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3.君を取り戻すためならなんだってする
あれからひと月。
私の住む港町は連日冷たい雨が降りしきっていた。
「ママ。今日も雨だね」
保育園のバスを待ちながら朝飛は言う。私は太陽を覆い隠している分厚い灰色の雲を見上げた。
「そうだね。梅雨だから仕方ないんだけど……」
「お空もずっとないてるみたいだね」
「え、」
お空……も?
驚いて朝飛の方を見るとこちらをまっすぐに見つめていた。
雄飛と再会してから、私は彼の事を毎日のように考えていた。彼を追い返したことを後悔して悲しんで……でもこのままではいけないと朝飛の前では気丈にふるまったりして。
彼は気づいていたのだと思う。
ああ、母親失格だ。こんな幼い子を不安にさせてしまっていたなんて。
ごめんね、朝飛。ごめん。いつかちゃんと、前を向く。大丈夫、止まない雨はないから。
「ねえ朝飛、雨が止んだらお出かけしようか」
「お出かけ?」
「そう。ママとお出かけ」
「やったー―!」
朝飛は嬉しそうにピョンピョンと跳ねた。
その姿をみてほっと胸をなでおろす。私はいつも朝飛の純粋さに救われているのだ。彼の笑顔のためになら私はなんだってできる気がする。
その日、なぜか時間になっても送迎のバスが到着しなかった。
5分、10分、15分が過ぎ、園に電話をかけようとスマホを手に取った時、着信があった。園からだった。運転手の男性が急病で入院してしまい、しばらくの間は送迎バスが出ないという。
「……どうしようか、朝飛」
園まで自転車で15分。走れる距離だが客を残して店を開けるわけにもいかない。朝の時間は稼ぎ時で臨時休業にはしたくない。しかも明日からしばらくの間……。考えあぐねていると、白いハイエースが目の前に停まった。
「おう、お前ら。こんな雨の中なにしてんの?」
コウ君だ。私は簡単に事情を説明する。すると、
「じゃあ、俺が送っていってやるよ」
そう言って、運転席から降りてくる。
「丘の上にあるくじら保育園だろう?」
「そうだけど、でも申し訳ないよ。この子が迷惑かけるかもしれないよ。騒いだり、泣き出したり、とか……」
「大丈夫だって。な、朝飛。俺と保育園行けるよな?」
「うん!」
「だとよ。じゃあ、決まりな」
コウ君は言いながら朝飛を抱き上げた。
「でも……」
「いいから。店、空けられないんだろ?」
「うん、そうなの。……ごめん、やっぱりお願いします……」
申し訳なさそうに頭を下げる。
するとコウ君は朝飛を助手席に乗せた。その横顔がいつもより大人びて見えて、私の心配は煙のように消えてなくなった。
「安全運転で行ってくるからな!」
「いってらっしゃい。朝飛の事、よろしくお願いします」
コウ君はニカっと白い歯をのぞかせて笑うと、車に乗り込みあっという間に走って行ってしまった。
「いっちゃった」
車が見えなくなると、慌てて店へ戻り閉店までの間一生懸命に働いた。
閉店時間になり店の片づけを終えた私は、レインコートを着込み外へ出て店のわきに停めてある自転車のカバーを外した。
朝よりも雨足は弱くなっているのは不幸中の幸いか。店の入り口にカギをかけて自転車にまたがった。
海沿いの道を走行していると、海風は容赦なく私を煽る。雨具のフードはとっくの昔に脱げてしまい、濡れた髪が視界を遮った。
「ああ、もう。これじゃ前が見えない」
片手で髪をかき上げたその時、バランスを崩してしまった。必死で態勢を整えようと思ったがそれもかなわず、私の体は冷たいコンクリートの上に落下した。
強い衝撃のあと、しばらく息ができなかった。下になった右腕には鈍い痛みが走っている。
「いった、……い」
立ち上がらなきゃ。そう思うのに反して、体は言うことを聞いてくれない。
「お迎えに行かなきゃいけないのに……朝飛」
