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5.家族になろう
子供というのはとても順応性が高いのだと思う。
たった七日で朝飛は東京の生活にもすぐになれたようだった。
マンションの敷地内には公園があって半日は遊んでいられるし、少し歩けば子連れOKのカフェもある。朝飛はそこのお子様ランチプレートが気に入って二日連続で食べに行った。
私はというと、特に何もしていない。それはそれで苦痛だったりする。
雄飛は生活のすべてを”外注“で賄ってくれた。
掃除洗濯はハウスキーパー。食事はデイバリーかケータリング。髪は美容室でシャンプーブロー。朝飛専用のシッターさんも付いていて、座っているだけでほぼことが済んでしまう。
今まで朝から店に立っていたこともあり、動かない生活というのはなかなか辛いものだ。
雄飛は昼前に仕事へ行き、深夜か早朝に帰ってくることがほとんどでなかなか一緒に過ごすことはかなわないけれど、私と朝飛のためにいろいろ気を遣ってくれているのはわかっているので会えないことへの不満は特にない。
今朝は早朝から秋山さんが車で迎えに来てくれて、朝飛をギャオレンジャーのもとへと連れて行ってくれた。
私が一緒に行かないことを渋るかと思ったけれど、あっさり『いってきます』といって出発した。
ギャオレンジャーに敗北するなんて、思ってもみなかった。
「……さてと。そろそろいきますか」
今日は病院へ行く日。私は支度を整えて、玄関へと向かう。
するといきなりドアが開いた。ハウスキーパーさんは午後の約束だしまさか、泥棒?そう思い身構えた。けれど次の瞬間中に入ってきたのは雄飛で、ほっと胸をなでおろす。
「なんだ、雄飛か……って、帰ってこられないんじゃなかったの?」
昨日はロケで福岡にいた雄飛。そのまま次の現場に移動するため今日は帰宅できないといっていたはずだ。
「まひるの顔が見たくて朝一の飛行機で帰ってきたんだ。すこし充電させて……」
雄飛は私をぎゅっと抱きしめる。その腕にいつもの力はない。きっと疲れているんだろう。
「無理しなくていいのに……」
「無理なんてしてないさ。まひるに会えたら今日一日頑張ろうと思える。二人のためなら嫌な仕事も受けられる。まひると朝飛の存在って俺の原動力みたいなものなんだ」
「分かる。私も雄飛と朝飛のためなら何でもできる気がするもの」
「家族って、すごいな」
雄飛はそういって腕の力を緩めると私の目を見つめて、いとおしむようなキスをくれる。
おそらく多くの女性たちが夢見るような彼との甘い時間を当たり前のように独占できるなんて、どれほど贅沢なのだろう。
「幸せ」
「俺も。もっとこうしていたいけど、まひるは今日病院だろ? 送ってく」
「いいの? 仕事間に合う?」
「そのまま向かえば間に合うよ」
雄飛の言葉に甘えて、私は彼の車に乗り込む。
病院までは五分で着いてしまうけれど、そんな少しの時間でも一緒にいることができてうれしかった。
病院の前まで来ると車を路肩に停車させた。
「送ってくれてありがとう。雄飛は仕事頑張ってきてね」
「ああ。今夜は遅くなっても帰るから」
「うん。待ってる」
私は車を降りると歩道から雄飛を見送って病院へ向かった。
「ギブスはあとひと月はつけていましょうね。次の受診の予約を入れておきます」
整形外科の先生はそう言ってパソコン画面に視線を戻した。
「分かりました」
右腕の骨折は以外の傷はほぼ完治していて、治療の必要がないそうだ。
四週間後にギブスが取れれば、元の生活に戻れるだろう。店も再開できる。となれば雄飛のそばにはいられなくなる。通勤するのは無理だ。せっかく家族三人で暮らせるようになったというのに、私のやりたいことのためにこの生活を壊していいのだろうか。
