4.誤解 Dactylorhiza aristata

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4.誤解 Dactylorhiza aristata

  取り返しのつかないことをしてしまった。 花名は本社一階に併設されたカフェで大きなため息を漏らす。純正のためにと取った行動が、あんなにも彼を失望させるような結果になるなんて思ってもみなかった。 昨日の夜、純正のマンションを飛び出して帰宅したけれど、朝まで眠ることができずにいる。 あの時の光景が何度もよみがえってきて、そのたびに自分のしたことを悔やんだ。このまま消えてなくなりたいと思うほどに。  今朝、花名は六時に鳴りだした目覚ましを止めた。ベッドサイドにある鏡を覗くと生気のない青白い顔が映っている。 「こんな顔だもん、抱く気になれなくて当然だよね」  花名は自嘲気味に笑うと、またベッドに寝転んだ。 幸い今日は非番だ。このまま夕方まで寝ていることだってできる。 けれど、けだるい体を起こして朝の身支度を整えると樹にメールを送った。 「ごめん、待った?」  約束の時間の五分前に、樹は姿を現した。グレーの細身のスーツがとてもよく似合っていて、カフェにいる女性の視線が一斉に集まってくる。 「マネージャー! お忙しいのにすみません」  花名が立ち上がり頭を下げると、樹は座るように促した。 「そんなかしこまらないでいいよ。ほら、いいから座って」 「は、はい。失礼します」  花名が椅子に座るのを見計らって、樹は店員を呼んだ。 「ブレンドコーヒーを。小石川さんは?」 「私は、水でいいです」 「そんなこと言わないでよ。ハーブティーは好き?」 「……はい」 「じゃあ、ハーブティーをお願いします。あと、新作のオーガニックケーキを彼女に」 「あの」 「嫌いじゃないよね、ケーキ。この前の試食会で食べたらおいしかったから食べてみてほしいんだよ」  このカフェは佐倉園芸の傘下にあるコーヒーチェーンを展開する会社が運営している。店のコンセプトやメニューは佐倉園芸と共同で開発しているため、試食会にも参加するのだ。その時の話を樹は花名に話して聞かせた。 「あ、ほらケーキ来たよ。食べて」  少しして運ばれてきたケーキプレートはまるで花畑のようにデコレーションされていた。 「かわいいですね」 「でしょ! 見た目以上に味もいいんだよ。このローズヒップのジャムをつけて食べると絶品なんだ」  樹の言う通り、それはとてもおいしかった。しかし、花名にはのんびりと味わっている余裕などない。 「じつは」と話を切り出す。 「シフトを変更して欲しいんです。今後は土曜日を休みにしてもらえないでしょうか」 「理由は?」  そう聞かれて花名は口を噤んだ。二つ返事で了承してくれるかもしれないと安易に考えていた。 「よほどの理由がないと、急には無理だよ」 理由ならある。  自分には、純正の前に立つ資格がない。彼のあの蔑むような目を思い出すたびに後悔の念に襲われる。苦しくて逃げだしたくて仕方がない。そんな身勝手で恥ずかしい理由を樹に話すなんてできない。 「……すみません。それなら結構です」 「まって。……もしかして、なにかあった?」 樹はまっすぐに花名を見つめる。すべてを見透かされそうな視線から逃げだしたくて花名は思わず顔を背けた。するとすかさず樹は言った。 「なにか、あったんだね。じゃなきゃ、僕を呼び出してこんな話なんてしないもの」 「……実は……」  花名が会いたくない客がいるのだというと、樹は驚いたように目を見開いた。 「ちょっと待って、小石川さんはその客に、なにかされたの?」 「いえ、そういうわけではないんです」 「本当に?」 「はい」 「シフトのことは早急にどうにかするとして、明日からしばらく休むかい?」  花名はあわてて首を横に振った。 「休むなんてそんな。私はただ、シフトの変更をしてもらえたらいいんです」  シフトの変更だけでも迷惑がかかるのに、休暇を取るなんてできるわけがない。けれど樹は首を縦には振らなかった。 「いやだめだ。これはマネージャー命令だからね。いいから休んで。明日は僕がフォローに入るから店のことは心配はいらないよ。わかったね」 「申し訳ございません」  泣き出しそうになりながら頭を下げると樹はテーブルの上に乗せた花名の手に自分の手を重ねた。 