瞬間ノンアルコール

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『お姉さん、落としましたよ』  深夜一時、コンビニからの帰宅途中。 歓楽街を少し抜けた路地で、久しぶりに人の声を聞いた。 「すみません、ありがとうございます」 「お綺麗ですね」 「……え?」 「お姉さん、綺麗な方ですね」  その男性は不自然な程に整った顔をしていて、背が高く、煌びやかな衣装を纏っている。 鼻を刺すような香水の香りと、アルコールの匂い。 「暗くて顔もよく見えないでしょうに、お世辞だとしても無理がありますよ」 「お世辞なんかじゃないですよ。お姉さん、本当に綺麗なお顔してますよ」 「お仕事柄褒めるのがお上手なんですね」 「僕のことご存知ですか?」 「いえ、これは私の憶測です」 「お姉さん、勘が鋭いんですね」 「察しはつきますよ、そんなに華美な格好をしている人を見たら」 「お姉さん」 「……はい」 「少しの間だけ、僕に付き合っていただけませんか……?」 「客引きならお断りします、手持ちのお金も少ないので」 「違います、少しの間だけ僕を守って欲しいんです」 「守る……どうやって?」 「僕と手を繋いで店の通りを歩いてほしいです」 「……え?」 「今『アフター』してた『姫』が突然ヒステリックを起こしちゃって手に負えなくて……僕の姫のフリをして欲しくて」  『アフター』『姫』その業界らしい言葉が並ぶ。 事情は分かった、私でそのフリが務まるかどうかはわからないけれど。 「隣で手を繋いで歩くだけでいい、お願いできませんか……?」  満月、五月蝿いほどの照明が邪魔をして霞んでしまうけれど今夜は満月が浮かんでいる。 私の意思は満月の日に揺らぎやすい。事実、こうして彼と会話を交わしていることも意思の揺らぎの証明。 「……いいですよ、お兄さん困ってそうですし」 ー*ー*ー*ー*ー  今、私は人生で初めて異性と手を繋いでいる。思い返せば異性以前に、人と手を繋いだことすら初めてかもしれない。 それもホストと、生まれて初めて訪れる歓楽街を。 「こういうところに来るのは初めて?」 「そうですね……私には縁のない場所なので」 「お姉さん綺麗なのに、そんなこと言わないでくださいよ」  異様に優しく人慣れしているのはホストの職業病か、彼の人間性か。 「お仕事は何されてるんですか?」 「私は……サイト運用ですかね、大した仕事じゃないですよ」 「サイト運用ですか……僕の知らない世界です」 「胸を張れるような仕事じゃないですよ、収入も不安定だし」 「そうなんですね、お姉さん趣味とかあります?お綺麗な方ですしコスメとかお洋服とか……」 「特にないんですね、服もコスメも食べ物も。生きるにはコスパがいいと思いますよ、この世で1番飼育しやすい生き物だと思ってます」 「『飼育しやすい』ってお姉さんがってことですか?」 「そうです、あんまり我儘言わないタイプなので」  大学を卒業した頃、感染症が世界を蝕んだ。世界が私の味方をした。 人と関わることが億劫な私にとって、人との距離を強要される世の中は都合が良かった。 最低限の生活費を稼ぎながら、それなりに息をする。恋人も友人もいないまま、気まぐれに深夜に外を歩いて生きていることを実感する。 それが私の命。 「お兄さんは夜のお仕事以外に何かなさっているんですか?」 「僕はこの仕事だけですかね、こう見えて僕『ナンバーワン』なんですよ」 「……本当に私なんかと歩いていて大丈夫ですか?」 「いいんです、お礼がしたいのでちょっと呑んで行きませんか?お代はいただきませんので」 「夜も遅いですし申し訳ないですよ、お兄さんもたまには身体を労ってあげてください」 「僕は夜が活動時間なのでお気になさらず、たまには気を遣わずに誰かと話がしたい夜もあるんです」  優しく、自然に手を引き閉店後の店内へ私を連れる。 案内された奥の座席に着く、差し出された水に手を伸ばせないまま律儀に姿勢を正す。 「緊張しますよね、突然すみません」 「いえ、人と話すことなんてないので新鮮で……」 「お姉さんお酒呑まれますか?