更近付くわけにはいかないと離れようとする。  軽く胸板を押し逃れようとするが、まるで逃がさぬというように腰を強く抱かれた。 「しゅ、主上⁉」 「逃げるな、ここにいろ」  優しい声音だが有無を言わせぬ命令に離れることは叶わないのだと知る。  だが、ただでさえみすぼらしい身なりをしている自分を抱き締めてもいいことがあるとは思えない。  特に今は土と煤で汚れてしまっている。上質な衣を汚してしまうだけではないだろうか? 「あの、やはり離してくださいませ。汚れてしまいます」 「そんなもの……火事の中を走ったのだ、俺とて汚れている」  お互い様だと言う弧月に、美鶴はどうしたらいいのか本当に分からなくなる。  離れる理由を消されて弧月の腕の中にいることに困惑しか湧いてこない。  牛車から転げ落ちないためならば後簾から離れていれば事足りる。  自分のことを知りたいというならば、言葉を交わせばいいのではないだろうか。  このように抱き締めなくともいいはずだ。  なのに弧月は美鶴の腰を引き寄せ、煤で汚れてしまっているらしい頬に手を添え見下ろす。  赤く、魅力的な紅玉の瞳に見つめられ胸がどうしようもなく高鳴った。 (苦しい……胸の鼓動が早すぎて、息がまともに出来ないわ)  異性に抱き締められるのも、このように真っ直ぐ見つめられるのも初めての経験で、自分の身に何が起こっているのかも分からない。  ただ分かるのは、平常心を取り戻すには弧月から離れなくてはいけないということ。  なのに離れることは叶わず、紅玉の奥に宿る僅かな炎を見つめることしか出来なかった。 「美鶴……俺の妻となる娘」  形の良い薄い唇が、確かめるように言葉を紡ぐ。  低い声は、美鶴の心を惑わすように響いた。 「……何故だろうな? 今日初めて会ったばかりなのに、ずっとそなたを求めていたような気がする」 「え……?」 「こうしていると、尚更そなたを欲しいと思うのだ」 「え? あ、あの……?」  頬に添えられていた手も背に回り、ぎゅうっと密着するほどに抱き締められ戸惑いは増していく。 (ほ、欲しいとは? 異能の力のこと?)  予知の能力があるから妻にと望まれたはずだ。  妻と言っても、お飾りのはずだ。  なのにどうしてだろう。弧月からは確かな情を感じる。  抱き締められ、殿方の硬い腕を感じ、美鶴は高鳴る鼓動の行き場を探す。  黒方の香りは、美鶴を全く落ち着かせてはくれなかった。
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