突然のことに花名は戸惑ってしまった。 振り払っていいものか、それすらもわからずに固まっていると、今度は手を握りしめてくる。 「あの、樹さん!」 驚いて声をあげると、樹は慌てて手を放した。 「あ、ごめん。頼ってもらえてうれしかったからつい。これってセクハラだね。ごめん」 「セクハラだなんてそんな。すこしびっくりしただけで……謝らないでください」 むしろ、いろいろと配慮してくれる樹には感謝しているのだ。 「ならよかった。明日から休んでいいよ。シフトの調整がついたら連絡するね」 「分かりました」  こうすれば、純正が花束を買いに来る日に店に出ないで済む。 純正を避けても何の解決にもならないことくらいわかっているのだけれど、いまの花名にはこうすることしかできなかったのだ。 「ご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」  カフェで樹と別れるとその足で花名は母親の見舞いに行った。純正がいつも回診に来る時間は午前中なので病室で顔を合わせることはないだろうと思った。 一時間ほど母と過ごし、純正のマンションへと向かった。 カーテンが引かれた薄暗い部屋。寝室に入ると純正の匂いがした。 柔軟剤とシャンプーが混じりあった清潔感のある優しい香りだ。きっと彼に抱きしめられたらこんな感じだろう。 ベッドのシーツをはがし、新しいものと交換する。洗濯機を回し、窓を開け空気を入れ替えて、部屋の掃除を済ませる。 乾燥機が回っている間に、夕食のおかずを三品作り、タッパーに入れて冷蔵庫にしまった。それから風呂を洗い、湯張りのタイマーを二十一時にセットする。それから乾いた洗濯物をたたんで、クローゼットの引き出しに入れた。 気が付けばすでに日が落ちている。まだ純正は帰宅しないだろう。しかし、長居は無用だ。花名は玄関にカギをかけると逃げるように部屋を出た。 「明日からなにをして過ごしたらいいんだろう」 有給休暇を自分のために取得したのは初めてだった。 今までは母親の看病のために休んでいた。そもそも趣味もなく、旅行に行くお金もなかったから仕事をしていることくらいしかできなかったのだけれど。 何をして過ごしたら、純正との出来事を忘れられるのだろうか。いろいろ考えてみたものの、結局なにもできなかった。 翌日も、翌々日も母の見舞いと純正のマンションへ行き仕事をこなした。 三日が過ぎ、あの日のように胸が痛むことはなくなったけれど、まだ笑顔で純正の前に立てる気がしなかった。 だから純正の部屋で家事を済ませ急いで料理を作って部屋を出ようと思った。 しかし、花名が使い終わった鍋を洗っていると、カチャリとリビングのドアが開いた。 「……どうして」  花名は自分の目を疑った。純正が帰ってきてしまった。この時間はまだ、病院にいるはずなのに。 「そんな顔、しないでくれよ」  悲しそうな声で純正は言った。花名は手にしていた鍋を水切り籠に置き、水を止める。 「すみません。私はもう帰ります」 慌ててエプロンの紐を解こうとしたけれど、うまく解けなかった。そうこうしているうちに背後から近づいてきた純正に抱きすくめられてしまった。 「帰さない。ちゃんと話がしたい。君に謝りたいんだ」  花名は混乱していた。あの夜、嫌われたと思っていたのに、突然抱きしめられて謝りたいと言われても、訳が分からない。 「どうして、先生が謝るんですか?」 「全部俺が悪いからさ。俺が不甲斐ないせいで、君にあんなことをさせてしまった」 「先生はなにも悪くありません、あれは私が勝手にしたことですから」 「聞いたんだ、晴紀にそそのかされたんだろ? それなのに、傷つけるようなことを言って、悪かった」 「もう忘れてください。私も忘れます。でも安心してください。この仕事はちゃんと継続します。だからもう、放してください」 もうずっと心臓の鼓動が騒がしい。このまま抱きしめられていると壊れてしまいそうだ。 どうにか逃れようと体を捩ってみると、純正はさらに腕の力を込めた。 「忘れるなんていわないでくれ。初めてあった日から君に惹かれてた」  自分の耳を疑った。 「――……え? いま、なんて……」 「好きだよ、花名。俺はもう、自分の気持ちに嘘をつかない」  純正はそういうと、抱きしめていた手を解いた。