293人が本棚に入れています
本棚に追加
6.裏切りは許さない
「もう大丈夫でしょう」
病院の先生はそう言って私の右腕のギブスを外してくれた。
これでもう不便な生活を送らなくていいと思うと嬉しくてたまらない。
診察室を出ると待合室で私を待っていてくれた秋山さんと朝飛が駆け寄ってくる。
「ママ、おてて治ったの?」
ギブスの外れた私の右手を見て朝飛は恐る恐る触れてくる。
「うん、そうだよ。もう大丈夫だから通院しなくていいって」
「よかったですね、まひるさん!」
「ありがとうございます。秋山さんには大変お世話になってしまって……」
「いいんですよ。ユウヒさんの代わりですから! って、おこがましいですよね。すんません」
申し訳なさそうに頭を下げる彼に向かって私は首を横に振る。
「そんなことないよ。いてくれて心強かった。感謝してる」
雄飛に言われているからといって、日々のサポートと通院の送迎に朝飛の相手までするのは大変だったにちがいない。
「いやそんな、感謝だなんて。正直、現場にいるよりらくちんだし、お二人といて楽しかったです。あ、ユウヒさんには内緒ですよ」
あわてて秋元さんは付け足した。
これは想像でしかないが、拘束時間の長い現場にいるよりも楽な部分があるのは事実だろう。
けれど、彼の本業を邪魔してしまったことには違いない。
「あはは、わかってるよ。そうだ、もうお昼だしお礼になにか御馳走させて! なにが食べたい?」
「いいんですか? じゃあ、まひるさんのカレーが食べたいです」
「私のカレー?」
「はい。食堂で出してたやつです」
秋元さんはあの雄飛と再会してしまった日あの場所にいたそうだ。三田さんと雄飛のことが気になって、どんな人が他にいたかなんて覚えていなかった。
「いいですよ。ギブスが外れたので料理もできますし、久しぶりに私も作りたいです」
病院の帰りにスーパーに立ち寄った。
「考えてみると、こうして買い物するのも久しぶりでした」
雄飛がケータリングやお手伝いさんを雇ってくれていたおかげで、買い出しから調理までする必要がなかったのだ。
「私今、なんだか楽しいです」
「よかったです。手料理リクエストして迷惑だったかなって思ってたんで……」
「迷惑だなんてとんでもない。作って食べてもらうことが好きなんです。だから、これからも私の手料理食べに来てもらえたら嬉しいです」
料理人の性分とでもいうのだろうか。
私は私の料理を喜んで食べてもらえることに喜びを感じる。それに店を閉めている今、料理をふるまえるのは嬉しい。
「本当に良かったですか?」
「もちろんです。秋山さんなら大歓迎ですよ、ねー朝飛」
「うん。僕、お兄ちゃんのこと大好き」
朝飛は秋山さんになついている。“ギャオレンジャー(に会わせてくれた)のお兄ちゃん”だから特別なのだろう。
秋山さんが押すカートに朝飛がのり、私が食材をかごに入れていく。人参ジャガイモ玉ねぎセロリににんにく、牛筋肉と赤い缶のカレー粉、スパイス。サラダ用の野菜とフルーツを買った。
「ママ、いっぱいだね」
大きく膨らんだ買い物袋を見て、朝飛は目を丸くしている。
「本当。買いすぎたねーおいしいの作るぞー!」
「期待してます。さあ、行きましょうか」
荷物を手に取って秋山さんは言った。
マンションに戻ると早速調理を始める。
「俺、米研ぎますね」
「ありがとう。お願いします」
完治したとはいえ、久しぶりに自由になった右手はどことなくおぼつかない。
人参ってこんなに堅かっただろうか。そんなことを思いながら下準備を終えた。炒めた野菜を圧力なべに放り込みサラダを作る。
「やっぱカレーって時間かかりますよね」
申し訳なさそうに秋山さんが言う。
「でももうすぐできるし、朝飛も大好きだから。サラダ運んでもらえます?」
確かに煮込み料理は時間がかかるが圧力なべがあれば割と時短にできる。
それから出来上がったカレーを三人で食べた。
「マジ旨いっす」
秋山さんはそう言って三杯もお代わりしてくれる。釣られたように朝飛もいつもよりたくさん食べた。そして食べている途中に寝てしまった。昼寝の時間と被ってしまったからだろう。
「ありゃ。朝飛スプーン持ったまま寝ちゃいましたね」
秋山さんは朝飛の手からスプーンを抜き取って、お皿をよけてくれた。
「ありがとう。ベッドに寝かせてくるね」
