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ほんの些細なきっかけだったのに
そんなある日のこと、久しぶりに家族水入らずで遠出した帰り道、いつもは人が点々としている商店街の一角が随分と騒がしかった。
「なんかイベントでもやってんのかなぁ~」
まなを肩車した夫が、ボソッとつぶやく。
「でも今日は祝日じゃないよ」
「ん?何か書いてある…」
夫が思いっきり目を細めながら、看板の字を凝視するため立ち止まった。
「『99点以上出した人には1万円贈呈!スケルトンカラオケ大会』だってよ。あ~テレビの企画だって~」
「今、結構話題なのよね~、とうとう我が商店街にもきたのね」
(私も現役時代にテレビでやってたなぁ~。あれは結構楽しかったっけ)
数日前に見たその番組の一場面を思い出しながら、私は思わずニヤついてしまった。
「ママも久しぶりに歌ってみたら」
夫が冗談交じりにこんなことを言い出し、私が何を言って~と返そうとした瞬間だった。
「ねぇ~、ままのたんじょびー、どうしゅるの~?ねぇ~まなのはなし、きいてぇ~」
という具合にまなが興奮しだし、カラオケどころではなくなったのだった。
だがこの夫の発言が我が家の安寧を一変させることになるなんて、この時は思いもしなかった…。
いつもの憂鬱な週初め、相変わらずのワンオペでてんやわんやしていた。
お決まりのまなのグズグズをどうにかやり過ごし、ちょっぴり泣きそうな状態を後ろ髪引かれる思いで先生に託した私は、自転車をこぎながら昨日のことを思い出していた。
(まだ、あの企画やってるのかな~)
おもむろに、ある歌の一小節を口ずさんでみる。
自転車をこぎながら歌うのは、中々にいいストレス発散である。
うん、悪くない。
(まだやってたら、参加してみようかなぁ~)
そう思った時、突然ポッケの中が振動を始めた。
(まさか…また熱!?)
私は道の端に寄って、スマホをタップした。
「もしもし」
「あー檜山さん」
会社の上司からだった。
あの菩薩顔を思い浮かべながら、お決まりのやり取りをする。
「すみません、今さっき子どもを保育園に…」
「あーそっかー、もう少し早く連絡入れたら良かったね」
彼の声色が優しく染み入ってくる。
どうやら事務所の空調が壊れてしまったらしく、急遽臨時休業を決めたらしい。
休日の扱いをどうするかの話に相づちを打ちつつ、私は突然できた自由時間にやや心躍った。
(ちょっと、覗いてみようかな~)
そんなちょっとの好奇心が背中を押すように、気がつくと私はあのカラオケボックスに向かって全速力でこぎ出していた。
「どうぞ~やってますよ~」
ロボット音声に導かれ、私は迷わず扉の中に足を踏み入れた。
(別に、ただ歌いたいから来たんだからね…)
自分を正当化しながら、私はカラオケリモコンを操作した。
選曲したのは勿論、アインクル時代に何度も歌ったあの歌だ。
「リフレインを~忘れないで~」
軽快なメロディーと歌詞が魅力のダンスナンバーで、懐かしのヒット曲特集でもよく流れることが多い。
私はあの頃を思い出しながら、曲が流れてくるのを待った。
歌わなくなって5年以上だというのに、体が歌詞を覚えていた。
だがブランクは所々に出ていて、最後のビブラートはさすがに堪えた。
「残念でした~。惜しかったですね~」
参加賞のティッシュを受け取り、私はボックスから出た。
その瞬間、耳をつんざくような拍手の嵐。
「良かったのにね~」
「惜しかったじゃん」
「最近の若い人はお上手ね~」
方々からの賞賛の声を浴びながら、私は苦笑いで会釈しながらカラオケボックスを後にした。
(さすがに私が鈴木萌奈であることは気づかれなかったな)
そのことに安堵しながら、自転車を引いて歩きだそうとしたその時。
「あの、スズモナさんですよね?」
思わず振り返った。
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