ようやく解放されると思った矢先、花名の体は宙に浮いた。 「あ、あの先生⁉」  いきなり抱き上げられてしまった花名は、驚きの中にいた。 「おろしてください。いきなりこんな……」 「大丈夫だよ。落としたりしないから」  いいながら純正は寝室へ歩いていく。そしてベッドの上に花名をそっと寝かせ腰のあたりにまたがった。 「花名。君のことをもっと知りたい」  下から見上げる純正の顔はいつもと変わらず美しかったけれど、どこか余裕のなさを漂わせている。 「いやならそう言ってくれていいんだよ」 「……いやじゃありません。でも私、こういうことしたことがなくて……上手にできなかったらすみません」  花名がそういうと、純正は驚いたように目を見開いた。 「経験がない?」  純正が驚くのも無理はない。処女のくせに、いきなり抱いてほしいと迫ったのだから。 「私の事、軽蔑しますか?」 「いや、そんなこと思わないよ。経験がないのにあの決断するには勇気がいったろ。そこまで思い詰めていたことに気づいてやれなくて、ごめんな」 「ごめん」と呟いた純正に花名は抱き絞められた。 体の重みで身動きが取れないのに、なぜか守られているような気がして安心できる。そしてとても愛おしいと思った。 「先生。好きです」 「俺も好きだよ、花名。君のことがとても愛おしい」    翌朝。純正の隣で目を醒ました花名はまだ眠っている彼の寝顔を黙って見つめていた。 伏せられたまつげはとても長く、高い鼻筋は頬に影を落としている。カーテンの隙間から漏れる日の光に透かされた黒髪は艶やかに輝きをまとう。 憧れに過ぎなかった純正のことをこれほどまでに間近で見られる日がこようとは、夢にも思わなかった。 「……花名? もう起きたの?」  純正はうっすらと目を開けた。驚いた花名はあわてて視線を逸らした。 「おはようございます」 「おはよう。ちゃんと眠れた?」 「はい」 「よかった。でも、まだ起きるのには早いよ。アラームが鳴るまでここにいて」 純正は横になったままの姿勢で両手を広げる。 「おいで、花名」 「……でも」 自分から純正の胸に飛び込むのはまだ恥ずかしい。 昨日の夜、純正はゆっくりと距離を縮めていこうといってくれた。普通の恋人同士のように、デートを重ねることから始めようと。 だからまだ二人は男女の仲にはなっていない。花名はあのまま抱かれてしまわなくてよかったと思っていた。それは、純正により大切にされていると思えたから。 「いいから早く来て」  純正に腕を引かれて花名は彼の胸の中にすっぽりと納まった。 まだ緊張して全身に力が入ってしまうけれど、居心地はとてもいい。肌と肌が重なって誰かの温かさを感じるということがこんなにも気持ちがいいものだなんて知らなかった。 「このまま離れたくないな」  純正は呟くように言った。花名も同じ気持ちだった。 「私も、先生のそばにいたいです」 「うれしいよ。それからひとつ提案があるんだけど聞いてくれる?」  改まった言い方に、花名は顔をあげて純正を見上げた。 「なんですか?」 「その呼び方、やめない? 先生じゃなくて純正。ほら、呼んでみて」 「無理です」  思わず口走っていた。下の名前で呼ぶなんて、恥ずかしくてできそうにない。 「どうして?」 「どうしてもです」  そう言って純正の胸に顔をうずめると、笑い声が降ってくる。 「なに照れてるの? 大丈夫だから、呼んでごらん。できないならお仕置きだよ」  純正は花名の体をベッドに敷き倒して、いたるところにキスを落とす。 くすぐったくて身を捩っても逃げることができない。こんな意地悪ならいくらでもされていたいけれど、さすがに身が持たない。 「分かりましたからもう許して」  純正はぴたりと動きを止めた。肩で息をしていた花名はひとつ深呼吸をする。 「じゅ、純正さん?」 「なんで疑問形なの?」  純正はくすくすと笑っている。 「ごめんなさい。ちゃんと呼べるように頑張ります」 「うん。いい子。花名は。かわいい」 そう言って純正は花名の頭にキスをする。 「ああ、本当にかわいいな花名は。俺、我慢できないかも……」 「え?」 「なんて嘘。ちゃんと約束は守るから安心して」 言いながら純正は花名をきつく抱きしめた。しばらくすると、純正の寝息が聞こえてくる。花名は彼の胸に額を押し付けると静かに目を閉じた。  ついうとうととしてしまったようだった。 