よければお好きなものお持ちいたしますよ」 「お酒……あまり強い方ではないので度数の弱いものをお願いしたいです」  彼の立ち上がる動作すら華麗さを感じる、蓋を開け注ぐ所作の端々さから何かを魅了する雰囲気があった。 薄く前髪にかかった黒髪は綺麗で、肌は白い。夜道の暗さとネオンの鮮やかさに霞んでいたけれど、彼は想像以上の容姿をしていた。 「お兄さん、いつからこのお仕事を?」 「十八歳の高校を卒業してすぐの頃からですかね、ここだけの話ですけど」 「勤めて長いんですね」 「そうですね、夜の活動になれると昼の生活に戻るのが難しくて」 「大変なんですね……」  久しぶりに摂ったアルコールが体内へ刺さる、熱く鋭い液体が回る。 「そのキーホルダー可愛らしいですね」 「ああ……これは貰い物なんです、数年前に貰って手放せなくて」 「想い出が詰まっている物なんですね」 「想い出……そうなのかもしれませんね、きっともう会うことすらないと思いますけど」  隣に座る彼に酔った素振りはない。 頬が熱っているのを感じる、追い込むように冷たくなったお酒を流し込み息をつく。 「お姉さん、手もお綺麗なんですね」 「……え?」 「白くて細くてとても綺麗ですよ、触れてもいいですか?」 「ホストらしいですね、そういう色仕掛け」 「え……?」 「だから、ボディタッチとか誘惑するような言葉とか。上部だけの言葉を並べるんだなって」 「そんなつもりはございませ……」 「わかってますよ、所詮人からの好意を金に替える人達だって。搾取ですよね」  忘れていた、私がお酒を呑まない理由。 乱暴な言葉が止める間も無く、口から漏れ出る。 私ではない誰かが、私の身体を鎧のように纏って言葉を放っているような感覚。 「貴女も鋭い言葉を並べる『女性』になったんですね」 「は……?」 「左手の甲を見せていただいてもいいですか、僕は触れませんので」  言われるがまま、彼の前に左手を差し出す。 笑うとまでいかない程に口角を上げながら、視線を私の目へ移す。 「お久しぶりですね、麗さん」 「……どうして名前を」 「二年前、家出した貴女とこうして話をしたこと、僕は今でも忘れていませんから」 「あの時の……じゃあこのキーホルダー……」 「僕のロッカーの鍵についてますよ、お揃いのお守りですもんね」  二年前の満月の夜、家出をした私は彼に拾われるように救われた。 その二年後の満月の夜、私は彼を嘘で救った。 「最初から、私のこと気づいてたんですか?」 「いえ、そのキーホルダーと……気味悪がられてしまうかもしれないですけど、左手の薬指の痣で確信しました」 「痣……?」 「僕との約束、忘れてしまいましたか?」  そしてもう一つ思い出した、私がお酒を呑まない理由。 『締まったはずの記憶を呼び戻してしまう』から。 「……今、鮮明に思い出しました」  あの日、衝動で家を飛び出した私は行く宛のないことに気づいた。 満月の下で、五月蝿い人だかりの横で、真冬の空気を肺に取り込みながら目を瞑ろうと。 目を瞑って、そのまま目を覚ます日が来なくてもいいと願いながら俯く私に、彼が声を掛けたんだ。 『こんな寒い中どうしたの、夜も遅いし女の子一人では危ないよ』  その時も、異様なほどに優しく人慣れした様子だった。 そして同じように手をひかれ、はっきりとは覚えていないけれどお酒の匂いの漂う店へ入った記憶が残ってはいる。 「ここに絆創膏貼ってくれましたよね」 「覚えててくれたんだね」  自暴自棄になり自宅の鍵の先で傷つけた左手の薬指を、彼は優しく包んだ。 「あの時は、お世話になりました」 「いえいえ、傷痕が薄くなっていて安心しました」  そして彼と約束をした、絆創膏の上から手を添え、まっすぐ私の目をみながら彼は言った。   『将来、ここに綺麗な輪を交わしあう素敵な人と出逢ってね』  私の話を聴いた後、彼は助言を溢すこともなく、この言葉を口にした。 暖かかった、初めて人の暖かさを感じた。 