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「あの文豪のせいで異性に月の美しさを伝えにくくなったよね」
首にヘッドホンをぶらさげた彼女は欄干に両肘をのせて海を眺めている。
白い月光を浴びる横顔はガラス細工のように繊細で美しかった。
「ほんと困った人だよ。自分の発言の影響力がわかってない」
「まあ本人も流石にここまで語り継がれるとは思ってなかったんですかね」
「いやいや。絶対自分でも薄々『ああ吾輩って後世に語り継がれていくんだろうなあ』って感づいてたって」
「あの人たぶん吾輩とか使わないですよ」
街灯に薄く照らされた海面はきらきらと黒く泡立っている。
彼女の視線を追うと、半端に削れた月が浮かんでいた。ぼやりとした光がかろうじて海と空の境目を見せている。
「文学作品好きなんですか?」
「まあ文学に限らないけどね。本はいいよ。語彙力も読解力もつくし、何よりめちゃめちゃ感動する」
「語彙力どこですか」
あはは、と彼女の口から出た笑い声はすぐ波にさらわれていく。
それからふと思いついたように彼女は言葉を零した。
「出会いと別れはロマンチックなほうがいいよね」
「本の話ですか」
「ノンフィクションでもだよ」
「なんでロマンチック?」
「そのほうが他人に話しやすいでしょ。誰かに話せれば思い出になりやすいからね」
さざめく波音と時折橋脚にぶつかって弾ける水音が夜に響く。
そんな音たちをかいくぐるように彼女の声は際立って聞こえた。
「まあそんなわけだから、少年」
彼女はこちらを見ない。ただじっと曖昧な水平線を眺めている。
「月夜に出会った私たちは朝日と一緒に別れようよ」
彼女が暗い海に放った提案は、潮風にのって僕の耳に届く。
「出会ったばっかなのに別れる話なんかしないでくださいよ」
「突然の別れより覚悟できてるほうがまだ気が楽でしょ」
「そんなもんですかね」
「そんなもんだよ」
自分の言葉を僕にじわりと沁みこませるように彼女はそう繰り返した。
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