ふと目を醒ますと純正は隣にいなかった。ベッドから跳ね起き、リビングへ出た。 するとキッチンに純正の姿があった。すこしほっとして、カウンター越しに声をかける。 「ごめんなさい、寝過ごしました。すぐ朝食の準備をしますね」  すると冷蔵庫の中を覗いていた純正は卵を手にこちらを振り返る。 「いいからすわってて。俺が作るよ」 「そんなことさせられません」  花名はあわててキッチンのカウンターの方へと駆け寄った。 「純正さんが座っててください」  はい。と手を出して卵を受け取ろうとする。けれど純正は渡してはくれなかった。 「どうして? 彼氏が彼女に朝食を作ったらダメ?」 「え?あ、彼氏?」 「俺は花名の彼氏だよな?」 「そうです。彼氏です」  純正は人生で初めてできた“彼氏”だ。言葉にすると気恥ずかしくて、顔が赤く染まってしまう。 「だったら問題ないだろ。それとも、俺の料理は食べたくない?」 「そんなことありません。食べたい、です」 「じゃあ、シャワー、浴びておいで。作っておくから」 「はい。お言葉に甘えます」  花名はバスルームに向かうと、手短にシャワーを済ませた。本当は髪も洗いたかったのだけれど、ドライヤーをかけたら時間がかかってしまいそうだったから。 リビングに戻ると、純正は驚いたような顔をした。 「ずいぶん、早かったね」 「はい」 「ゆっくりでよかったのに」 「……すみません」 「いや、いいんだ。責めているわけじゃないんだよ。ただ、花名は甘える練習をしないといけないね」 「甘える?」 「そう。ほら、座って。朝ごはんを食べよう」  テーブルの上には純正が作った朝食が並べられていた。特別凝ったメニューではなかったけれど、一口耐えて花名は目を丸くした。  オムレツはふわりと柔らかく濃厚で、口の中に入れると滑らかに溶けていく。 トーストもサクサクもっちりとした触感で、耳までおいしく食べられてしまう。 サラダにかけられたドレッシングは花名が買っておいたものとはひと味もふた味も違う美味しさがある。 「すごくおいしい」  思わずつぶやくと、純正は満足げな笑みを浮かべる。 「それならよかった」 「どうしたらこんなにおいしく作れるんですか?」  コツがあるのなら教えて欲しい。そうしたら今晩の夕食から実践できるだろう。 しかし、純正は「秘密」 そう言って純正は笑った。 「教えてくれないんですか?」 「だってそんなに特別なことはしてないからね。隠し味は愛情? だから花名の料理もおいしいよ」 「……うそ」 「うそじゃないよ。今夜も作りに来てくれるんだろ?」 「もちろんです」 「楽しみにしてる」  朝食を食べ終えると純正は仕事へ行く準備を始めた。 細身の黒いパンツに白いシャツ。とてもシンプルだけれど、着ている人間がいいとお洒落に見えるものなのかもしれない。 皿を洗いながら目で追っていた。するとそれに気づいた純正が言う。 「なにみてるの?」 「かっこいいなと思ったからつい」 「うれしいこと言ってくれるね」 「スーツは着ないんですか?」 「そうだね、なにか特別なことがない限りスーツは着ないかな。職場で着替えるし、服は割と適当だよ。花名はスーツが好き?」 「いえ、そういうわけでは……」  男性の出勤=スーツのイメージがあるからそう言っただけで深い意味はない。ただ、純正のスーツ姿は素敵だろうと思った。 「じゃあ今度、スーツでデートしよう」  純正の提案に花名は笑顔で頷いた。 「じゃあ、いこうか」 「はい」 二人でマンションを出て、病院まで向かった。店の前で純正と別れ、花名は店舗の裏口に回る。 花名が突然休んだ穴埋めをバイトのスタッフではなく、樹がしていると同僚からメールが来たのは昨日のことだった。 早く復帰しなければと思っていたところで、純正と和解することができて本当に良かったと思う。 「あれ、小石川さん!」  樹は驚いた顔で駆け寄ってくる。 「おはようございます。樹さん」 「おはよう。どうしたの?」 「長らくお休みをいただいて、ありがとうございました。明日からでも復帰させてください」  花名が頭を下げると、樹は浮かない顔を見せた。 「……そのことなんだけど、ここじゃ何だし中へ入ろうか」 「はい」  樹に付いて店の中へ入る。たった数日しか休んでいないのに、酷く懐かしい感じがする。 