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2話 トナカイ獣人エーヴァ
エーヴァは勤務先の小学校で残業をしていた。
この冬の急な寒さで、副担任が風邪をひいて休んでいるのだ。
学級のことを気にせず、しっかり休んでもらうためにも、副担任の残した仕事をエーヴァは請け負った。
先ほど、テストの丸つけが終わり、明日に出す宿題を選んでいるときだった。
ザアアッと音を立てて、雨が降り出した。
「やっぱり降り出したわね。だから傘を持っていきなさいと言ったのに」
エーヴァは机から視線を移し、壁にかけられた時計を見る。
時刻はラーシュの退勤時間と重なる。
やれやれと肩を落とすエーヴァ。
残業がなければ、傘を持っているエーヴァが、ラーシュの勤務先まで彼を迎えに行っただろう。
そうやって相合傘で帰宅したことも、これまで何度もあった。
だが今日はそれが出来ない。
かつて濡れそぼった黒い耳と尻尾を、玄関先でぶるんぶるんと思い切り振って、エーヴァに怒られたラーシュを思い出す。
きっと雨に濡れて帰ったラーシュは、今日もつい習性でそれをやってしまうだろう。
そして水浸しにしてしまった玄関先を見て、慌ててタオルを取りに走るのだ。
エーヴァが帰ってくるまでに拭いてしまえば怒られないと、頑張っているところまで想像できた。
「ふふふっ、仕方がないわね」
ラーシュはエーヴァの1つ年下で、田舎町にいるときは弟のような存在だった。
小さい頃は丸々としていたラーシュに、どこに行くにも後をついてこられたものだ。
懐かれているとは思っていたが、まさか街まで追いかけてくるとは。
それに、ラーシュはエーヴァと違い、エーヴァを姉とは思っていなかった。
エーヴァはかけていた縁なしの眼鏡を外す。
目頭をぎゅっとマッサージすると、また仕事を再開することにした。
そうしないと、いつまでもラーシュのことを考えて、手が止まってしまいそうだったからだ。
幸い、今日は作り置きの料理があるので、ラーシュが先に家へ帰りついても、お腹を空かせることはない。
だがこんなに寒いのだ、出来るだけ早く帰って、温かいスープも作ってあげたい。
そう思って、エーヴァは教科書から課題を探す作業に戻った。
「おや、エーヴァ先生、まだ残業でしたか?」
声をかけてくれたのは、小学校中を消灯して回っていたゾウ獣人の校長先生だ。
集中していたエーヴァは、職員室に残っているのが自分だけになっていることに気がついた。
エーヴァが時計を仰ぎ見ると、思っていたよりも時間が進んでいる。
「遅くなってしまいました。すぐに帰る支度をします」
「エーヴァ先生は、頑張り屋さんですからね。どうか無理はしないでくださいよ」
エーヴァから見たら校長先生は祖父のような年齢だ。
校長先生も、エーヴァを孫のように思っているかもしれない。
いつもこうして優しい言葉をかけて見守ってくれる。
エーヴァが新人のときからだ。
街に誰も知る人がいなかったエーヴァにとって、その温かさはありがたいものだった。
「はい、分かりました」
エーヴァは素直に返事をして、机の上に広げていた教科書を片付け、席を立った。
校長先生に見送られ、小学校の玄関を出ると、持っていた赤い傘を差す。
途端に、夜空から大粒の雨が、ボトボトと音を立てて傘に落ちてきた。
乗り合いバスの停留所まで歩き、小さな黄色のバスに乗ってしまえば、もうアパートまでは30分もかからない。
エーヴァは寒さにかじかむ指先に、はあっと息を吹きかける。
冬用のダウンコートを着てはいるが、だいぶん薄っぺらくなっていた。
なにしろ田舎町にいたときに買って、それからずっと使っているのだ。
中の羽毛も、かなり抜け落ちていることだろう。
それでも買い替えずにいるのは、お金を貯めているからだ。
エーヴァはそろそろ、ラーシュのプロポーズに応えようと思っていた。