口と手を拭いて、寝室のベッドの真ん中に朝飛を下ろすとお昼寝用の毛布を掛けた。満足そうに眠っている。わが子ながら寝顔は天使だと思う。
「ふふ、かわいい」
いつもなら一緒に寝てしまうが今日は秋山さんがいる。
私はリビングへ戻り、朝飛のお皿を片付けた。
それから冷蔵庫を開けて思い出す。
「あそうだ、秋山さん。昨日作っておいたプリンがあるんですけど、おなかに余裕あります?」
「あります、あります。……あ、ちょっとすいません、ユウヒさんから電話だ」
ポケットを探り取り出したスマホを耳に当てる。
「はい。すみません、昼飯食べてて……まだ店の中にいます」
いいながら秋山さんはちらりと私を見た。おそらく、どこにいるのかと聞かれてとっさに嘘を吐いたのだろう。
「ええ分かりました、すぐ向かいます」
通話を終えると秋山さんは慌てて立ち上がる。
「まひるさんすみません、ユウヒさん迎えに行かなきゃいけなくて……片づけができなくなっちゃいました」
「いいよ、そんなの。プリン持ってく?」
保冷バッグに保冷剤を入れたら夜まで大丈夫だろう。けれど、秋山さんは恐縮したように首を振る。
「いえ。ああその、すっごくいただきたいんですが、ここにいたことがバレたらユウヒさんに叱られます……」
彼の強張った顔をみて、ハッとする。
秋山さんにはこの家の出入りを許しているとはいえ、雄飛の留守中に男性を招切れて手料理をふるまうのはよくなかったかもしれないと反省する。
「そっか、そうだよね。じゃあ、まだ来た時にね」
「じゃあ俺、行きます。ごちそうさまでした。まじで旨かったです!」
深々と頭を下げる秋山さん。つられて私も頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとう。これからも雄飛ともどもよろしくお願いします」
***
「遅いぞ秋山! いったいどこで飯食ってたんだよ」
慌てた様子でレコーディングスタジオに入ってくる秋山をしかりつけた。
まひるの送迎を頼んではいたが、午前中で終わるはずだった。つまり、こいつはどこかで油を売っていたということになる。
「すみませんでしたー!」
「おい」
「はい?」
「口元、カレーがついてるぞ。子供かよ、ほら」
テーブルの上にあったウエットティッシュを渡してやる。
「さすがユウヒさん優しいっすね」
満面の笑みを返されてしまえば、怒る気力も失せる。
こいつの強みは人懐っこい性格にある。メンタルも強いし酒も強い、頭がいいのに馬鹿を演じられる。さらに顔もいい。
もしかすると俺よりもこの業界に向いているんじゃないだろうか。
「俺の顔きれいになりました?」
「なったよ。ほら、次行くぞ。車すぐ出せるか?」
「はい、もちろんです。十七時からポスター撮り。二十二時からラジオのゲスト出演ですね」
俺は秋山の運転する車で、撮影スタジオへ向かった。そこで情報誌の表紙の撮影をし、ぎりぎりでラジオの生放送に間に合った。
この番組のパーソナリティーはヒットソングを数多く持つ大物男性アーティスト山上日出郎(やまがみひでろう)。
「遅くなってしまい申し訳ございません」
秋山と一緒にプロデューサーに頭を下げ、収録ブースの中に入った。
「山上さん初めまして。ユウヒといいます。よろしくお願いします」
「やあ、どうも。よろしくね」
貫禄十分の山上さんを目の前に、さすがの俺の緊張も高まる。
テレビにはほとんど出ない山上さんだが、このラジオだけはもう20年近く続けている。音楽通で熱狂的なリスナーも多い。
だからこの番組で、俺の新曲の話を匂わせて匂わせて来月ゲリラ的に発売するという策略だ。
本格的に音楽活動をしているわけでもない俺が出演できたのは他でもない志津香さんの力。噂によると、山上さんとは元恋人同士だったという。
泥沼で別れたらしいのに、事務所のタレントのために元彼に出演交渉するメンタルの強さは見習いたいと思う。
「まあ、僕が思うに君の声ならバラードが一番映えるんじゃないかなと思うんだよ。ぜひとも聴いてみたいものだね」
山上さんはそう言ってウインクした。なんてチャーミングな人なんだろう。けれどそれは俺に向けられたものではない。彼の視線の先を見れば、腕を組んだ三田志津香がいる。
「君の今後に期待してるよ、ユウヒくん」
「……ありがとうございます」
予定されていた三十分はあっという間だった。番組は残り二十五分。俺は先にブースを出る。そして三田さんに駆け寄った。
「志津香さん、お疲れ様です」
