一変する日常

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一変する日常

そこに立っているのは、見知らぬ女子高生。 片手にはスマホが握られていた。 その瞳は屈託のない、純真さに彩られている。 「鈴木萌奈さん、ですよね」 その目は本当のことを言え、という圧が込められていた。 「えっと…」 脳内で、様々なことが回り始めた。 ここで否定をすれば嘘をつくことになる。 夫の穏やかな顔が浮かんだ。 あの人にこれ以上、心労をかけたくない…。 あれこれ考えているのが顔に出ていたのか、彼女はどこか諦めたような口調で 「もういいです」 そう言って、彼女はクルッと後ろを向いて走り去っていった。 そうじゃないの、と言う前に、もう彼女の姿はゴマ粒くらいまでになってしまった。 帰りにウインドウショッピングでも、と思ったがとてもそんな気分にはなれず、私はションボリした気持ちのまま家路を歩いた。 「ただいま…」 何か食べなくちゃと思い、冷蔵庫を開けようとしたその時だった。 「ピコーン」 スマホの通知音が鳴った。 夫からのメッセージだ。 急を要することに違いないと思いながら見てみると、 ”ツブヤッキーが大変なことになっている” 「えっ?」 私は急いでツブヤッキーのアイコンをタップした。 ”さっき、○○商店街でスズモナ発見!全然かわらな~い” 「”スズモナにめちゃ似ている人がモニタのカラオケボックスで歌ってた。相変わらずうまし” ”スズモナの美貌も声も、全然変わらん” そんな呟きたちと共に、私が熱唱する姿や後ろ姿等がいくつも載っていた。 どうやら、無断で撮られたらしい。 極めつけは、随分と表情の険しい全身写真だ。 それと共にこんな言葉が添えられていた。 ”せっかく声かけたのに無視された。有名だったからって調子乗りすぎ” (あの女子高生にいつの間にか撮られてた?) ツブヤッキーのランキングには「スズモナ」や「突然引退」といったワードが上位に入ってきている。 すると突然、夫から着信が入った。 「もしもし」 「もな、あのカラオケのやつ参加したのか?俺は冗談で言っただけで…」 夫の話を遮るように、 「私、撮られた覚えがないんだけど…どうしたら」 「とりあえず今日は早く帰る。何かあれば連絡くれ」 「分かった」 ハッ!まなを迎えにいかないと。 ただいまの時刻は2時近く。 お昼寝中の今、間違いなく不機嫌なまま連れ帰ることになるだろう。 その後のことを想像すると、途端に憂鬱な気分になってきた。 (はぁ~、どうしてこんなことに…) そう思っている間にも、空腹を感じる。 人間って、食べることで生きているんだなぁと今更ながらなことを思った。 (なんであんな所に行っちゃったんだろう…。) 後悔したけどもう遅い。 目線を上げた。 その先にはキラキラの額の中で、私たち家族が幸せそうに笑っている。 (これからも平穏に生きていけると思ったのに…) 胸中に、たくさんの心配と共に、封印しようとしたはずの時代が蘇ってきた…。 偶然ネットで観たアイドルグループ「アインクル」の動画を見ているうちに、アイドルに憧れを抱くようになり、反対する両親を説得して人生で初めてのオーディションを受けた。 当時、私は12歳の中学1年生。 何にも染まっていないあの頃は、何も知らない純粋無垢な子どもでしかなかった。 そうして3度目の正直、ついに憧れの「アインクル」の一員として憧れの世界に足を踏み入れることとなった。 早速レッスンが始まり、私と同じようにアイドルに憧れてきた同期たちと共に、汗と涙をたくさん流し続ける日々が始まった。 歌もダンスも、取り立てて得意なわけではない。 だが、先輩たちの舞台での姿と歓声をあげるファンたちの姿を見る度に、心に強く誓った。 誰よりも人気者になってやる。 毎日毎日、筋肉痛と足裏のマメに耐えながら、必死で食らいついていくその姿に家族も次第に応援してくれるようになった。 慣れないボイストレーニングにもきっちり取り組み、乾燥するからと家では決してエアコンを使わなかった。 そうしてようやく、私は憧れのステージに立った。 「努力は必ず報われる」 ある先輩が口癖のように言っていた言葉だ。 その言葉どおり、頑張りが実を結んだのだと心から嬉しかった。 そこからは怒濤の如く、清純派アイドルとしての道をひたすら駆け抜ける日々が始まった。 メンバー投票による選抜チームには必ず名前を呼ばれることが当たり前となっていき、握手会では長蛇の列ができた。 次第にアインクルそのものが世間から認知されはじめ、その年の暮れに行われる国民的音楽番組への出演も叶った。 バラエティーにも積極的に出演するようになり、大型スタジアムでのライブやイベントが常に行われるようになり、名実ともに人気は全国区となっていった。 そうした中、私は常に「鈴木萌奈」でいることに努めた。 それによって、十代が手にするべき自由と持ち合わせるべき感性と引き換えに一握りの栄光とスターの地位を掴むことができた。 憧れの先輩や共に頑張ってきた仲間たちは次々とアインクルから卒業していき、今では実力派女優として名を馳せる者もいれば、実業家として成功しているメンバーもいる。 (私もいずれ、一人で頑張らなければいけない時がくるんだ) だがそれは苦悩の始まりでもあった…。
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