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14話 自虐オジサン
「以前も、そんなことを聞いていたね。あの雨の日だったか。……その答えは、おそらく僕の側にあると思う」
ディミトリスも、ワイングラスを手に取った。
細長いステムを持ったまま、まだ飲もうとしないディミトリスは、エーヴァの茶色の瞳を見つめ、ゆっくりと話し出す。
「僕は、運命の番しか愛さないという、父の教えを守っていた。そのせいで、女性に対して、とても消極的に育ってしまったんだ。言い方が曖昧かな? つまり……欲情しないんだ。常日頃から、女性は護るべき存在だと思っているから、たまに発情期が訪れても、これまでに抱きたいと思ったことがない」
そこで喉を潤すように、くいっとグラスを傾け、ワインを口に含んだディミトリス。
反らされたことで露わになった喉仏に、知らずエーヴァはドキリとした。
「エーヴァは今、発情期ではないよね? 運命の番が狂ってしまうのは、おそらくどちらも発情期だった場合ではないかと、僕は考えている。エーヴァの恋人のオオカミ獣人の発情期は、いつも今くらいじゃなかった?」
そうだ、ラーシュの発情期はいつも晩冬で、晩夏が発情期のエーヴァとは季節が違った。
ハッとしたようなエーヴァの顔を見て、ディミトリスは頷く。
「運命の番がウサギ獣人だったなら、間違いなくオオカミ獣人の彼は、フェロモンに引きずられて発情期に入ってしまったはずだ。相手は年中発情期のようなものだから、狂う期間も長いだろう」
エーヴァの脳裏に、激しく求め合っていた二人の姿が浮かぶ。
子種を欲しがっていたウサギ獣人と、その彼女を穿っていたラーシュ。
運命の番からは、強い子が生まれる。
それは獣の本能として、どうしても引きずられてしまう魅力的なファクターなのだ。
曇っていくエーヴァの表情に、ディミトリスは慌てて付け加える。
「ちなみに僕は、数年前に発情期が来て以降、すっかり大人しいんだ。寄る年波のせいかもしれない。だから、エーヴァは安全だよ」
エーヴァはきょとんとディミトリスを見て、噴き出した。
「ディミーさん、そんなに老けてないじゃないですか。おいくつなんですか?」
「実は、今年で40歳なんだ。エーヴァに愛を囁きたいけど、ちょっとオジサンだよね?」
ディミトリスは困ったように眉根を寄せて、顎の髭を触る。
たしかにエーヴァとは13歳も離れている。
「まさかこの年で、運命の番に出会うとは、思ってもみなかったよ。しかも、こんなに心惹かれてしまうなんて。だけど、むしろオジサンで良かったのかもしれないね。がっついたところを見せて、エーヴァに嫌われたくないから」
本心からそう思っているのだろう、ディミトリスは片手で顔を隠して恥ずかしそうにした。
「私が発情期になったら、どうなるんですか?」
そんなディミトリスに、エーヴァが爆弾を落とす。
「え? それは……」
途端にしどろもどろになるディミトリス。
ディミトリス的には、それでも大丈夫だよと安心させたいのかもしれないが、そうとも限らないのではないかという葛藤がある。
なにしろ発情期を迎えた運命の番と一緒にいる場面なんて、初めての経験だ。
いくら四十路とはいえ、発情期のエーヴァのフェロモンに参ってしまわないとは言えない。
オロオロしているディミトリスを見て、エーヴァは自分がとんでもない質問をしたことに気づいた。
「いえ、その、忘れてください。私ったら、なんてことを……」
「エーヴァ、君が嫌でなければ、僕とのことを真剣に考えてくれないかな。僕はエーヴァを愛しく思っているよ。運命の番だってこともあるけれど、君の強くてしなやかな精神に、とても魅了されているんだ。僕にとって女性とは護るべき存在だったけれど、エーヴァは僕にただで護られてくれない。そういうところ、大好きだよ」
ディミトリスが手を伸ばし、エーヴァの右手に触れた。
優しく持ち上げると、そこにハンドキスを落とす。
指先に顎髭が当たって、それが意外と柔らかいなとエーヴァは思った。
「エーヴァの笑った顔を、もっと見たい」
