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岩肌が剥き出しの絶壁の谷。その頂上にほど近い、迫り出した崖の上に、木造の社が建っている。 小さいながらも、朱と金で装飾された壮麗な儀式社だ。谷に突き出す欄干を握れば、まるで空中に浮かぶ神殿のようだった。 社の中には、少女が一人。伝統的な巫女装束に身を包み、艶やかな黒の長髪には金糸の飾り糸が光る。 少女の名は、鈴葉(すずは)。漆黒の瞳は感情を映すことなく、空中の一点を見つめていた。 少女がいる社から少し下った開けた土地に、神社の本殿が建てられている。 儀式社と同様、美しく装飾された本殿を、白玉石を敷き詰めた庭園が囲む。庭園からは眼下の里が一望できるほか、勿論上の儀式社も見渡せる。その庭園に、今は大勢の人々が集まり、固唾を呑んで儀式社を見守っていた。 誰もかれも、高貴な身なりをしたものばかりだ。 「“生贄の儀”が執り行われるのは、何年振りかのう」 「この国の建国以来だから、何十年振りではなかろうか」 「“狐神様”に力が戻れば、我が国も長年の不作から救われることじゃろう。有難や有難や」 そんな地上のざわめきなど、空中の鈴葉には届いていない。鈴葉は静かに目を閉じて、深く息を吸った。 そう、鈴葉はこれから、生贄として崖から身を投げるのだ。 *❀٭*❀٭*❀٭*❀٭*❀٭*❀٭*❀٭*❀٭*❀*❀٭*❀٭*❀٭*❀٭*❀٭*❀٭*❀ ここ、“()ノ国”はこの山と、山麓一帯の平原に広がる緑豊かな国だ。鈴葉はこの国で、貴族の姫君として生まれ育った。 両親を早くに亡くしたため、鈴葉は専ら祖父に育てられた。祖父は善悪の教えには厳しかったが、根は大らかな人で、子供の頃の鈴葉は里の自然の中でのびのびと過ごした。 まだ小さな鈴葉の手を引いて、森に咲く花や畑に植えられた作物の名を、ひとつひとつ教えて歩いてくれたものだ。 ちょうどその頃、豊かな実りのお陰で繁栄を極めた華ノ国は、皇族や貴族たちが住まうための優美で広大な宮を、山間の土地に建て始めた。 崖に聳えるこの神社も、その時に建てられたものだ。とは言えまだ子供だった鈴葉はそんなことは露知らず、いずれ自分が里を離れ、その宮に昇って生活することになるとは、夢にも思わなかった。 当時は貴族も平民も関係なく、子供たちは里の野山を駆け回って遊んでいた。…いや、そもそも身分というものが、今ほど色濃く区別されていなかったのだ。人々は身分に関係なく里に住まい、畑を耕し、質素だが平穏な日々を送っていた。 それが、山間にだんだんと宮が姿を現し始めた頃。 皇帝から、勅命が出された。今後、皇族・貴族は“高台ノ宮”に住まい、国の政を司る。平民は引き続き、里に残って農耕に勤しむこと、と。 そして同時に、皇族・貴族と平民を分かつための様々な規則が作られた。 平民が高台ノ宮に足を踏み入れることは禁止する。平民から皇族・貴族へと声を掛けることは禁止する。皇族・貴族は神に近しい清らかな存在であるため、里への出入りには牛車を使い、土の上に足をつかないこと。 この勅命によって、鈴葉の生活は一変した。自由に里に出ることは出来なくなり、それまで一緒に遊んでいた友達とも、離れ離れになった。 勅命から程無くして、数年をかけて造営されてきた高台ノ宮は完成した。 最も高地に建てられた、ひと際煌びやかな建物は“上ノ宮”。皇帝を始めとする皇族たちのための宮だ。 次いで、二段目に広がるのが“中ノ宮”、三段目には“下ノ宮”と続く。それぞれ、上位貴族、下位貴族が住まう宮である。 山麓に広がる里から、皇族・貴族たちは続々と高台ノ宮へと越していった。 鈴葉と祖父も、里の家から中ノ宮の一角に移ることになる。鈴葉が十三になる年だった。 新居は豪奢で快適な作りだった。周りの貴族たちは各々、見事に設えられた庭園を眺めながら香を焚き締めたり、自室に客を招き茶を立てたりしている。 しかし、家にいるより森や畑で過ごすほうが心地よかった鈴葉にとっては、さながら美しい牢獄に閉じ込められてしまったようだった。 