「お疲れ。あなた、この後は何もなかったわよね」
おそらくこの後山上さんを囲んで打ち上げでもするつもりなんだろう。
「残念ですが、予定があります」
「予定ですって?」
途端に不機嫌になる志津香さんの耳もとで俺は言う。
「だって俺、お二人のお邪魔虫にはなりたくないですから。――では、お先に失礼します」
俺は足早にスタジオをでる。以外にも志津香さんは追いかけてこなかった。ということは、まんざらでもないということか。
「よかったんですか? 社長の誘い断って」
秋山は心配そうだ。
「いいんだよ」
「――で、ユウヒさんこの後は?」
「決まってんだろ、家」
「了解」そう言って秋山は車を走らせた。
***
あと三十分で日付が変わる。
今日も雄飛は帰ってこないのかもしれない。三日も会えていない。日中、朝飛と過ごしている時は息をひそめている寂しさが夜の闇に紛れてやってくる。
「雄飛、会いたいよ……」
テレビを見ていれば毎日ユウヒを見かけるけれど触れられないのは寂しい。ソファに身を委ね、クッションを抱きしめる。
するとカチャリと玄関のドアロックが外れる音が聞こえた。むくりと体を起こし、期待に胸を躍らせる。
「雄飛!」
「ただいま、まひる。いい子にしてた?」
ソファに近づいて、雄飛は私の頭をくしゃくしゃになでる。
「朝飛はいい子にしてるよ」
「違うよ、まひるがさ」
雄飛は私の横に座ってじっと顔を近づけてくる。
「し、してたよ」
「なんで照れる?」
自分でも分からないけれど、勝手に心臓がきゅんと震える――だなんて言ったら雄飛は笑うだろう。
「照れてないよ。ほらみて、今日ギブスが外れたの」
「ほんとだ」
雄飛は私の右手をそっとつかむと手の甲に唇を押し当てた。いきなりそんなことされたら、驚きと恥ずかしさで頬が紅潮してしまう。
「ほら照れた」
「……もう。意地悪しないで」
私はプイっと顔を背けた。
「悪い。でもほんと、治ってよかった」
「うん。それでね、久しぶりにちゃんとした料理を作ってね、あ……」
私は口を噤んだ。秋山さんと食べたことは秘密だった。
「ん? どうした。なに作ったって?」
「カレーをね、作ったの。朝飛ったらたくさん食べて、そのまま寝ちゃったんだよ」
私のする朝飛の話を頷きながら聞いてくれる。
「なあ。俺も食べようかな、まひるの作ったカレー」
「いまから?」
「昼から何も食べてなくて、腹減ってるんだ」
「じゃあすぐ温めるね」そういって立ち上がろうとすると雄飛は手で制する。
「自分で出来るさ。だからまひるはここにいて」
「わかった」
雄飛キッチンへ向かった。でも、すぐに戻ってきてしまう。
「どうしたの?」
少し様子がおかしい気がした。
「……やっぱやめてく。ダイエット中なの忘れてた。もう寝るよ」
「もう? 少し話さない? 私、雄飛にお願いがあって」
「なに?」
「来週なんだけど、一日、ううん半日でもいいのお休み取れないかな?」
腕の骨折も治ったのでそろそろ店の片づけをしたいと思ってた。持ってきたい荷物もあるし。
でも雄飛は「ごめん」と言って私から目をそらす。
「……休みは取れない。来週は地方で撮影があって数日は帰れないし」
「そっか、仕事忙しいもんね」
わかってはいた。でも、なんだか悲しい。どうにか予定をこじ開けてくれるかもだなんて淡い期待をしてたから。
「……頑張ってね」
「ありがとう。俺、風呂入るから先に寝てて」
そう言い切られ、私は素直に従うことにした。
「そうするね。おやすみ」
「おやすみ」
朝起きると雄飛の姿はなかった。
「私、気に障るようなこと言っちゃったのかな……」
ベッドの上で昨夜の言動を振り返ってみるが、思い当たる節はない。帰宅直後はいつもの彼だったし。
大きなため息を吐くと、朝飛と目が合った。
「起きたの? おはよう」
にこりと微笑んでみたが、朝飛はじっと私の顔をみる。
「ママ、どうしたの?」
「ん? なんでもないよ。お顔洗ってお着替えして朝ごはんにしようか」
「うん」
「どっちが早いか競争だよ、よ~い」
「ドーン」と朝飛は大きな声でいい、ベッドから飛び起きた。
「朝飛待てー!」
バスルームに駆けて行った朝飛を追いかける。この子を不安にさせないためにも私が笑顔でいなくっちゃ。
――教えて欲しいことがあるんです。
朝飛のお昼寝の時間に私は秋山さんにLINEを送った。するとすぐに返事がくる。
秋山:なんでもどうぞ!