病院の会計を済ませると午後の一時を過ぎていた。私はスマホで検索し、ランチができる店を探した。
「ここにしようかな。近いし」
そう決めてスマホをしまおうとすると、秋山さんから電話が入った。
『まひるさん? 秋山です』
「秋山さん、今日はありがとう。朝飛はお利口にしてた?」
『はい。お利口でしたよ。まひるさん今どこにいますか?』
「今? 今は病院の前の道を歩いてるところ」
『なるほど、じゃあそこにいてください。数分で向かいます』
秋山さんはそう言って電話を切ってしまった。私は言われたとおり、病院の前の道で秋山さんを待つことにした。
――数分後。私の目の前に一台のワンボックスカーが停まった。かと思うと、後部座席のスライドドアが開く。
「まひるさん、お待たせしましました。乗ってください!」
私は言われた通り、車に乗り込んだ。後部座席のチャイルドシートには朝飛が眠っている。
秋山さんによると、朝飛はギャオレンジャーの撮影現場を見学させてもらい、それからレット役の俳優さんと対面しグッズとサインをもらった。大興奮だったそうだ。目に浮かぶ。
車に乗せたら昼ご飯も食べずに寝てしまったので家の近くまで戻って私と合流しようと考えたようだ。
「急にすみません。お昼まだならご一緒しようかなと思ったんです。朝飛くんもそろそろ起きるころだろうし」
「ほんと、何からなにまでありがとうございました。私もこれからランチしようと思ってたので、一緒に行きましょう!」
私は秋山さんの車で先ほど調べていた店へと向かった。オーガニック食材を使用した和食のビュッフェスタイル。若い秋山さんには物足りないかもしれないけれど、体にはいいはずだ。
駐車場に車を止めると朝飛は目を醒ました。
「ママ?」
私がいることが不思議だったようで、じっとこちらを見つめている。
「秋山さんがママを迎えに来てくれたんだよ。これから三人でご飯食べに行こう」
朝飛を車から降ろし、三人でレストランへと入る。
店内は客が大勢いたけれど、運よく席が空いていた。私たちはお腹いっぱいになるまで料理を堪能することができた。
帰りも秋山さんは来るまで送り届けてくれた。
マンションに着くとエントランス前に車を止め中に入ろうとすると、突然秋山さんが私を後ろから抱きしめてくる。
「――秋山さん? ちょっと、なにするんですか」
「すみません、まひるさん。このままじっとしていてください」
「どういうことですか?」
「……つけられてます。いいですか、絶対に顔を向けないでくださいね、生垣のそばにいる男、週刊詩の記者です」
ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
「まさか、午前中から付けられてたんじゃ……」
無防備にも私は雄飛の車の助手席に乗ってしまった。
「午前中?」
「雄飛に病院まで送ってもらったんです」
もしその時からつけられていたのだとすれば、車に乗っていた私と雄飛も撮られているかもしれない。
「なるほど。では、こうしましょう。今から俺とまひるさんは夫婦です。俺の頬にキスしてください」
「キスですか?」
「もちろんするふりでいいんです。向こうからキスしているように写ればそれでいい」
「分かりました」
私は言われた通りに秋山さんお頬に唇を近づける。するとそれをじっと見ていた朝飛が「僕も!」とせがんだ。
「そうだな、朝飛も一緒にハグしようか」
秋山さんは朝飛を抱き上げて私の肩を抱いた。これで私たちは誰が見ても仲良し家族に見えるはずだ。
「これから俺は仕事に戻りますんで、それらしく見送ってください」
「はい」
いわれた通り、私と朝飛は車に乗り込む秋山さんを見送り見えなくなるまで手を振った。
深夜零時過ぎ。収録が終わった雄飛が帰ってきた。