「シャッター開けてきますね」  花名が店の入口の方へと歩いていこうとすると、樹は「いいから座って」と少し強い口調で言った。 「分かりました」  花名が腰を下ろしたのを見計らって、樹は口を開く。 「実は、今日から新しいスタッフが来るんだ」 「新しいスタッフですか?」 「うん。シャッターの開け方から教えようと思ってる」 「そうだったんですか。それなら私が……」 「いや、小石川さんはもうここの店舗のスタッフじゃないから」  樹の言葉に花名は目を見開いた。 「どういうことですか?」 「小石川さんは本社へ異動してもらうことにしたよ」 「どうして異動なんですか?」 本社勤務になると、病院もさらに純正の家からも遠くなってしまう。 「どうして? 変な客からスタッフを守るのも僕の役目だからね」  花名はハッとした。”会いたくない客がいる”そう樹に行ったのは自分だ。 「あの話でしたらもう、大丈夫です」  さすがに仲直りしたからとは言えないが、異動をする必要はもうない。 「なにが大丈夫なの。なにかあってからじゃ遅いでしょう? 僕は小石川さんが心配なんだよ。わかるよね」 樹はスタッフを思う素晴らしいマネージャーだ。それは彼の真剣な表情を見ていたら分かる。これ以上わがままを言うのは失礼だ。 「はい、お気遣い感謝します」  「分かってくれたらそれでいいんだよ。じゃあ、明日の十時、本社に辞令を受けにくるようにね」 「承知しました」  花名は樹に向かって深々と頭を下げた。   翌日、花名は約束の時間に本社へと向かった。 時季外れの異動ということもあり、総務部で簡単な手続きをして事務員から辞令と新しい社員証を交付されただけで終わってしまった。 「これで以上です」  眼鏡をかけた年配の男性は事務的な言葉で締めくくる。 「あの。今日はどうしたらいいのでしょうか。佐倉マネージャーからは今日ここに来るようにとしか言われてなくて……」 「そういわれましても、私にはわかりかねます」 「……そうですよね。ありがとうございました」  花名はお礼を言って総務部を出た。廊下のカフェスペースで立ち止まり、樹に電話をかけようとスマホを取り出す。そんな花名の肩を誰かがポンと叩く。 「小石川さん」  花名が後ろを振り向くと、分厚い手帳とスマホを手にした樹がにこりと笑いかける。 「もう手続き終わった?」 「はい」 「じゃあ、行こうか」  樹は踵を返すとすたすたと歩き始める。その背中を花名は追いかけた。 「行くって、どこへですか?」 「仕事だよ。君は僕の補佐として働いてもらうことにしたんだ」  花名は樹に連れられて、社用車に乗った。 「あの、私はこれからどうしたらいいんでしょう……」 花名は混乱していた。てっきりj事務系の仕事に付かされるものとばかり思っていた。だから、樹の補佐することになるなんて考えてもみなかったのだ。 「あまり身構えないでいいよ。僕のしているような店舗統括の仕事を覚えてもらって、たまにスクールのアシスタントとして後輩の指導にあたってもらえたらいいなって思ってる」 「そんな仕事、私には無理です」 「無理じゃない。僕が見込んだんだからできるさ。ちゃんと指導するから焦らずゆっくりと覚えてくれたらいいよ」  評価してくれているということなら嬉しいが、どう考えても、自分にマネージャー業務が向いているとは到底思えなかった。 「そう言われましても……」  歯切れの悪い花名の反応に、樹は小さなため息を吐いて見せた。 「前にも言ったけど、僕は小石川さんのことが心配なんだよ。お客さんに言い寄られたりしないかとか、いろいろ。ゆくゆくは販売の方に戻るのもありだけど、当分の間は僕の指導下に置くということで上にも了承を得たんだ」 「だからわかって」樹にそう言われてしまうと、これ以上拒否するのは違うと思えた。 「分かりました。頑張りますのでご指導よろしくお願いします」  運転席の樹に向かってそういうと、花名はシートベルトを締めた。 「じゃあいこうか。今日は各店舗を回るつもりだから少し忙しくなるからね」  樹はエンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させる。 その日は日が暮れるまで、樹と一緒に都心のエリアにある店をくまなく回った。
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