もしこのまま死んだりしたら朝飛はどうなってしまうのだろう。痛くて怖くて情けなくて、泣けてくる。
どれくらいそうしたいただろう。もしかしたら数分にも満たない時間だったかもしれない。
パシャパシャと水を蹴りながら駆け寄ってくる足音が聞こえ、すぐそばで止まった。
「大丈夫ですか?」
男性の声だった。その人は私を抱き起し、はっと息をのむ大が聞こえる。
「まひる!」
「……え?」
声にならない声をあげ、私はその人の顔をまじまじと見た。雄飛だった。
***
久しぶりのオフ。俺はある確信を得てまひるのもとへ向かっていた。
梅雨入りして二週間目。今年はまれにみる長雨で、おかげでロケがいくつか中止になった。
しかも、三田さんは白根万喜の写真集撮影へ帯同していて日本にはいない。
ひとりでの外出を禁止されていたけれど、彼女の代わりの新人のマネージャーを誤魔化すのは簡単だった。俺はジムに行くと嘘をついて、マンションを出たのだ。
まひるの店まで残り二キロくらいのことろで、沿道に大きな袋のようなものが転がっているのが見えた。それが人だと認識したのはその横を通過した時だ。
慌てて車を止め、駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
ぐったりとしているその人を抱き起す。それからその人の顔をみて驚いた。
「まひる!」
まさか死んでいるなんてことは……一瞬嫌な考えがよぎったが、まひるは俺の顔をみて目を見開いた。
「よかった。生きてはいるな。動けるか?」
「……うん。でも、腕が……」
「腕? どっちだ」
明らかに動かない様子の右腕を俺はそっとつかんだ。袖をまくろうとするとまひるは顔をしかめる。
「痛いのか。かわいそうに」
折れているかもしれない。そう思った。とにかくこのままになしておけないと俺はまひるを抱き上げた。
「雄飛?」
困惑を露にするまひる。その顔をみて少しへこむ。そんなに嫌がらないでもいいだろうに。
「……まずは車にのせるよ。いいよな」
「うん……」
後部座席にまひるを乗せるといったん戻ってバッグを拾い上げ、自転車を歩道の端に寄せた。
すぐに車に戻り、運転席に乗り込むとバッグミラー越しに彼女の様子を確認する。だいぶ辛そうだが救急車を呼ぶほどではなさそうだ。
「病院、この辺だとどこが近い?」
「……その前に、行かなきゃいけないところがあって……」
「そうか、わかった。場所は?」
まひるの言った場所をカーナビに入れると保育園のようだった。俺は何も言わずに車を走らせる。海沿いの道から市道に入り、坂道を上った先に青い屋根のかわいらしい建物が見えてきた。
「着いたぞ」
「ありがとう、ほんと助かった。ここで降りるから、雄飛は帰って……」
いいながらもまひるは動こうとしない。おそらく動けないのが正解だろう。意地っ張りなところは代わっていないようだ。
俺は無言で車を降りた。
保育園の”お迎え”なんてしたことないけれど、行けばどうにかなるだろう。
玄関のインターフォンを押すと、中からエプロンを受けた女性が出てきた。
「はーい。ええと、ご用件は?」
俺を見る目は明らかに怪しんでいた。当然だ。帽子とサングラスにマスク、不審者に見えない方がおかしい。
とりあえず、サングラスとマスクを外してみる。
「あの、子供の迎えを……小森です」
子供の名前を知らないことに気が付いて、とっさにまひるの名字を名乗った。
「まあ、朝飛くんのお父さん! あさくんに、そっくりですね。本当にそっくり~」
「そう、ですか? ハハハ」
これはもはや笑うしかない。まひるにはまだ何も確かめてないけれど、そういうことだろ……。
「ていうかお父さん、俳優のユウヒに似てますよね。言われませんか?」
俺はとっさに下を向く。
「……いや、言われません。そんなに似てますか?」
