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7.Will you marry me?
あの日から二週間がたった。
雄飛とは連絡が取れないままで、藁をもすがる思いで事務所へも行ってみたけれど門前払いされてしまった。
口座には雄飛からの振り込みがあるので完全に放置されているというわけではなさそうだけど……。
「いったいどうしろっていうのよ」
私のことを無視するのは百歩譲っていいとして、朝飛を悲しませるのだけは許せない。
「幸せにするって言ったのは嘘だったの?」
こんなことになるのなら店を手放さなければよかった。戻る場所さえあればまたあの日常を取り戻せたはずなのに。
静かな寝息を立てている朝飛の額にキスをして、私はリビングに戻った。
日中公園でたくさん遊んだおかげで、まだ十八時だというのにぐっすりだ。
「じゃあ、よろしくお願いします」
私は依頼したベビーシッターの女性に頭を下げる。
「多分、私が帰る前に起きてしまうと思うんですが……ぐずったら冷蔵庫にプリンを作ってありますのでそれをたべさせてください」
「はい、承知いたしました。いってらっしゃいませ」
私は急いでマンションを出ると、呼んでおいたタクシーに飛び乗った。
今夜、雄飛が出演する音楽番組がある。
観覧券は以前、秋山さんから貰っていた。捨ててしまったかも知れないと思ったが、幸い残っていた。
スタジオに着くと若い女の子たちの行列があった。私はその最後尾に着く。どう見ても年齢は一回りくらい上だけど仕方ない。
席は中央の前から五列目だった。十分近い。スタッフから注意事項の説明があり、しばらく待機したのち番組は始まった。
アイドルグループや大御所アーティストの歌を聴きながら、私は雄飛が登場するのを待ち続けた。
「いよいよ皆さんお待ちかねのイケメンが登場します」
司会者の男性が言うと、会場が騒めいた。
「本日初披露の新曲を歌ってくださるのは、このかたです!」
会場が暗転しステージ中央にスポットライトがあたる。
「ユウヒー!」
隣の女の子が叫んだ。ギターを手に、スタンドマイクの前に立つ雄飛は白いタキシードを着ていた。
まるで花婿のようなその姿に私の目はくぎ付けになった。そして、ここに来た理由すら忘れてしまうほど胸の高鳴りを感じた。
彼は酷い男かもしれない無責任な父親かもしれないそれでも私はユウヒのファンだ。
バカみたい。でも、好き。
「ユウヒ!!」
私は精一杯叫んだ。すると雄飛はこっちを見て、「まひる」そう彼の唇が動いた気がした。
「それでは歌っていただきましょう。ユウヒさんで“Marry me”」
バックバンドがイントロを奏ではじめ、会場が一瞬にして静まった。誰もが雄飛に注目し、その歌を心待ちにしていた。
でも雄飛は一向に歌い始める気配はない。なにかの演出?それともトラブル?
次の瞬間、誰かがステージに駆け寄った。フードをかぶった男性だった。
すると途端に歓声が悲鳴に変わる。
その男は雄飛に向かって叫ぶ。
「ユウヒさん、どうしちゃったんですか! どうして歌わないんですか? 俺がせっかく自由の身にしてあげたのに。これからもっと人気が出る人なんですよ、あなたは。それなのにどうして……どうして!」
スタッフの動きがあわただしくなった。
「コマーシャル入れろ」そう誰の指示が飛ぶ。
すぐに警備委にが駆けつけて、男性は取り押さえられる。
会場の外へ引きずられていくその人の顔をみて、私は自分の目を疑った。
「どうして彼がこんなところにいるの?」
***
「ユウヒさん、大丈夫でしたか?」
舞台袖に引っ込んだ俺にマネージャーが駆け寄る。
「……なんともない。それよりあの男、どこにいる?」
「あの男って、さっきの乱入者ですか? 警備員が連れて行ったので今頃はスタジオの外じゃないでしょうか」
「楽屋に連れてきてもらって。話しがしたい」
「はい? なにをいってるんですか。正気ですか」
マネージャーは目を丸くして驚いている。無理もない。ステージに駆け寄って大声を出すようなおかしな男に会いたいと言っているんだから当然か。
「大丈夫だよ。秋山だから」
「秋山、って前任の秋山さんですか?」
「そうだ。一発殴ってやらないと気が済まない」
番組はコマーシャルを挟んで他の出演者が繋いれくれたようでプロデューサーからは「最後に出番を変更した」そう告げられた。
約三十分後だそうだ。時間的には十分だ。
「ひさしぶりだな、秋山」
警備員に両脇を固められた秋山は、力なくうなだれている。
「どうしてあんなことしたんだよ」
「……俺は、ユウヒさんのファンです。あなたに憧れて、お世話がしたくて事務所に就職しました」
「それは知ってる」