まひる:安くレンタカーが借りられるところ知りませんか?
こんなこと聞けるの秋山さんしかいなくて。
秋山:レンタカーですか? 用途は?
まひる:店に荷物を取りに行きたいんです。なので、乗用車じゃなくて
秋山:ワゴン車とか、軽トラがいいですかね?
まひる:はい。でも、大きすぎると運転が不安で……。
秋山:なるほど、わかります。あと日時を教えてください。手配しますよ!
まひる:ありがとうございます! 急なんですが――……。
日程を伝えると、秋山さんは「間に合わせます」と言ってくれた。感謝しかない。
それから四日後の朝。朝飛をシッターさんに預けマンションのエントランスを出ると、大きなワゴン車の横に秋山さんが立っている。
「秋山さん? どうして……」
「まひるさん一人じゃ不安だろうと思って」
「まあ、たしかに。でも仕事は大丈夫なんですか? 地方で撮影があるって聞きましたけど……」
「はい。ユウヒさんのことは後輩に任せて有休取りました。行きましょう! 乗ってください」
「よろしくお願いします」
秋山さんの運転するワゴン車に乗って、店に向かう。
到着すると住居部に置いてある荷物を運び出し、処分する家具には張り紙をした。
「これで終わりですか?」
「はい、終わり……ですね」
私も我が家の荷物の少なさに驚いた。朝飛と二人、必要最低限の暮らしをしてきたので当たり前なのかもしれない。
「店の中のものは?」
「これはそのまま買ってもらう予定です。綺麗に使ってきたし、そのままの方が他の費用もかからないらしくて」
「売るんですか?」
「実はもう売買契約も済んでて、もうすぐ仲介業者の人が最終確認に来る予定なの」
そうこうしているうちに店の前に白の軽自動車が止まった。
「どうも~サンライズ不動産です」
この不動産屋さんを選んだ決め手は都内に本社があることだった。雄飛のマンションからも一駅と近く、数回通って契約を結んだ。
SNSでサーフィンとカフェオーナーというキーワードで売り出して貰ったら、思った以上に早く買い手が付いた。
思い出の詰まったこの店を手放すのは惜しいけれど、雄飛との生活は東京でしかできない。
「小森さん。物件の確認は以上です。鍵をお預かりします」
私はカバンの中から鍵の入った封筒を取り出した。そして、今日使ったカギをキーホルダーから外して手渡す。
「これです。よろしくお願いします」
「確かに、お預かりいたしました」
不動産さんを見送ると、秋山さんの車に乗り込んだ。
「秋山さん、車出してくれてありがとう」
「いえいえ。役に立てて光栄です」
秋山さんは本当にいい人だ。
私が雄飛のパートナーだからよくしてくれているのだろうけれど、普通に出会っていたら好きになってしまうかもしれない。
「もう二時だね。お昼どうする?」
「あー、そうですね。俺、行きたいところがあるんですよ」
「行きたいところってどこ?」
「少し先に海鮮料理のうまい店があって、そこに行きたいなと思ってたんですがどうですか?」
「いいね、行こう」
「じゃあ、決まりで」
到着したのは趣のある高級旅館だった。
「……ここ?」
てっきり食堂かレストランかだと思っていたのに。
「はい。以前撮影でお世話になったことがあるんですよ。日帰で温泉も入れるし、疲れを取るのにちょうどいいかなと思って。あ、もちろん混浴はしませんよ?」
一瞬でも意識してしまった自分が恥ずかしい。秋山さんと私がどうにかなるわけがない。
「わ、分かってるよ。早くいきましょ」
通された部屋には露店天風呂がついていた。
「お食事の準備ができるまでおくつろぎください」
着物を着た従業員の女性は静かにふすまを閉める。
「俺たち、恋人同士だと思われてますよね」
「……どうかな?」
「否定しないでくれてありがとうございます。俺、風呂入ってこよう。まひるさんは?」
「私はいい! 秋山さんだけどうぞ」
「そんな全力で拒否しなくても……じゃあ、遠慮なく」
秋山さんはそう言って、部屋の奥にある露天風呂へと入っていった。
静かな室内に水音が響きわたり私は後悔の念に苛まれる。