緑色をしたディミトリスの流し目をまともに喰らってしまい、エーヴァは赤面した。
年下のラーシュしか男を知らないエーヴァにとって、ディミトリスのまとう熟れた色気は毒だった。
「エーヴァの心が回復して、僕を視野に入れてくれるだけで、幸せだから。エーヴァに発情期が来て、そのときに僕を受け入れる気がないのなら、発情期が終わるまで雲隠れしているよ。僕は不動産屋だからね、別荘をあちこちに持っているんだ」
エーヴァを怖がらせないように、ディミトリスは手を放して笑ってみせた。
「だからエーヴァはここにいて。僕はそれだけで満足だよ」
ディミトリスも、マリトも、住処を失ったエーヴァに居場所をくれた。
そして、独りぼっちになったエーヴァの存在を、求めてくれた。
この世から弾き出されたと感じたあの夜の痛みは、この一か月の間にかなり和らいでいた。
「皆さん、優しすぎます」
エーヴァは嬉しくて、一粒だけ涙をこぼした。
◇◆◇
それからしばらくして、ロマナが依存症治療のために入院することが決まった。
入院先は、熱を出したエーヴァを診察してくれた、フラミンゴ獣人の医者のいる病院だ。
闘病期間がどれだけの長さになるか分からないが、ロマナはやる気に満ちていた。
玄関先まで見送りに来たニコラが、「お見舞いにいくから、いい子にしているのよ」と声をかけている。
ロータリーに用意された白い車のトランクに、ディミトリスがロマナの荷物を積んでやる。
マリトが運転席に乗り込み、ロマナは助手席に座った。
「完治したら、一緒に買い物に行きましょうよ。私がロマナに似合う服を選んであげるわ」
エーヴァとの買い物で、すっかり味を占めたマリトが、ロマナを誘っていた。
「マリトさんの選ぶ服って、すごそうですね」
そう言って笑うロマナは、何かを吹っ切ったように明るかった。
ブオンとエンジン音をさせて、マリトが車を出発させる。
エーヴァは二人に向かって手を振った。
治療が終われば帰ってくると分かっているが、別れはいつもさみしいものだ。
エーヴァは、遠ざかる車が角を曲がるまで、ロータリーから見送った。
車が見えなくなってしまうと、ディミトリスはニコラに声をかける。
「ニコラは、ロマナが依存症だって、よく分かったね。ベンジャミンが感心していたよ」
ベンジャミンと言うのが、かかりつけ医のフラミンゴ獣人の名前だ。
ディミトリスは、エーヴァのために説明を加える。
「まだ依存症という病気を、知らない人が多いんだって。もちろん僕もそうだった」
「私も初めて聞いた病名でした。ニコラさん、依存症とは何かに依存してしまう病気なんですか?」
「私のいた娼館は、薬物依存症の娼婦ばかりだったので、たまたま知っていたんです。現実のつらさから逃げたくて、薬に手を出して――体を壊す娼婦をたくさん見ました。彼女たちは、止めたいと思っていても止められなくて、苦しんでいました。それが、お酒を呷るロマナさんの姿と、重なったんです」
ニコラはそこで溜め息をついた。
娼館にいた頃を、思い出したのかもしれない。
「依存症にかかってしまうと、自分の力だけではその地獄から抜け出せません。あまりの絶望に、自殺を選ぶ娼婦もいました。ロマナさんがそうなる前に、治療する意志を持ってくれて、本当に良かったです」
「ロマナをそこまで導いたのはニコラだ。僕は何も知らず、ロマナが望むとおりにしてあげればいいと、漠然としか考えていなかった。反省しているよ」
「ええ、ディミトリスさまは、しっかり反省してください。エーヴァさんを見て分かったと思いますが、女性というのは弱いばかりではないのです。女性の強さを信じて支援することが、ディミトリスさまには大切だと思います。これからは、甘やかすのは恋人だけにしたほうがいいですよ」
ニコラは最後にちくりと大きな針を刺すと、一足先に玄関へと向かった。
誰彼構わず妻にするな、望まれるままに抱くな、と言いたかったのだろう。
ディミトリスは気まずくて、隣にいるエーヴァがどんな顔をしているのか、見ることが出来なかった。
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