「ああええと、目元が似てるかなと思ったんですけど……、でもすごくイケメンパパでうらやましいです~おほほほほ。すぐ呼んできますね」
嬉しそうに戻っていく保育士の背中を見つめて俺は思う。顔パスでいいんだろうか。
でもまあ、いいか。おかげでお迎えに成功しそうだから。
「てか、やべ……緊張してきた」
俺はそわそわしながら”朝飛“が来るのを待った。
数分後、保育士に手を引かれて朝飛がやってきた。俺はその姿に目を見張った。幼いころに瓜二つだ。毛量のある黒髪も、もの言いたげな大きな目も。
「朝飛君、パパがお迎えでよかったわね~」
保育士にそう言われて朝飛は不思議そうに俺を見た。
「パパ?」
「朝飛、帰るぞ。ママが待ってるから」
俺は祈った。なにも言わず、付いてきてくれ。まひるを一刻も早く病院に連れて行かないといけないんだ。
「ほら」
いいながら手を差し出す。朝飛は思ったのだろう。なにも言わず下駄箱から靴を取りだして履き替えると、俺の指を三本だけ握った。小さな手で、しっかりと。
「先生さようなら」
朝飛が言うと、保育士は「さようなら」と言って見送ってくれた。
俺はホッと胸を撫でおろす。歩き始めると朝飛は黙ったままついてくる。物わかりのいい子でよかった。
そう思う反面、誰にでもついていくんじゃないかとも不安になる。
顔をみると口を真一文字に結んで、今にも泣きだしそうだ。
ここで大泣きされると困るんだが。
でも、車の窓越しにまひるを見つけると嬉しそうに駆け寄っていった。
「ママだ!」
後部座席のドアを開け朝飛を抱き上げてまひるの隣に乗せた。
「朝飛! ……雄飛、ありがとう」
「ああ、うん……」
聞きたいことも確かめたいことも山ほどあるけれど、まひるの体が心配だ。
二十分ほど車を走らせ、総合病院に着く。外来診療は終了していたようで、救急外来へと通された。
まひるが検査を受けている間、待合室で俺は朝飛と並んで座っていた。
「なあ、なにか飲むか?」
俺は自動販売機を指さす。
「いらない」
朝飛は小さな頭を全力で左右に振る。
「そか」
俺はまた前を向いた。こういう時、なにをしていいのか分からなかった。
普通の父親ならどうふるまう?台本に書いてあればできるけど、リアルでは難しい。
「……ねえ、お兄ちゃん」
俺の袖をくいくいと引っ張る。
「なんだ」
「ママ死ぬの?」
朝飛の目にはみるみる涙がたまっていく。
ああ、そうか。大好きなママがいなくなるかもしれないって考えていたのか。
なんだ、かわいいじゃん。いや、真剣か。わかるよ、俺もまひるがいなくなったら……。
「死なないよ。大丈夫だ」
朝飛の頭をそっとなでた。思った以上に小さくて温かくて、いとおしさがわいてくる。
生れた時はもっと小さかったのだろう。まひるはきっと一人でこの子を育てて、苦労を重ねたに違いない。
ごめん。だけど、これからは俺が二人を守るから。安心してくれていいよ。
***
検査の結果、私の右腕は骨折していた。
手術は必要なかったが、ギブスで固定されてしまった。他は全身の打撲と擦過傷。頭は異常なしと言われたけれど、後から血種ができることがあるそうで数日は様子を見るようにと説明された。
診察室を出て清算を済ませると二人の姿を探した。
待合室の隅の方に雄飛の頭が見える。朝飛は彼の膝の上で眠っていた。
「待たせてごめんね」
「まひる。腕……」
「骨折してたみたい。しばらくはこのままだって」
肘から手のひらまでギブスが巻かれた腕を見せて苦笑いする。
「そうか。でも、命にかかわるような大けがじゃなくて安心した」
「心配かけてごめんね。朝飛のこともみていてくれてありがとう」
「いや、いい子にしてたよ。もういこうか。家まで送る」
私たちは雄飛の車に乗り込んだ。寝ている朝飛を気遣ってか、雄飛の運転はとてもやさしい。
こうしてみると、二人は本当に似ている。
「どうかした?」