秋山は誰よりも俺のファンを公言していた。だから志津香さんに願い出て俺のマネージャーにした。信頼していたし、だからまひると朝飛の世話も頼んだ。
「新曲の初披露、上手くいってほしくて。それなのに、ユウヒさんなかなか歌わないからいてもたってもいられなくなってしまって……」
「だからってあれはないだろ。お前もこの業界にいたんだし、やっていいことと悪いことくらいわかんだろうが!」
つい、いつもの調子で叱ってしまう自分がいた。
秋山はもう仕事のパートナーではないというのに。
「申し訳ありませんでした。でも今日のステージ、絶対に成功して欲しいんです」
大真面目にいう秋山に怒りを通り越して呆れてしまう。
「はぁ……。俺から大切なものを奪っておいてよく言うよ」
「大切なもの?」
「まひるのことだよ。とにかく俺はもう歌えない。あの曲は彼女と息子と俺、三人の幸せな未来を思って書いた。だからもう、歌う意味なんてないんだ」
「そんな! 違うんです」
「なにが違うんだよ」
「全部嘘なんです。俺とまひるさんにはやましい関係は一切ないんです。二人に別れて欲しくて不倫しているようにでっち上げたんです」
秋山の言葉に我が耳を疑った。
「でっち上げ? 出まかせを言うなよ。お前たちは俺のいないときに好き放題してたんだろ」
二人のために働いている時に俺を裏切って。
「信じてください、ユウヒさん」
「調子のいいこと言ってんじゃねえ」
俺の怒りは頂点に達していた。震えるこぶしを握り締めて振り上げる。
「やめなさい、ユウヒくん」
俺と秋山の間に割って入ったのは山上日出郎さんだった。
山上さんも番組の出演者で始まる前に楽屋へあいさつに行っていた。
「山上さん、どうしてここに」
俺の質問には答えず、山上さんは歌うような口調で話し始める。
「君のリハーサルを聴いていてさ、なんてひどい歌なんだろうって思ったんだ」
「え……」
これまで褒めてくれていたはずなのに。思わず言葉を失った。
「それで本番のあれでしょ、何やってんのって感じさ。とにかくあの曲を歌う資格は君にはないね」
「山上さん……」
「僕も若い頃は志津香のゴシップにいちいち腹を立ててたな。今思えばどうして愛する人のことを信じずに週刊誌のでっち上げた記事を信じたんだろうなって、年寄りの戯言よ」
戯言なんかじゃない。山下さんの言葉ですっかり目が醒めた。
「……俺、間違ってました」
「いいステージを期待してるよ」
山上さんはそう言って俺の肩をたたいた。
***
帰ろうか悩んだけれど、雄飛の出演は最後に変わったとのアナウンスを聞いて、会場にとどまることにした。
シッターさんにLINEすると朝飛は目を醒ましてしまったけれど機嫌よく遊んでいると連絡がきた。ほっと胸をなでおろす。
「いよいよラストのアーティストとなりました」
女性司会者が両手にマイクを持って声を張り上げた。
「機材トラブルの関係で順番を変更しての出演となります。ユウヒさんです」
なぜか秋山さんの乱入はなかったことにされている。大人の都合というやつだろう。
とにかく雄飛に存在をアピールして連絡をもらえるきっかけにでもなればそれでいい。
雄飛の登場に会場のあちこちから声援が飛ぶ。私はステージ上の彼を見つめた。
バックバンドが音を奏で始めて、雄飛のギターの音が重なる。伏せていた視線を前に向け、こちらを見た。
「雄飛。どうして……」
明らかに私を見つめている。気のせいなんかじゃない。
雄飛は静かに歌いはじめる。まるで耳元でささやく愛の言葉みたいに丁寧に紡がれた歌詞に感動して涙がこぼれた。
出会って惹かれ合って、愛し合って別れて。それからまた再び巡り合ってもう離れないと決めた。
「そう、だったよね」
でも、いま私たちはまた離れようとしている。
歓声と拍手に包まれて、雄飛は大勢の観客たちに手を振っていってしまった。私はしばらくそこから動けなかった。
「すみません」
そう声をかけられて我に返った。
「はい。ごめんなさい。すぐに出ます」
「いえ、そうではなくて」
このスーツの女性はどこかで見覚えがあった。
「まひるさん、ですよね」
「はい、そうです」
「よかった―見つからなかったら怒られるところでした」
心底ほっとしたような顔をして、胸に手を当てる。
「あの?」
「申し遅れました。私、ユウヒのマネージャーをしている芦田と申します。説明する時間がありませんので、とにかく一緒に来てください。こっちです」
マネージャーの女性は私の腕を掴むと、速足で歩きはじめる。
「すみません。いったいどこへ」
「楽屋です。ユウヒがあなたに会いたいそうです」
「雄飛が?」
「まったく、わがままが過ぎますよね。社長に知られたら怒られるのは私なのに」
ぶつぶつといいながらも女性はずんずんと進んでいく。
「ここです。どうぞ中へ」
白い扉の前で女性は私の手を離した。
「入っていいんですか?」
