妖帝の妻

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*** 「美鶴殿? 慣れぬ牛車に疲れましたか?」 「い、いえ……」  妖帝の後宮である七殿五舎(しちでんごしゃ)に連れて来られ、牛車から下りると時雨に心配そうに聞かれた。  だが美鶴は言葉を濁し大丈夫だと伝えるしかない。 (主上に抱き締められていたせいで疲れたとは言えないもの……) 「では時雨、俺はいくつか仕事を済ませてくる。美鶴のことは頼んだぞ」 「分かっております」  疲労の原因である弧月は何事もなかったかのように時雨に指示を出すと、美鶴に向き直り柔らかな笑みを浮かべた。  元結が緩んでいたのか、僅かに解けた髪を耳に掛けてくれる。 「ではまた、後ほど」 「は、はい」  後でまた会いに来てくれるということだろうか。  これからどうすればいいのか分からなかったが、時雨の指示に従えばいいのだろうと思い頷いた。  満足げに頷き返し、弧月は去って行く。  その後ろ姿を数拍見つめてから指示を仰ごうと時雨に目を向けたが、彼は何に驚いたのか目を丸く見開いていた。 「……主上が女性に、笑みを向けた?」 「時雨様?」 「あ、いや。とりあえずついてきてください」  はっとし歩き出した時雨に付いて行くが、彼は驚きから立ち直ったわけでは無いようで何やらぶつぶつと呟いている。 「身内以外には思わせぶりな態度は取らないと言っていたのに……どんな心変わりだ?」  小さな声でもその呟きは聞こえていたが、どういうことなのかも分からないため美鶴はただ黙って薄暗くなった内裏に足を踏み入れる。  妖帝の妻となり、この後宮にて一生弧月に仕えるのだ。  あまり自由はないだろうが、もとより自宅に引き籠っている様な状態だったので大して変わりはないだろう。  それに、弧月は自分の予知の能力を上手く使ってくれる。  運命をねじ伏せると言われる妖帝は予知で視た不幸な未来を変えてくれるのだ。  そんな方の力になれるというならば、これほど嬉しいことはない。  今までとは違う、貴族の世界。  人間と妖というだけでも違うその未知の世界へ、美鶴は覚悟を決めて足を進める。  そうして時雨に付いて行った先で一人の女性と引き合わされた。  艶やかな緑の黒髪に、さわやかな風を内包した透き通った青の瞳。  十二単を着た明らかに高位の女官に美鶴は少々気後れしてしまう。 「小夜、この娘――美鶴殿を宣耀殿(せんようでん)へ。詳しいことは後で話すが、更衣として弧月様に仕える娘だ。身綺麗にしておいてくれ」 「更衣で、宣耀殿へですか?」  美鶴より少し上に見える小夜と呼ばれた女性は訝し気に眉を寄せたが、すぐに表情を取り繕い了承の返事をした。 「かしこまりました。さ、美鶴様は私について来てくださいませ」 「あ、はい」  貴人に様づけされることに違和感を覚えながらも言われるがままに付いて行った美鶴は、湯殿に連れて行かれて小夜によって身を清められ白小袖を着せられた。  髪も梳かれ、小綺麗にされた美鶴は立派な部屋へと通される。おそらくここが時雨の言っていた宣耀殿なのだろう。  その頃には日も完全に落ちていて、御簾越しに綺麗に円を描く満月が見えていた。 「では、主上が参られるまでもうしばらくかかると思いますがここでお待ちください」  淡々と口にする小夜に、美鶴は「はい」と答えて少し迷ってからお礼を口にする。 「あの、ありがとうござ――」  くぅ……。 「……」  だが、言い切る前に腹の虫が鳴ってしまった。  思えば今日は朝に残り物を口にしただけだ。少ない食事に慣れているとはいえ、夕餉も何も口にしないとなると流石に腹は減る。 (は、恥ずかしい)  お礼を言おうとしていた所だというのに、それを中断してしまったことも決まりが悪い。  そんな美鶴に、小夜は思わずというように「ふふっ」と笑った。 「主上がいらっしゃる前に軽い食事をご用意しますね」  今まで頼まれた仕事をこなしているだけという印象だった小夜の笑みに、知らず緊張が解ける。  彼女からは悪意も好意も感じなかったが、その笑みには優しさが垣間見えたから。 「あのっ、ありがとうございます」  今度こそお礼を言うと、「良いのですよ」と柔らかい声が返って来て彼女はこの場を去って行く。  その後小夜の持ってきてくれた粥を頂き人心地ついた美鶴は、帳台の上に座りながら御簾越しの月を眺め、ぼう、と物思いに耽っていた。  足を踏み入れることなど無いと思っていた場所に来ていることに、戸惑うよりもただただ不思議に思う。 (死ぬと思っていたのに、妖帝の妻となるなんて……)  考えてみると有り得なさ過ぎて現実味がない。  だが、数刻前に火に囲まれたことも生きたいと願ったことも現実で、助けてくれた主上に仕えたいと思ったのも事実だ。  不思議には思うが、後悔などは一切ない。 (そうね……あの火の中で私は一度死んだのだわ。そして、あのお方に仕えるために生まれ変わった)  今日は自分の新たな生の始まりなのだ。今までの人生とは決別しよう。  走馬灯で見た母の記憶を思うとちくりと胸が痛むが、あの光景はもう二度と起こりえないものだ。  これからは妖帝に仕えることに尽力しよう。  美鶴はそう月を眺めながら密かに決意した。  すると、衣擦れの音と共に月が陰る。  美鶴と月の間に、男の陰が入り込んだ。
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