いくら秋山さんが安全な人だと分かっていてもこんな場所についてくるんじゃなかった。
ああ、でも自意識過剰かもしれない。
秋山さんはただ温泉に浸かりたかっただけなのに、私があらぬ想像をしているだけなんだ。
料理が並び終えるころ、秋山さんが温泉から出てきた。
「浴衣、着たんですね」
思わず目をそらしてしまった。
「はい。熱くて服着れなくて……なんか、ダメでした?」
「ううん、いいの。全然気にしないで! 早く食べよう」
「そうですね、めちゃ旨そう!」
秋山さんが席に着くと、女将さんがシャンパンのボトルを持ってやってきた。
「秋山様。こちら当旅館からのサービスです」
グラスがテーブルに置かれる。
「ありがとうございます。残念ですが僕は運転があるので彼女に。まひるさん、飲まれますね?」
「……ううん、秋山さんが飲まないのに私だけ飲めないよ」
「いいじゃないですか。日頃は朝飛くんもいてなかなか飲めないわけだし今日くらい。帰るころには酔いも醒めますよ。遠慮なくどうぞ」
秋山さんがそういうと、私のグラスにシャンパンが注がれる。ラベルを見ればわかる高級なお酒だ。ここまでされて飲みませんとは言いにくい。
「……一杯だけ、いただくね」
「じゃあ、乾杯しましょう」
秋山さんはそう言ってウーロン茶のグラスを掲げた。
「乾杯」
シャンパンを一口口に含む。さわやかな香りと口当たり。いくらでも飲めちゃいそう……。
「おいしいですか?」
「……おいしい、です。でもこの一杯だけで十分かな」
自分にも言い聞かせるように言った。すると秋山さんは「え?」と声をあげる。
「飲まないなんてもったいない。それじゃあ、快気祝いということにしましょうよ。それなら後ろめたさもないでしょう?」
「快気祝い?」
腕の骨折の完治したお祝いということか。
「そうです。さあどうぞ」
秋山さんはボトルを手に取ると、私のグラスに継ぎ足した。
「い、いただきます」
この一杯だけにしよう。そう思ったけれど、秋山さんはグラスが開くとすかさず継ぎ足してくれる。
食事もおいしく、勧められるがまま飲んでいると、ついにボトルを一本空けてしまった。
「まひるさん。食後になにを飲みます?」
「ウーロン茶でおねがいします」
「……あらら、結構酔いが回っちゃいましたか?」
秋山さんはすぐにウーロン茶を注文してくれた。
「秋山さんて、飲ませるのが上手だよね」
サービス精神が旺盛というか遠慮する隙を与えないというか。
「そうですか? まあ、飲みの場にはよく行くし上手くもなりますよね。大御所のタレントさんとかにどれだけ気持ちよく飲んでもらうか、とか研究しましたもん」
「へえ、それは大変そう……」
酔ったせいか突然眠気が襲ってくる。
「まひるさん? 少し横になったらどうですか? 布団を敷いてもらえるか聞いてみます」
「大丈夫だよ」
秋山さんがいるのに眠るわけにはいかない。自意識過剰と思われても構わない。
「全く大丈夫そうには見えませんけど? 帰る前に酔いを醒まさないといけませんし……まひるさんが休んでいる間俺は大浴場に行ってます。それなら安心でしょ?」
部屋に一人ってこと?それなら……。
「じゃあ、休もうかな」
「ええ、そうしましょう」
秋山さんがフロントへ電話をかけると中居さんが来て布団を敷いてくれた。
「まひるさんお水、近くに置いておきますね。そしたら俺はしばらく部屋を出ますんで、なにかあったらスマホに連絡くださいね」
「うん、わかった。ありがとう、秋山さん」
静かになった部屋の中で、私はすぐに寝てしまった。
こんな風に酔うなんて初めてだ。もしかしたらすごく疲れていたのかもしれない……。
「――さん、まひるさん。大丈夫ですか?」
秋山さんの声に起こされて、私は重い瞼を押し上げた。
「……秋山さん……? ごめん、爆睡しちゃってた」
「起きれます?」
そう言われて起きかがろうとしたけれど、思った以上に体が言うことを聞いてくれない。異様にだるくて、眠かった。
「……なんとか起きられそう。ところで今何時?」