そしてそれは、自然と共に生きてきた祖父も同じだったらしい。中ノ宮に昇ってからというものの祖父はみるみる生気を失くし、一年も経たないうちに病を患い、呆気なく亡くなってしまった。 そして今、鈴葉は十七歳という若さで、その祖父のいる世へと旅立とうとしている。 (…どうして、こんなことになってしまったのだろう) 眠れぬ夜に、いくら考えども答えは出なかった。 ――いや、そのきっかけは、もうずいぶん以前から、始まっていたのだ。 高台ノ宮の完成が近づくにつれて、華ノ国の繫栄には蔭りが見え始めた。 穀物の実りは年々悪くなってゆき、平民からの穀税の納付も滞るようになる。役人たちの厳しい取り立てで民は疲弊し、ますます取れ高が悪くなるという悪循環に陥っていった。 そこで皇帝は、この国で昔から信仰されている“狐神”に生贄を捧げることで、この状況を脱却しようと考えた。 “狐神”は豊穣を司る神。遥か昔、華ノ国が建国された当時も生贄の儀は行われており、この地の豊かな実りはその賜物だと言われているのだ。 生贄となる巫女は原則、神聖な血を引く皇族の少女の中から選ばれるが、現在皇族に適齢の姫はいない。 そこで選出されたのが、上位貴族の娘である、鈴葉だった。 役人たちは口々に、「この国で一番清らかな巫女として、鈴葉が選ばれた」とか、「国を守るために身を捧げるなんて、この上ない名誉だ」とか言って鈴葉を煽てたが、その裏に黒い思惑が隠されていることを鈴葉は知っている。 鈴葉は、嵌められたのだ。皇族や貴族たちの中に渦巻く、嫉妬と欲望に飲み込まれて。 しかし不思議なほど、鈴葉は今、腹も立っていなければ悲しみに暮れてもいなかった。 その理由は恐らく――鈴葉がもう、この世界に絶望しきってしまったからだろう。 (――この世に留まることに、未練はない) ゆっくりと目を開け、鈴葉は目の前に置かれた椀を手に、立ち上がる。 宙に浮かぶ露台の上に鈴葉が姿を現すと、本殿から歓声が上がった。 集まっているのは、生贄の儀の立会人として選出された皇族・貴族たちだ。 「狐神の巫女よ!」 「清らかなるその身を以て、この国を潤し給え!」 そんな下界の熱狂を、鈴葉は冷めた眼で一瞥する。 (…あんな、高慢で独りよがりな人たちの中に、一生身を置くくらいなら) いっそこのまま、この世界から消えてしまった方が幸せというものだろう。 …ただ一つ、心残りがあるとしたら。 (琥珀(こはく)…) 胸に浮かんだのは、生贄となることが決まる直前まで、鈴葉の婚約者だった青年の顔だった。 手にした椀の中には、儀式のための聖なる神酒。その水面が一瞬、揺れる。 (…どうか、幸せに) 想いを断ち切るように、鈴葉は神酒を一気に飲み干した。 元々酒に弱い身体が眩暈を起こし、椀を取り落とす。それでもどうにか、露台の先端に足を進めると。 ――鈴葉はそのまま、空に飛び込んだ。 その時にはもう、強い酒のせいで気を失っていたと思う。 だからこの直後、自分の身に起こったことに、鈴葉は全く気付かなかった。 本殿で儀式を見守っていた者たちは、信じられない光景を目の当たりにする。 「――あれは…!?」 鈴葉の身体が谷へと落下し始めた時。 どこからともなく、強烈な白い光の帯が飛んで来た。そして目にも止まらぬ速さで鈴葉の身体をかすめ取り、また一瞬のうちにどこかへ飛び去ってしまった―― 人々はしばらく、呆然と立ち尽くしていたが。 「…狐神様じゃ」 やがて、誰からともなく、そんな呟きが零れだす。 「狐神様が、生贄の巫女をお受け取りになったのじゃ!」 「これで華ノ国に豊穣がもたらされる!」 「今年は不作から脱却出来るぞ!!」 小さな呟きは、やがて大きな歓喜の波へと移ろってゆく。 人々は互いに手を取り合い、肩を抱き合って、儀式の成功を喜んだ。 やがて山を下った人々によって、一連の出来事は皇帝に報告され、上ノ宮では祝いの宴が催されたのであった。
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