「ご家族とは、最近どうですか」 「大学に進学してからは絶縁状態です、連絡先も住所も知らせずに独りで暮らしてます」 「そうですか……それは少し寂しいような気もしますけど、僕が介入していい話ではないですよね」  認知症の祖母と、アルコール依存の叔父、唯一の心の支えだった母。 私にとって『家族』は血が結んだ呪いそのものだった。 「寂しくなんてないですよ、強がりって言われそうですけど」 「僕はそんな無責任なこと言いませんよ」 「これでよかったんです。別に慕えるようなところなんてないですし、家に帰る度に機嫌を伺うことにも疲れたので」 「そうでしたか……」 「あの日も、結局私のことを探しにくる家族はいなかったんです」 「え……?」 「警察に一度連絡をして、見つけ出されました。家族の誰でもよかった、誰かの気を引くためだったのに……私は社会に迷惑をかけただけだったんです」 「そんなことは……」 「ありますよ。帰った時、家はいつも以上に荒れていました。片付けもしないままビールの缶が並んでいるんです、時々怒鳴り声と下品な嗚咽を繰り返しながら叔父は酒を流し込み続けました」 「……」 「祖母は私の家出を母のせいだと責め立てました、正気じゃない言葉を並べながら、無駄に大きなしゃがれた声で」 「辛かったですね……」 「嗚咽と怒鳴り声が止んだかと思うと、叔父は他所行きの声で誰かとの電話を始めるんです。馬鹿にしたように笑いながら『姪が家出したんです、反抗期ですかね』って」 「麗さん……それ以上は……」 「私は気づきました。生まれて十数年わからなかったことが、たった一晩で痛いほどわかってしまったんです」 「何が……わかったんですか……?」 「私は生まれた瞬間から選択を間違ったと、本当は母親の中で息を詰まらせておくべきだったんです」  こんな言葉、吐くつもりはなかった。 止まらない、止まれない、知らぬ間に言葉が溢れていく。淡々と、発生元すらわからない、汚れ切った言葉が空間を伝う。 「だから高校を卒業するとともに縁を切りました。金銭面で自立できるようにバイトを掛け持って、時には身体すらも売りました。最初は達成感だったんです、苦しんだ分お金になるので。ただそれが虚しさに変わっていきました、何をしたって埋めることのできない虚しさに」 「お友達は、誰も手を差し伸べてくれなかったのですか?」 「え……?」 「家族に望みがないのなら、せめてお友達は……」 「いましたよ、途中まで」 「途中まで……?」 「私が汚れたお金を手にしていく度に離れていきました、正しい判断だと思います」  悲しいのか、寂しいのか、孤独が痛いのか、言葉を吐くたびに心臓が跳ねる。 どこか意識が遠のいていく、このまま息が止まっていってしまうような。 最期に恩人に逢えたことが、愚か者への最大限の報いなのだと思う。そう考えると、この人生は悪くない。 「苦しくないですか」 「え……?」 「いや、聞いているだけでも苦しい話。麗さんは、しっかり息ができてますか」 「苦しいですね……このまま死んでしまえそうです」 「ダメですよ、こんなところで息絶えてはいけません」 「安心してください、お兄さんの前では死にませんよ。ちゃんと自宅か、人目のつかないところを選びますから……」 「そうじゃなくて、生きてほしいんです。我儘ですけど」 「冗談はいいですよ……もう、いいですよ」 「麗さんと出逢えたこと、僕は嬉しかったから」 「え……?」 「僕も本当はこの仕事をしているはずじゃなかったんですよ、描いている未来もあったし。それなりに抱えていた希望もあったんです」  引き戻される、私が私に重なった。 不思議なほどに酔いが覚めて、彼の顔に初めてピントがあった。 「母親の顔は思い出せません、父親はいなくて。居場所は、あってないようなものでした。愛を知らない僕が、愛をお金で売ってるんです」 「……」 「本当は知りたかったですよ。お金とかじゃない、心からの血の通った愛を知りたかったです。でも学費もなくて、考える頭も無くて、気づいたら嘘で愛を吐く仕事に慣れていました」 「そんな悲しいこと……お兄さんはたくさんの方に愛されているじゃないですか」 「それもいつか終わるんですよ。