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「腹を満たしても、心まで満足するわけではない。栄養は足りても、調理せず食材をかじるのでは味気ないのと同じじゃ。特に満月の夜は余もちぃとばかしきつい。いっそサプリメントなんて捨てて人間の子を襲おうかと思ったこともあった」
「そうだったんですか。困りますね、その衝動という奴は……」
「しかし、物は使いようとは言ったものでの」
スプレーをシューと壁に吹きかける。うわ、やっぱりこの人、建物に落書きしてたんだ。しかも描いてるの、誰かの家のシャッターだぞ。二千年を生きる吸血鬼が、不良まがいのことをしてるなんて。やめるように言おうとして、壁に描かれた躍動感あふれる猫を見てあっと声を出す。吸血鬼は牙が見えるほど口角を吊り上げて、猫の隣にあるエンブレムを描いた。
「赤い月……。ま、まさか、Lunacy Queenなんですか!?」
「くっひひひひ! はてさて、どうかの? 『月夜の狂える女王』なぞと名乗った覚えはない」
Lunacy Queen――その存在はこの国で、いや世界で知らない人はいない。人知れず現れて、何の変哲もない街を一夜にしてアート街に変えてしまう覆面アーティストだ。その正体は不明、世界のどこにでも現れるから複数人いるんじゃないかとすら言われてる。何を描くかはその時によって変わるけど、決まって赤い月のタグ――サイン代わりのエンブレムを残すんだ。クイーンの描いた絵は何千何億の値がつくこともあるって聞いた。
そんな世界的アーティストが俺の目の前に? しかも二千年も生きてる吸血鬼で?
いやいや、急にそんな事実を突きつけられても。模倣犯って言ったら失礼だけど、本物なんて確証はどこにも……。
吸血鬼はスプレーを振り、今度は大口を開けて躍るガイコツを描いた。更に目を爛々とさせたふくろうやドブネズミなど、夜や薄暗いところを連想させるものを次々と描いていく。そのどれもが決まって、恐ろしくも愉快そうに躍り狂ってた。当たり前だけど、どれも一発書きでとんでもなく速い。魔法でも使ってるんじゃないかってほどあっという間に絵が仕上がっていく。夢でも見てるんじゃないかと思うほど、圧倒的だった。
この人は本物だ。芸術に詳しくなくてもわかる。納得させられてしまう圧がある。
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