「朝飛は? もう寝てるか」
いいながら寝室を覗く。
「うん。ギャオレンジャーのロボット抱きしめて寝てるよ。よっぽど楽しかったみたいで、秋山さんに雄飛からもお礼言っていてね」
「ああ。さっきスタジオであったからお礼言っておいたよ」
「そっか……」
あの後、秋山さんから電話が入り記者のことは雄飛には話さない方がいいと言われた。私もそれには同意見だった。
雄飛に余計な心配はかけたくないし、秋山さんと抱き合ったなんて知られるのは嫌だったから。
「それでまひるは? 病院どうだったの?」
「ギブスはあとひと月くらいはつけていなくちゃけないって。だからまだ病院へ行かないといけないんだ」
「そっか。ひと月は長いな。早く取れるといいな。不便だろ、これ」
「……そう、だね」
確かにギプスは不便だ。でもこれがあるから雄飛に甘えていられるのも事実。
「治ったら仕事もできるね」
「そうだな。仕事ができる。それはいいことだ」
「うん。閉めてきたお店のこと考えると、早く再開しなくちゃって思うの。待ってくれてるお客さんもいるし。それなのに雄飛と離れるのは嫌なの……」
離れるのは嫌。でも一緒にいても迷惑がかかるかもしれない。今日そんな現実に直面して、これから自分がどうしていいのかわからなくなってしまった。
「……なるほど、確かにそうだ」
「どうして冷静でいられるの? 私は雄飛とお店、どちらも大切で手放せない。そんな欲張りな自分が嫌いで仕方ないのに……」
いいながら泣いてしまった。情けないと思うけれど、雄飛といるとどうしようもなく弱い私が出てしまう。
「まひる、座って。落ち着いて話そう」
雄飛に手を引かれてソファーに腰を下ろした。
「何かのむか? ホットワインとか」
「……なにもいらない。側にいて」
「側にいるよ。だって俺たちは家族なんだから」
私は彼の腕にしがみつくようにして、引き寄せる。雄飛は私の隣に座って、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「今日さ、弁護士の先生とあったんだ」
撮影の合間に弁護士と面談したと雄飛は言った。
私たちの婚姻と朝飛の養子縁組の手続きをすすめてくれるという。
「もう少しだけ待って。法的にも夫婦になったら志津香さんにも報告する。事後報告だからあの人の力もそう簡単には及ばない」
確かにいくら三田さんといえども、事務所の力を使って離婚させられないだろう。
その点は安心かもしれない。けれど私は雄飛のこれからの仕事に影響がないか気になってしまう。
「本当にそれでいいのかな。私と結婚して仕事は大丈夫?」
すると雄飛は大きなため息を吐いた。
「……あのな。いい加減怒るぞ。俺ってそんなに信用できない? 結婚したからって人気が陰るような仕事の仕方はしてないぜ」
ハッとして雄飛の顔をみると、すごく悲しそうな目をしていた。
「もし、まひるが俺と結婚したくないならそう言って。朝飛の養育費は払うし、ちゃんと認知もする」
いいながら雄飛は立ち上がる。
「……どこへいくの?」
「スタジオ。これからしばらくは帰ってこられないから」
まるで突き放すようないいかたに引き留めることはできなかった。
私はソファーに座ったまま、無機質に締まるドアの音をただ聞いていることしかできなかった。
それからベッドに入ったけれど眠ることができない。私はスマホの検索サイトに雄飛の名前を打ち込んでみる。
この四年、私は雄飛の情報が入らないようにしていた。
テレビでさえも視聴する番組を絞っていたし、もし、雄飛が出演していたら―そう思うとギャオレンジャーでさえ本当はみせたくなかった。
でも、朝飛が保育園でお友達と話が合わないことがかわいそうでしぶしぶみることにした。