なんとなく外が薄暗くなっている気がする。
「十八時ですよ」
「そう、十八……っ、大変! シッターさんの時間過ぎちゃってる。どうしよう」
慌てて枕元に置いていあるはずのスマホを探した。
「落ち着いてください、まひるさん、大丈夫ですよ。俺の方に連絡が来たんで延長してもらいました」
忙しい雄飛に代わり、秋山さんを緊急連絡先にしてあったのだ。
「そうだったの? よかった」
思わず全身の力が抜けた。
「じゃなくって、ああ、もう。ほんと最低……」
朝飛を預けているにもかかわらず、酔っぱらった挙句に寝過ごしたなんて母親失格だ。それにこの部屋だって……、デイユースの時間はとっくに過ぎているだろう。
「ごめんね、秋山さん。とにかく急いで帰らないと」
私は立ち上がり、バッグを手に持った。頭痛がして足がおぼつかないけれど、そんなことは言ってられない。
「ですね。行きましょう」
秋山さんは私を車に乗せると、ナビを駆使しながら一番早いルートでマンションまで送り届けてくれた。
エントランスで車を降りると私は深々と頭を下げた。
「秋山さん、今日は本当にありがとうございました。ご迷惑ばかりおかけして本当にごめんなさい」
「こちらこそ、お酒飲ませ過ぎてしまってすみませんでした」
「いえ、そんな。私が悪いんです。いつもはこんなに酔うこともないのに……」
「あ、ほら。朝飛くん待ってますよ、行ってください」
私はもう一度秋山さんに頭を下げ、朝飛の待つ部屋へと急いだ。
三日後。不動会社から入金が済んだとの連絡が入り、私は銀行へと向かった。窓口で出金の手続きをして五百万円を受け取った。
それをリュックサックの一番奥に入れ、前で抱えるようにして背負う。
昼時の渋谷は人通りが多い。ひったくりに会うんじゃないかと警戒しながらとあるオフィスビルの一角を目指す。
「ここだ……」
オフィス三田と書かれた自動扉の前でインターフォンを押すと、女性の声で応答があった。
『はい。オフィス三田でございます』
「あの私、小森と申します。三田社長にお会いしたいんですが……」
『小森様……お約束は頂いてますでしょうか?』
「いえ、約束はしていません。でもどうしてもお会いしたいんです」
追い返されるかもと思った。しかし、少しの沈黙のあと、女性はこういった。
『……少々お待ちください』
ブツリと通話が切れ、私は扉の前で祈った。
――どうか、面会ができますように。
十分ほど待っただろうか、中から女性が出てきた。
「小森様?」
「はい、私です」
「社長は今外出中なのですが、お待ちいただけるのであればお会いするそうです」
「待てます」
そのために朝飛をまたシッターさんに頼んできた。
「ではどうぞ」
女性について中へ入ると、廊下の両側には所属タレントのポスターが貼っていある。もちろん雄飛のものもたくさんあった。
「こちらでお待ちいただけますか?」
通されたのは入り口から一番近くにある部屋だった。来客なのだろうか、テーブルと両側にソファーが置いてあった。
「どうぞ、おかけください」
「ありがとうございます。失礼します」
女性はお茶と水のペットボトルを日本テーブルに置くと、そそくさと部屋を出ていく。それから私はひたすら三田社長が戻ってくるのを待ち続けた。
二時間後、部屋のドアがノックされ私は背筋を伸ばした。心臓が鼓動を速め、喉の奥が苦しい。
「お待たせしました。社長がお見えです」
女性の後に続いて、三田社長が中に入ってくる。
「ありがとう、下がっていていいわ」
そう言って人払いをすると私の向かい側のソファーに身を沈めた。
白のシャツにグレーのパンツスタイルというシンプルな出で立ちながら、まるでファッション誌から抜け出てきたような雰囲気を醸し出している。
芸能人オーラとはこれのことを言うのだろう。
「お忙しい中お時間いただいて、申し訳ありません……あの、私の事……覚えてらっいますでしょうか?」
緊張でうまく言葉が出てこない。握り締めた手のひらにジワリと汗がにじむ。
「もちろん覚えていますよ、小森まひるさん」