恋人の関係になってから4年が経つ。
その間、ラーシュはずっと誠実にエーヴァを求めてくれた。
これから心変わりすることもないだろう。
それが分かったから、エーヴァは引っ越し資金を貯め始めたのだ。
今のアパートは、エーヴァが一人暮らしをするときに借りて、それからずっと住んでいる。
二人で暮らすにはちょっと手狭に感じていた。
結婚して子どもが出来たら、もっと狭く感じるだろう。
「いつ、ラーシュに打ち明けようかしら。そろそろ敷金分くらいは貯まったのよね」
エーヴァは停留所で客待ちをしていたバスに乗る。
どうやらエーヴァが最後の客のようだ。
乗り込むと同時にバスは出発した。
時間的にも最終便だろう。
(校長先生に声をかけてもらって良かった。さすがに歩いて帰るには、この雨はつらいわ)
バスのガラス窓に勢いよくぶつかる雨を見て、エーヴァはラーシュの心配をした。
仕事から帰ってきて、濡れたままでいるのではないか。
風邪を引く前に、温かい風呂に入っていて欲しい。
作り置きの料理を、ちゃんと温め直せただろうか。
早く家に帰って、ラーシュの顔を見て安心したい。
おかえりと出迎えてくれるラーシュの笑顔は、エーヴァにとって何物にも代えがたい宝物だった。
アパートの近くでバスが停まる。
そこで下車するのはエーヴァだけだ。
運転手にお礼を言って、エーヴァは傘を差しながらバスを降りた。
ここからアパートまで真っすぐな道が続く。
エーヴァはラーシュの待つアパートを目指して歩く。
雨はまだ弱まりそうにない。
傘を差していても、エーヴァの肩は濡れそぼった。
髪が濡れてしまわないように、片側にまとめて寄せる。
エーヴァの髪色は白と茶の混合だ。
ラーシュはよく、雪が降った大地のようだと慈しむ。
エーヴァはラーシュにそう言われて初めて、自分の髪色を好きになった。
それまではラーシュのような一色の髪を、うらやましく思っていたのだ。
ラーシュが愛してくれたから、エーヴァも愛するようになった。
それは髪色だけではない。
小さいときから目が悪くて眼鏡をかけていたエーヴァは、同年代の子どもたちから、からかわれることがあった。
田舎町では、子どもが眼鏡をかけているのが珍しかったのだ。
しかしラーシュは、眼鏡をかけたエーヴァはかっこいいと褒めてくれた。
ラーシュのおかげで、エーヴァは胸を張れた。
女だてらに頭が良いと非難されるような田舎町を飛び出し、自立しようと思ったのも、卑屈にならなかったのも、そばでラーシュが励ましてくれたからだった。
ラーシュが街まで追いかけて来てくれたとき、エーヴァは本当は嬉しかった。
照れくさくて呆れた顔をして見せたけど、一緒に暮らすことを提案したのはエーヴァからだった。
小さな一人暮らし用のアパートが、今ではふたりの愛の巣だ。
もうすぐそのアパートに着く。
しかし、アパートの近くまで来て、窓に明かりが灯っていないことにエーヴァは気がついた。
(帰っていないの? もしかして、まだどこかで雨宿りを?)
それにしてはもう遅い時間だ。
そんなはずはないだろう。
ということは何かがあったのだ。
心配になったエーヴァは、とにかくアパートに向かって走った。
ラーシュが部屋の中で倒れているのではないか。
濡れたまま疲れて、寝てしまっているのではないか。
赤い傘を慌ててたたんだせいで、エーヴァの靴の上に雨だれが落ちた。
じわりとにじんだ水滴も気にせず階段を駆け上って、鞄から部屋の鍵を取り出す。
ドアの鍵穴に鍵を差し込もうとして、中に誰かがいる気配がした。
しかもドアの近くだ。
玄関に誰かがいる。
一人ではない。
二人だ。
女の喘ぎ声と、興奮した男の荒い息、そして情事の最中のような水音まじりの打擲音がした。
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