私は躊躇していた。雄飛に会えるのは願ったり叶ったりのはずのこと。でも、突然のことで心の準備がまだできていない。
会ったらまず、なんて言おう。ひさしぶり?ううん、違う。どうして連絡くれないの?これも違う気がする。
あれこれ考えていても何も始まらない。私は意を決して目の前のドアを開けた。
六畳ほどの部屋にはドレッサーと椅子、応接セットが置かれている。ソファーに座っていた雄飛は私の姿をみるなり立ち上がる。
「雄飛……」
「まひる。会いに来てくれたんだな」
ステージ上で見たままの姿の彼は私の目の前に立つと、今にも泣きだしそうな顔でそう言った。泣きたいのはこっちなのに。
「……だって、来るしかないじゃない。連絡も取れないし……朝飛だって心配してるんだよ」
「ごめん。俺がバカだったんだ。許して欲しい」
雄飛はそう言って私を抱き寄せる。
「いきなりなに、離してよ」
私は精いっぱいもがいた。けれど逞しいその腕からは抜け出すことは叶わない。
「だめだ。許してくれるまで、離さない」
「許すって何を? 私たちをほったらかしにしたこと?」
「そうだ。本当に悪かったと思ってる」
「理由は? 話してくれないと許さないから」
「分かった。説明する」
私は雄飛の腕の中で事の経緯を聞かされた。
秋山さんは雄飛の今後のために私と別れさせようとした。不倫をしていると思わせるような写真を撮って雄飛に送った。それを雄飛は信じてしまった。
「バカ。雄飛の大バカ!!」
「まひるのいうとおり、本当に俺がバカだった。秋山とまひるが不倫しているかもだなんて思ったら頭に血が上って、冷静な判断がつかなかったんだ」
「嫉妬したってこと?」
私は雄飛を見上げた。すると彼は私から目をそらす。
「……そうだ、嫉妬した。それくらい俺はお前のことが好きなんだよ。ああもう、これ以上言わせんな」
みるみる赤くなっていく雄飛の顔。耳まで真っ赤だ。
「やだ。もっと言って」
「は?」
「もっと困らせたい。雄飛のそんな顔、私しか見れないもん」
会場にいたたくさんのファンの子たちは見られない彼の素の表情。私だけが知っている特別なもの。
「ああそうかよ。だったらもっと特別な顔も見せてやる。覚悟しろ」
そう言って雄飛は私の顎先を指で引き上げる。
「目、閉じるなよ。俺のこと見ろ、まひる」
雄飛の顔が近づいてくる。その瞳には雄飛よりも顔を赤く染めた私が映っていた。
「ゆう……んっ」
唇が重なってすぐ、彼の手は私のスカートをたくし上げた。
「ちょ、雄飛。待って」
「どうして? まさかお預けにするつもり?」
「……だって、こんなところでするのはいやなんだもん」
きっと廊下にはマネージャーさんがいるはずだ。それだけじゃない。隣の部屋にだって他の出演者やスタッフもいるだろう。
「それに、朝飛が待ってるから」
シッターさんがいてくれているとはいえ、夜に家に残してきてしまったので心配だ。
「そっか。そうだよな」
雄飛はハッとして私から体を離す。
「帰ろう、家に」
「雄飛も一緒に? だよね」
「もちろん。意地でも帰る。車すぐに手配するからここにいろ」
そう言うと、控室のドアを開けた。そしてマネージャーの女性にタクシーを呼ぶように指示を出す。
「あの、ユウヒさん。これから打ち上げが……」
「悪いけど、パス。大切な用事ができた、そう言ってくれ」
翌日。役所への届け出を済ませ、私たちは正式に家族になった。事務所には事後報告するそうだ。
「本当に大丈夫なの?」
「曲も売れてるし、文句は言わせない」
雄飛の曲は発表と同時に音楽配信され、デイリーランキング一位という快挙を成し遂げた。
冬に始まる主演ドラマの主題歌への起用も決定している。
「ところで雄飛、これからどこへ?」
役所の駐車場に止めたる車に乗り込み私はそう聞いた。
「動物園だよ」
朝飛が元気よく答える。私が知らないうちに二人で決めていたみたいだ。
「ふーん。男同士、仲がいいんだね。いいな」
「まあ、そういうなって。だったら二人目は女の子にしてくださいって神様にお願いしてみようぜ」
雄飛はそう言って私の手を握って指を絡めた。
「いいの?」
「なにが?」
「二人目、とか考えてもいいの?」
雄飛の仕事に差し支えるかもしれないと思っていた。
「いいもなにも、子供は二人欲しいって出会った頃に話さなかったっけ? 俺的には三人でも四人でも授かれるものならいくらでもいいとは思っているけど」
「ありがとう、雄飛。大好き」
「俺も、好きだよ」
そう言って握った手を引き寄せて、私の手の甲にキスをする。そんな彼のぬくもりが心にしみて、思わず涙があふれた。
私の推しは最高の夫であり最高の父親だ。
おわり
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