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私の歩んだ道は間違っていたのかな…
(私、ホントダメだわ…)
昨日の騒動ですっかり動揺していた私は、仕事中にあり得ないミスを連発してしまった。
何も知らない上司や先輩たちは、大丈夫かと決して怒ることはせず気遣いの声を掛けてくれる。
そのことが余計に、辛かった。
どこか上の空でまなを迎えに行き、家に帰ってからいつものように夕ご飯とお風呂と寝かしつけが待っている。
自分は今、ルーティンで動くロボットだと思わないと気が狂いそうだった。
(アイドルになったことは、間違いだったのかな?)
まなの寝顔を見ていると今までのことが思い出され、涙が次々とこぼれてきた。
SNSには今頃、あの腑抜けの顔の画像が拡散され、野次のような呟きや根拠のない憶測記事で溢れているのだろう。
目を閉じると、見知らぬ人たちの嘲笑う声が次々と脳内に飛び込んでくる。
皆誰もがのっぺらぼうのように顔が無くて、それなのに誰もが私のことを好奇と失望の目で見てくるのだ。
ここに私の逃げ場は全くない。
(もう、放っておいてよ!)
ハッとして、目が空いた。
いつの間にか、寝てしまったらしい。
まだ寒い時期であるにも関わらずパジャマがビッショリで、喉がカラカラになっていた。
そそくさと着替えた私は重い足取りでリビングに続くドアを開けた。
「ただいま」
「お、おかえり」
夫がラフな格好でくつろいでいた。
「今日、遅くなるんじゃなかった?」
「心配だからスケジュール変更してもらって、帰ってきた。顔色悪いけど大丈夫か?」
そう言って私に歩み寄り、背中をさすってくれた。
「うん、変な夢見ちゃっただけだから…」
「それにしても大変だったな」
「ごめんね、迷惑かけちゃって…」
私は何度も謝罪の言葉を口にした。
「分かった。それ以上は謝らなくていいから」
そう言って、いつものような優しい微笑みを返してくれた。
昨日は夫の宣言通り、早く帰ってきてくれた。
仕事で疲れているにも関わらず、まなの食事の介助やお風呂、寝かしつけまでしてくれた上、その後はじっくりと私の話を聞いてくれた。
無論、私を責めるようなことは言われなかったものの、
「復帰、したい?」
思わぬ問いかけに、私は思わず沈黙してしまった。
そうして私はつい数年前の、記憶の扉を開けようとしていた…。
12年在籍したアインクルを卒業し、一人前の女優として輝かしい一歩踏み出す…はずだったのだが。
案の定仕事のオファーは引きも切らず、まるでロボットのようにスケジュールをこなす毎日を送っていた。
傍目には順風満帆だったが、グループを離れた寂しさを抱えながら一人、芸能界という荒波でやっていかなければならないという思いが、かろうじて自分を支えてきた。
そんな時、夫と出会った。
当然、人見知りの私は目もくれなかった。
だが猛アプローチの末、半ば押し切られる形で人生で初めて、異性との交際が始まったのだ。
彼は私を一人の人間として接してくれ、興味のあるものを一緒に楽しむ時間が心地よかった。
少しずつ彼に惹かれていったと同時に、それまで私の心に蓋をしていた何かが音を立てて一気に解放されていったのだ。
そうしてプロポーズを快諾した瞬間、それまで色んなものに縛られていた生活から一気に解き放たれた反動か、体も心もすっかり疲れ切ってしまっていることに気づいてしまったのだ。
私はようやく、事務所の人たちに溜め込んでいた気持ちをぶちまけた。
「引退して、普通の人間として生きたい」
事務所は当然留保してきたが、私の気持ちは変わらなかった。
そうして度重なる協議の末、私は年度末でもって芸能界から身を引くことに決めた。
「そうだったな…。あの時は色々と大変だった」
夫もよっぽど思い出すのが辛かったのか、苦々しい表情で頷いている。
「俺は悔しかったよ。だって二度と素晴らしい歌声が聴けないんだって思ったら…」
それだけに今回の私の行動には驚きと戸惑いがあったのだろう。
「1回だけしか聞かないよ」
「うん」
「もなはもう一度、復帰したい?」
夫の目は真剣だった。
私は目を閉じた。
初めての劇場に立った時のことや、初めてテレビに出演した時のこと。
初めてのドラマ撮影で寝れないほど緊張した日。
アインクルを卒業すると決めた日。
私に向けられる多数のカメラフラッシュ。
挙げればキリがないほどの、たくさんの思い出たち。
私は夫の目を見据え、こう言った。
「私はやっぱり、普通の人間として生きたい」
今回のことでよく分かった。
私はやっぱり、この生き方がいい。
「そうか…うん、そうだな」
夫の目は寂しさと同時に、どこか安堵が混じっていた。
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