「あ、ありがとうございます。覚えていてくださって、」
「ご用件は?」
私の話を遮るように三田社長は言った。
「用件は……以前いただいたお金をお返しに来ました」
私は手元に用意しておいた封筒をテーブルの上に置いた。
「五百万です。やっぱり私、雄飛と別れることはできません」
言ってやった。これももう、私は三田社長に後ろめたさを感じなくて済む。
「そう。分かったわ」
三田社長は表情一つ変えずにそう言った。
拍子抜けだ。こんなにあっさりと受け入れられるなんて思わなかった。
「いいんですか?」
「ええ。それがあなたの気持ちなんでしょう。でも、ユウヒはどう思っているかしら?」
三田社長はそう言って不敵な笑みを浮かべる。その怖いくらいの美しさに思わず背筋が凍った。
「……どういう意味ですか?」
雄飛だって私のことを愛しているはずだ。もうすぐ入籍して家族になるんだから。
「どういう意味かですって? 自分の胸に聞いてごらんなさい」
そう言って三田社長は立ち上がり部屋を出ていく。
「ま、待ってください!」
追いかけようとしたが社長に何を言ってもこれ以上は取り合ってもらえないような気がして、私はそのまま事務所を後にした。
***
「ユウヒさん、帰りの飛行機なんですが最終便に間に合いそうです」
「……それなんだけど、俺こっちにもう一泊していこうかな」
地方でのながい撮影が終わった。これでようやく東京に帰れる。けれど俺は気が重かった。まひるは俺の事なんて待っていないってわかったからだ。
三日ほど前、秋山が事務所を辞めた。海外留学すると聞かされたけれど、拭いきれない違和感があった。
そしてついさっき三田社長から送られてきたメールですべてがつながった。
添付されていたフォルダーを開くと数枚の写真があった。
うちのマンションの前で抱き合う男女。よく見るとそれはまひると秋山だった。
仲良く買い物をする二人と、そしてもう一枚。布団で眠っているまひると一緒に映っている秋山の自撮り写真。
俺は愕然とした。
でもなんとなく予感はあった。そうあのカレーだ。温めなおして食べようとキッチンへ行った時、大人用の皿とスプーンが二つあったから。
食べたのは秋山かもしれないと疑っていたが、完全に黒だろう。
あいつは俺の留守中にまひるに手を出していた。まひるもまひるだ。俺のことを好きだといいつつ、そばにいる男に平気でなびく女だったなんて。
もしかしたら朝飛も俺の子供じゃないかもしれない。
そう考えて全身がゾワリと粟立った。
こんな裏切りがあってなるものか。俺は家族で幸せになるために仕事を増やして必死で働いている。
それなのに、俺が忙しく飛び回っている間にあいつは……。
「……なんでだよ」
「どうかしました?」
「ああ、いや。なんでもない。それで、ホテルにはもう一泊できる?」
すると間髪入れずに答えが返ってくる。
「はい。撮影が延びたことも考えて押さえてあるので大丈夫です。ですが、明日は東京で雑誌の取材がありますので翌朝七時台の便には乗っていただきます」
新しいマネージャーは二十代の女性でよく気が利く。秋山なんかよりも数倍。
「芦田さんて、前職はなにしてたの?」
「はい、秘書をしておりました」
「へえ、秘書ね」
なるほどね。スケジュール管理はお手の物ってわけだ。でも、真面目すぎて息が詰まる。裏切られても秋山の方がよかったともうなんてどうかしてる。
ホテルの部屋に入ると、俺はそのままベッドに突っ伏した。ジャケットのポケットの中でスマホが何度もなったが、出る気にはならなかった。きっとまひるだ。
「……まひる」
この写真の存在を知っているのだろうか。俺がこの写真を見たと知ったらどんな言い訳をするんだろう。聞きたくない。なにも考えたくない。
新曲のリリースに向けて、俺はやらなければならないことが山のようにあるんだ。
***
「……どうしたんだろう」
何度電話を鳴らしても雄飛は出てくれなかった。
今頃は都内に着いているはずなのに。
マンションのリビングで私はスマホの画面を見つめる。