僕が後少し年を取ったら、もし今顔に火傷でもしたらどうしますか、明日から愛してくれる人なんていませんよ。そういう仕事なんです、僕が経験を経ての偏見ですけど」 「それは……」 「だから嬉しかったんですよ、あの日、純粋に僕と話をしたくれた麗さんとの出逢いが」 「あの日のこと……」 「変に大人ぶったことをしなくても笑ってくれる、僕の話を素直に受け取ってくれる、麗さんに救われたんです」 「私が……救った……?」  信じられなかった、またホストの嘘だと思った。 でも違う、その声には温度があって人間から発せられたものなのだと確信した。 疑うことすらできないほど、彼の声はまっすぐだった。 その声が歪み切きった私に響く。 「麗さん」 「……はい」 「僕はもう不可能なんです、ここから軌道修正するなんてできないと思ってます。時間が許す限り人の好意をお金に替え続けます」 「……」 「でも麗さんは変われますから」 「え……?」 「逃げなくていいですよ、向き合いたい人と向き合って、素敵な人と出逢えます。幸せになれますよ」 「そんなこと……」 「僕が保証します、絶対、麗さんは幸せになれますから」 「私なんかが……」 「卑屈にならないでください。麗さんは苦しい中を生き抜いてきたんです、そんな麗さんが報われないわけないんです」  生まれて初めて、生きることをまっすぐに肯定された気がする。 それと同時に生まれて初めて、誰かが自身の生を否定する瞬間に立ち会った気がする。 「一人で帰すのは危ないのでタクシーを手配しますね、僕が引き留めてしまったのでタクシーの利用料金はこちらで負担しますよ」  哀しそうに言い残し、彼はスタッフルームへの通路らしきところへ行く。 そのまま、二度と感謝も伝えられぬまま、彼が遠くへいってしまいそうで。 「あの……」 「どうかなさいましたか」 「変わりませんか、一緒に」 「え……」 「だから……私と一緒に『生きる』って何か、命の使い方、変えませんか」 「それは……」 「確かに私の生活は孤独だし、自堕落だし、胸を張れるようなものなんて何一つないけど、貴方となら変われる気がするんです。今よりちゃんと生きられる気がするんです」 「僕には無理ですよ」 「卑屈にならないでくださいよ、あの時……終わっていたはずの私の人生の続きを始めてくれたのは貴方なんですから」  これもきっとお酒と満月のせいだ、人を避けてきた私が『一緒に』なんて言葉を躊躇いもなく口にしている。 「嘘ついたっていいじゃないですか、それが生きる術なんですもん。全てを綺麗にする必要なんてないんですよ。ただ、どうせまだ人生永いから、少しでも生きたいって思える時間の中にいてほしいだけです」 「麗さん……」 「私は貴方に強引に救われたから、私も強引に救いたいと思っちゃったんですよ」 「じゃあ僕と約束してくれますか」 「はい」 『次に逢ったら、お互い幸せな自慢を並べること』 「私、守りますよ?」 「僕も破りませんから、約束ですよ」  タクシーが見えた、意識に反して身体の不快感はない。 「お気をつけてお帰りくださいね」 「明日はお互い二日酔いですかね、私は特にアルコール耐性がないので」 「その心配は無用ですよ。実は麗さんが呑んでいたもの、全てお酒じゃないので」 「えっ……」 「お酒と同じ甘味が含まれているただの甘い水です」 「それならあの酔った感覚はどうして……」 「思い込みですよ、脳の錯覚ってやつです」 「どうしてそんな小細工を……?」 「お酒は時に人を素直にするってこの仕事で学んだんですよ、さすがにお店に連れ込んだ女性にアルコールを提供することは気が引けたので」  そんな種明かしを最後に、エンジン音が鳴った。 私の言葉はきっとお酒のせいでも、満月のせいでもない。  忘れかけていたあの日のこと、交わした約束のこと。 私はまた、誓った約束を忘れられなくなってしまった。  これはきっと満月と、その下で出逢った貴方のせい。    
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