けれど幸いそこに雄飛の姿はなかった。ほっとしつつもどこか残念な気持ちになったのを覚えている。
私は雄飛の公式プロフィールから過去の出演作品のページを見る。映画ドラマにコマーシャル、雑誌や写真集に至るまで、ずらりと並んでいた。
「雄飛、こんなに頑張ってたんだね」
いてもたってもいられなくなった私はベッドを抜け出してリビングに戻る。ソファーに座り、動画配信サイトで雄飛の映画を探した。
雄飛がどれだけ努力し成長し、成功したのかが手に取るように分かった。雄飛はもう、顔がいいだけのアイドルとは違う。
気付けば朝になっていた。
起きてきた朝飛は私の隣にちょこんと座ってテレビを見つめる。
「ママ~」
「なあに?」
「パパかっこいいね」
その朝飛の言葉に私は驚きて聞き返す。
「朝飛、今パパって言った?」
まだ誰も雄飛がパパだとは説明していないはずだ。いきなり現れた自分を父親だというにはまだ信頼関係が築けていと彼がいったから。
「お兄ちゃんは僕のパパだよね? 違うの?」
不安そうに朝飛は尋ねる。
どしてそう思ったのか分からないが、雄飛の朝飛への愛情は確実に伝わっていたんだろう。それを素直に受け取って、この子は本能的に彼を父親だと認識した。
私は動揺を隠して笑顔を作る。
「……違わない。お兄ちゃんは朝飛のパパだよ」
「よかった。僕ねパパのこと大好きなんだ。ママは?」
「ママもパパのこと大好きだよ。だからこれからも三人一緒に暮らそうね」
いいながら涙がこぼれた。私はいろんな理由を付けて自分の気持ちにふたをする癖がついてしまったのかもしれない。
朝飛みたいに素直に自分の気持ちを伝えていたら、雄飛を困らせることもなかったのに。
「どうしたのママ? お手てがいたいの?」
朝飛は心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「ううん、痛くないよ。ママね、パパに会いたくなっちゃったの」
「僕も会いたいな~」
「でもパパはお仕事でしばらく帰れないって……」
スタジオに行くと言っていたけれど、どんな仕事かは言わなかった。
「テレビ見ていたら会えるかな」
朝飛が言う。
「どうだろうね。調べてみようか」
私はデジタルの番組表で雄飛の名前を検索する。今日は二十時からの生放送のトークバラエティーへ出演するようだ。
朝飛は寝る時間だけれど、少しくらい夜更かしさせてもいいだろう。
「夜のテレビに出るって。観よっか」
「うん! 楽しみだね、ママ」
朝飛の笑顔に救われる思いがした。
朝ごはんを済ませると、雄飛にLINEからメッセージを送った。
雄飛のことが大好きで、世界中が反対しても私は雄飛と結婚したいと思っているということ。
家族三人で暮らしたいから港町には戻らないということ。
それから朝飛が雄飛のことを『パパ』と呼んだことを思うままに書き綴った。
すぐに返信が来ると思った。
でも、夕方になっても既読はつかない。こんなことは今までなかった。
もしかしたら雄飛はまだ怒っているのだろうか。私の態度に呆れてもう結婚つもりがなくなってしまったとか。
不安な気持ちのまま、朝飛とお風呂に入りテレビの前に座る。
陽気な音楽とともに番組は始まった。
ベテラン司会者とゲストたちのトークで人気の番組のようだ。
ひな壇の一番前に座った雄飛が写し出されると、朝飛は興奮気味に立ち上がった。
「パパだ! みて、ママ。パパが映ってるよ」
「そうだね」
画面越しに見ても雄飛のカッコよさは変わらない。普段着とはかけ離れた奇抜な衣装でさえ様になるからすごい。
他の出演者が軽快なトークを繰り広げる中で、雄飛はあまり口を開かない。さっきから同じ女性芸人ばかりが写し出されていた。
普段はよく話す方だけど、芸能人のユウヒはクールな設定なのかもしれない。
