月の夜道に

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 あんぱんのようなまん丸の月が、暗く沈んだ町を照らす為に夜空に浮かぶ。  可哀想に、これからあの月はあんぱんの如く徐々に徐々に削られていく。そうして細くなって、消滅して消えていく。また新しいパン生地が膨らむように、月日が流れていく。  僕は夜毎にそれを眺めるのが好き。誰もいない夜道を歩いて、月の取り巻きの星達を、あんぱんのケシの実のように月に振りかける妄想に浸っている。  ぐぅ。  お腹が鳴るけども、食べ物はない。僕には帰る道もない。有るべき家もない。とても孤独だ。  夜道の空気は冷たく、僕の身を冷やす。身体の芯まですっかり冷えて、動力炉たる心臓も止まってしまいそうだ。 ――この夜に死ねるなら良いのかもな。  そんな事をぼんやり考えていると、夜道に蛍が浮かんでいた。  風情だな、と思う反面、そんなバカな、と思い当たる。  今は冬。蛍など居るはずもない。ではあれは?  近づいていくと、その正体ははっきりしてきた。夜道の道端で煙草を(くゆ)らせる男が一人、立っていたのだ。  吸って、吐いて、煙が宙に舞う。吸った時に僅かに活気を取り戻す煙草の火が、蛍の明滅に見えたのだ。  こんな場所でこんな時間に煙草を吸っている奴なんて、おかしな奴に決まっている。僕はそこを避けて通ろうとするが 「そこの兄ちゃん。ちょっとこっち来な」  声を掛けられてしまった。他には誰もいない。逃げ出すにも不自然だ。僕は渋々男の声に従う。 「兄ちゃん、月に行きたくないか?」  やっぱりおかしな奴だ、おかしな事を言いだした。僕が(いぶか)って答えずにいると、心中を察したのか男が笑った。 「あぁ、急に言われたらびっくりするよな。すまんすまん。  君、帰る場所が見つからないんだろ?」  今度はヤケに鋭い言葉にギクリとする。夜風の冷たさよりも、直接的に心臓に届く声。しかし語気には僅かに温もりを感じた。 「何でそれを……?」 「こういう仕事をしていると、分かるんだ。君みたいな子の事は、よおくね」  煙草を吸いながらも、こちらを気遣っている様子だ。僕は少しだけ警戒を解いて、彼との距離を詰める。 「……月に行ったらどうなりますか?」 「月に行ったら、静かに暮らせる」 「何もないのに?」 「何もないからだ」 「誰もいないのに?」 「誰もいないからだ」 「誰でもこう言っているの?」 「それが俺の仕事だからね」  煙草をまた一つ、吸う。吐き出された煙は天に昇っていく。 「君はもうずっとこうして眠りもせずに夜道を歩き続けてきたんだろ? もう、いいんだ。君は何も気にせず月で眠ると良いよ」 「どういう意味ですか?」 「君はもう魂だけなんだ。あとは静かに眠れる場所を探していただけなんだ。月とはそういう魂が眠る場所。だから強く惹かれるんだよ。そういう彷徨う魂を月へと連れて行くのが俺の仕事」  自分が魂だけ? やっぱりおかしな事を言う。だが、何故か得心いく。僕には、記憶がない。何故ここにいるのか、どこへ行きたいのか。ただ、夜道を歩いて、月に惹かれているだけだ。 「どうやって月へ行くんです?」  問いかけに、男はポケットからティッシュを一枚取り出した。 「このティッシュに掴まるんだ。そうしたら俺がそれに火を付ける。ティッシュは上昇気流を掴んで月まで昇っていく。着いたらそこで何をすべきかはきっと分かるよ」 「……そんなバカな」  男は僕の言葉に構わずティッシュの一端を紙縒(こより)にして、僕へと差し出した。 「さあ、掴まって」  僕は恐る恐るティッシュを掴む。男はそれを確認して、火を付ける。  シュボッとと火がつき、ふわりと身体が浮いていく。 「うわわ!」 「良き旅路を」  地上に残った男がヒラヒラと手を振る。男の姿がみるみる小さくなる。  木々が、町が、島が、地球が小さく感じていく。どこまでも登っていって、空に浮かぶあんぱん、いや月がみるみる大きくなっていく。  ティッシュが燃え尽きる頃、僕は月へと到着した。そこに着地した瞬間、僕はここで眠る宿命を本能で理解した。  月があんぱんに見えていたのは、きっと死因が飢餓だったからだろう。僕は心まで満たされ、地に身を(なげう)った。身体も記憶も、全てが月へと溶け出していく。  消滅の最期の瞬間、僕は男の事を思い出して小さく呟いた。 「ありがと……」
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