五百万を返却して正々堂々と結婚できると思ったのに……、社長のあの言葉を思い出すと心が騒めく。
『ユウヒはどう思っているかしら』
雄飛は私と同じ気持ちじゃないとでもいいたげだった。いったいどういう意図があるのだろう。
「ママ」
その声にハッとして顔をあげた。
「朝飛。おいで」
寝室から出てきた朝飛を抱きしめる。
「どうしたの? 眠れない?」
「……ママ。パパに電話?」
「そうだよ。でもお仕事中みたい」
どうして出てくれないの。まさか、このまま連絡が取れなくなるなんてことがあるはずはないよね。
「さあ、朝飛。おしっこしてねんねしよう」
私は朝飛の手を引いてトイレに行き、それから寝室へと向かった。
「お布団はいろうか」
「……ママ、いかないで」
私の不安な気持ちが伝線したんだろうか。朝飛は私の手を握って離さない。
「大丈夫だよ、ここにいる。どこにも行かないよ」
朝飛の隣に寝転んで、スマホを枕の下に差し込んだ。
翌朝になっても雄飛から連絡が来ることはなかった。
今まで帰宅しないことはあっても、連絡が来ない日はなかったのに。
ベッドの上でスマホを見つめたまま考える。
もしかしたら事件や事故に巻き込まれたのかもしれない。
心配になった私は秋山さんに電話をかけた。すると、『お繋ぎできません』というアナウンスが流れてくる。
「どういうこと? ……着信拒否されてる?」
数日前まで普通にやり取りしていたはずなのにこんなに急に連絡が取れなくなることなんてあるだろうか。しかも二人同時に?
雄飛の指示だろうか?それとも三田社長の?分からない。頭が混乱する。
とにかく雄飛の所在が知りたくて、オフィシャルのSNSを確認する。すると空港のラウンジらしきところで取られたであろう写真が掲載された。
#これからフライト#東京へ帰る#ラウンジの飯が旨い
片隅に映り込んだチケットから便名を割り出し、私は朝飛を連れて羽田空港へと向かった。
国内線の到着ロビーには女性の姿が多くあった。
きっと私と同じようにチケットから到着時刻を割り出してきたのだろう。みんな気合の入った服を着て、一眼レフカメラを首から下げている子もいる。
到着時刻になると、みんな一斉に整列を始めた。私も朝飛とその列に並ぶ。
やがて一人二人と乗客がゲートから出てくる。すると突然女のたちが悲鳴のような歓声を上げた。
「キャー!!! ユウヒ~」
一斉にスマホとカメラが向けられ、ほかの乗客たちはぎょっとした表情のまま通りすぎていく。
雄飛はサングラスに上下黒のスエットにスニーカーといういで立ち。ラフで地味は服装のはずなのに、その場にいるだけで圧倒的な存在感を放っている。
その隣には秋山さんではなく、知らない女性が付き添っている。
「誰? 新しい、マネージャー?」
「ママ、怖いよ」
「朝飛。大丈夫だよ、いこう」
女性たちの歓声の大きさにおびえてしまった朝飛を抱き上げて、私は人垣をかき分けて進む。
「雄飛!!」
声を振り絞り、彼の名前を呼んだ。
「雄飛、気づいて!」
こっちを見て、ねえ、朝飛もここにいるの――けれど、雄飛は一瞥もくれることなく私の目の前を通りすぎていった。
「ママ、パパは僕のこと忘れちゃったのかな?」
無垢な瞳が不安に揺れていた。
「……そんなこと、ないよ。忘れるなんてあるはずないんだから……」
気付かないわけがない。サングラスの奥で私たちを見つけていたはずだ。じゃあどうして無視するんだろう。どうして……?
私は朝飛を抱いたままベンチに力なく腰を下ろした。
途方に暮れるというのはこういうことを言うのだろ。突然真っ暗な谷底に突き落とされてみたいにこれからどうしていいのかすら分からないでいた。
女性たちが帰り始め、到着ロビーへはまた別の飛行機から降りた客がやってくる。まるでさっきまでの喧騒が嘘みたいに静かなロビーへと戻ってしまった。
「……お家に帰ろうか、朝飛」
「うん。パパ帰ってくる?」
「……どうだろうね、お仕事忙しそうだから」
帰ってこないんじゃないかな。もう二度と。そんな気がした。
最初のコメントを投稿しよう!