番組も中盤に差し掛かり、司会者は雄飛に向かってこういった。
「ユウヒくんは最近凝っていることがあるんですってね?」
「ええ。朝起きたら朝飛の顔をみることが日課です」
カメラ目線のままにっこりと微笑む。その瞬間心臓が止まるかと思った。
朝飛は自分の名前が呼ばれて喜んでいるが司会者は困惑しているようだった。
「顔? あ、ああ。まあ朝日を浴びると体内時計がリセットされるって言いますもんね」
「今日も一日頑張ろうって思えるんですよ」
「なるほど~イケメンはやることが粋ですね。ハハハハハ」
そのままコマーシャルに突入し、コマーシャルが明けると別の話題になっていたけれどそれから番組が終わるまで、雄飛が映るたびに次は何を言い出すのだろうかと気が気ではなかった。
その日の夜。朝飛が寝てしまったあとに雄飛から電話が入った。
『LINE返せなくてごめん』
「ううん、いいの。生放送お疲れ様」
『観てくれたんだ』
「朝飛、喜んでた。私はドキドキしたけどね」
『そっかーよかった。俺は秋山に怒られた。三田さんにばれたらやばいってうるさくて困ったよ』
話を聞いただけで、その様子が目に浮かぶようだった。きっと収録中は私以上にハラハラしていたのだろう。
「あんまり秋山さんのこと困らせちゃだめだよ」
『わかってるよ。そんなことより、ありがとう。LINE見たよ。“世界中が反対しても雄飛と結婚したい”って、しびれた』
「……読み上げないでよ、恥ずかしい」
私は座っているソファーのクッションに顔をうずめる。
『どうしてだよ。すごくうれしかったんだぜ。ようやくまひるの本音が聞けて』
ああそうかと思った。雄飛はずっと私が本音で話していないことに気付いていたんだ。
「ごめんね。本当はずっと前から思ってたんだけど、言えなかった」
『そっか。こっちこそごめんな。本音で話せる環境じゃなかったもんな。俺の責任だよ』
「そんなことないよ。今日ね、雄飛の映画やドラマを観たの。雄飛素敵だった。プロポーズの時に結婚しても人気は落ちないって言ってたじゃない。確かにそうなんだなって、」
『おいおい。ようやくわかったのかよ。これからはイクメンパパで売るってこともできるんだぞ。最高だろ』
「うん、最高」
ベビー用品のコマシャールに出る雄飛を想像して、なかなか悪くないかもだなんて思ってしまった。
『……ああ、まひるに会いたいよ』
「早く帰ってきて!」
『わるい。無理なんだ。しばらくは帰れない』
「どうして?」
『今さ、曲作ってんの。映画の役に合わせて歌手デビューするんだ。レコーディングが終わるまではスタジオから仕事に通わないといけない』
せっかく朝飛も雄飛のことをパパだと認識できたのに、これから会えない日が続いてしまう。私だって寂しい。でも……。
「すごいじゃん。雄飛の歌、楽しみにしてるね。体に気を付けて頑張って!」
私は彼の妻である前にユウヒの一番のファンだ。だから彼の進化を応援しない手はない。
『ありがとうまひる。俺頑張るから朝飛の事、よろしくな』
「わかった。まかせておいて」
***
まひるの声はとても明るかった。
昨日までの彼女とは違っていた。
だから俺は家のことを秋山に任せて仕事の集中することができた。
歌い手としての道が開ければ、これからの仕事の幅も広がる。そうなれば不安なく家族を養っていける――そう信じて疑わなかった。
「おかえりなさい、志津香さん」
「ただいま、ユウヒ」
打ち合わせのために訪れた事務所で、昨日の深夜便で帰国していた志津香さんと鉢合わせた。
「私の不在中、変わったことはなかった?」
「はい。なにも」
「……そう。レコーディングも順調そうね。この調子で頑張るのよ」
にこり、と微笑む志津香さんの言葉に含みがないことを感じて俺はホッと胸をなでおろす。