バックミラー越しに雄飛が聞く。
似ていると思っていたなんて言えるわけがない。
「ううん、なんでもない」
そう言ってごまかそうと思った。けれど雄飛はまるで私の目をじっと見る。
「な、なに?」
「朝飛は俺の子だろ」
「ちが……」
「違わない。それにお前、結婚なんてしてないだろう?」
「なんで?」
「この間店に行った時も左手の薬指に指輪をしてなかったよな」
私はハッとして左手をポケットに突っ込んだ。その様子を見て雄飛は笑った。
「もう遅いって。いろいろと調べさせてもらった」
「調べたって、探偵とかそういう?」
「まあ、似たようなものかな。二週間張り付いて、客や業者以外の男性の出入りはなかった。しかもさっき、保育園で小森を名乗ったら通じたぞ、つまりお前は未婚だ。婿養子の線は薄い。それに……」
「それに、なに?」
「まひるが俺より好きになれる男なんて、この世にいないからな」
「雄飛のバカ! ふざけんな!」
一瞬で引き戻される。雄飛を全力で愛していたあの日に。
「この四年の間、どれだけ私が雄飛を忘れるための努力をしてきたかなんて、知らないくせに……酷いよ。やっぱり好きだって思っちゃうじゃん」
言葉にしたらあふれ出す、雄飛への思い。
「好きでいてよ、もう二度とまひるに愛想尽かされない男になるからさ」
「愛想尽かしたことなんて一度だってないよ」
ずっと好きだった。好きだから別れた。それを知らない雄飛も、私と同じように苦しんでいたんだ。
「まひる、泣くなよ」
気付いたら泣いていた。暖かい涙が頬を伝って流れていく。
「なあ。俺、悪者みたいだろ。朝飛が起きたら怒られちゃうよ」
「ごめんっ、でも、とまらなくて」
自分でもどうしてこんなに泣けてくるのか訳が分からない。ただひとつ言えるのは、これは悲しい涙ではないということだ。
「俺が運転中じゃなければ、まひるのこと抱きしめてやれるのに」
雄飛は言った。私も雄飛に抱きしめて欲しかった。でも、家に着いたとたん朝飛が目を醒ます。
「ママ、おなかすいた」
時計をみるともう7時だ。朝飛の夕ご飯の時間はとっくに過ぎている。
「ごめんごめん、すぐにご飯にするね。今日はカレーでいい?」
家を出る前にカレーを仕込んでおいて本当に良かったと思った。
「お兄ちゃんも食べよう」
車から降りると、朝飛はすかさず雄飛の手を握った。すっかりなついてしまったようだ。
「雄飛、時間は大丈夫なの?」
「ああ、まあ」
「無理しなくていいからね」
多忙な彼をこれ以上引き留めたらいけない気がした。
「まだ話足りないし、もう少し一緒にいたいんだよ」
雄飛を店に招き入れ、私はカレーが入った寸胴に火をつけた。
いつも簡単にしていることが片手だと婚に難しいなんて思いもしなかった。
「俺がやるよ」
「……ありがとう。じゃあ、遠慮なく」
朝飛用のカレーは小さな鍋に分けてある。それには牛乳を足して延す。小皿に福神漬けとサラダ。後は売れ残りの肉じゃが。
今日は雄飛が手伝ってくれるからいいけれど、これからしばらくの間はまともな料理は作れないだろう。店は休むしかなさそうだ。
「……来月も赤字かぁ」
誰にも聞こえないような小さな声で呟くと小さくため息を吐いた。
「さあ、できたよ。朝飛はどこに座る?」
四人掛けのテーブルにお皿を運びながら朝飛に声をかける。
「ぼくはここ。ママはそっち」
そう言いながら自分のスプーンとコップを雄飛の隣に移動させた。
「ママの隣じゃなくていいの?」
「いいの!」
あまりにもきっぱりというので、面食らう。
てっきりママの隣というと思ったのに。
雄飛は嬉しそうに朝飛を隣に座らせている。その様子があまりに自然で、胸の奥が熱くなる。ああ、このまま三人で暮らせたらどんなに幸せだろう。
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