まひると朝飛のことはばれてなさそうだ。このまま知られずに入籍してしまいたい。けれど、俺が弁護士と面会する時間が取れにばかりに手続きが進まない。
その日。朝から雨が降り、予定されていた撮影が急遽中止になった。俺は自宅へと車を走らせる。
玄関のドアを開け、まだ暗い寝室へとそっと入った。
まひると朝飛はまだ寝ていた。当然だろう。まだ4時だ。ベッドの端に腰を下ろし、二人の寝顔を見つめる。
少し見ないうちに朝飛は大きくなった気がする。そっと頭をなで、ふっくらとした頬を指でつついてみる。やわらかくて愛おしい。この感情は今まで誰もの感じたことのない特別なものだ。
「今ならよくわかるよ。子供のためには自分を犠牲にできるっていう意味が……」
「――雄飛?」
驚いたような顔で、まひるはむくりと起き上がる。
「起こしてごめん」
「どうしたの? 今日は映画の……」
「撮影が中止になったから、帰ってきた。まひるに会いたくて」
「私も。……雄飛に会いたかった」
そう言って目に涙をためたまひるをみて、たまらなくなる。
「ほったらかしにしてごめん。おいで」
俺はまひるの手を引いて、リビングに出る。寝室のドアを閉め、彼女の肩を抱き唇を奪う。久しぶりのキスに体の芯が熱を帯びていく。
「朝飛が起きるのは何時?」
「六時ごろ、かな」
「じゃあ、二時間は大人だけの時間だ」
ソファーに体を押し倒してパジャマのボタンを外した。恥ずかしがる彼女の両腕を片手で押さえると露になった胸元に顔をうずめた。
「雄飛、ダメだよ」
「どうして?」
「だって私の体、女優さんたちみたいにきれいじゃないし」
やはり気になるものなのだろうか。そもそも仕事相手と彼女は比べる対象ではないのだけど。
「またそれ言う。きれいだよ。俺にはまひるだけ。他の女性なんてどうでもいい」
「本当に私だけ?」
不安に揺れるまひるの瞳を俺はじっと見つめる。
「ああ、そうさ。なら聞くけど、俺より顔がよくてスタイルのイイ男なんて世の中にたくさんいる。まひるはそっちがいい?」
「雄飛がいい」
「だろ。じゃあ、俺を見て。俺だけを考えて。また俺の子を産んでくれ」
会えない時間を埋めるように俺たちは抱き合った。
「なあ、まひる。今日どこか行こうか。どこがいい?」
そう問いかけると、腕の中にいたまひるは困惑した様子で顔をあげた。
「……嬉しいけど、大丈夫なの?」
「大丈夫ってなにが?」
「週刊誌とか……」
確かに三人で一緒にいるところを撮られる可能性はゼロじゃない。でも、そんなリスクをいちいち考えて行動を制限するのは嫌だった。俺はみんなで出かけたい。
「平気だよ。いちおう帽子と眼鏡で変装はする。そんなことより、どこ行きたい?」
「うーんと、」
結局、起きてきた朝飛に希望を聞き俺たちは水族館へ行くことに決めた。
雨の平日ということもあり、館内はとても空いていた。薄暗い館内は俺にとっても都合がいい。
朝飛は大はしゃぎで俺の手を引いてあちこち動き回った。
まひるも楽しそうにしていて、ようやく家族らしいことができて本当に良かったと思えた。
「ありがとな、まひる」
「それ、私のセリフ。忙しいのにつれて来てくれてありがとう雄飛。朝飛もすごく喜んでいたし、もちろん私もすごく楽しかった」
イルカショーを見ながら寝てしまった息子を抱いて、俺は幸せをかみしめていた。芸能の仕事をするうえで得ることが難しいと思っていた家族という存在。
理解のある愛しい妻とかわいい息子。
「……幸せだな。明日からまた頑張るかー」
「あんまり無理はしないでね」
「ああ、わかってる。ありがとな、まひる」
俺は彼女の耳に唇を寄せると「愛してる」とささやいた。
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