1.初恋 Purple lilac

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1.初恋 Purple lilac

 土曜日の夕方。小石川花名(こしかわはんな)はカウンターの影に隠れて髪を手櫛で整得た後、サッと口紅を塗り直した。 彼女は業界大手の佐倉園芸でフローリストとして働いている。 この業界に足を踏み入れて三年。駅ナカのフラワーショップで半年間研修をして、総合病院の隣に建つこの店舗へと配属された。 事務所などが入っている貸しビルの一階。チェーン展開するコーヒーショップと隣り合わせのたった五坪の小さな店内。訪れる客のほとんどが患者かその見舞客で、たまに病院の職員が歓送迎用の花束を注文しに来る。 毎日が至極平凡で、入社前に思い描いていたような華やかさなどは感じられない。 そんな彼女が唯一楽しみにしてるのが、数か月前から毎週土曜日の夕方に決まって訪れる客とのやり取りだった。 (……あ、来た) 花名は自分の胸が一瞬で高鳴るのを感じた。 濃紺の上下スクラブに上着を一枚羽織ったただけの姿で店の中に入ってくるのは、隣の病院の勤務医である結城純正(ゆうきじゅんせい)。 彼の名前は首から下げているIDカードで知った。そして純正が外科医であるということも花名は知っている。 店の入り口から真っ直ぐにこちらへと向かってくるその姿はまるでランウエイを歩くモデルのようだ。 長身で端正な顔立ちをしている純正は本当にどこかの雑誌から飛び出してきたのではないかと錯覚するほどいい男だったが、その容姿だけではなく、純正は外科医としての腕も余程のものらしい。 「うちの人はあの先生に助けられたんだよ」と客が話しているのをよく耳にしていた。 また、純正の振る舞いはとても紳士的だと有名で、もちろん花屋の店員である花名へもその態度を変えることはない。 その爽やかな笑顔と優しい話し方に心癒されているのは患者だけではない。 少なくとも自分も、彼の存在に救われている。  「いらっしゃいませ」  花名が緊張気味に声をかけると、純正はふんわりと微笑んだ。 「こんにちは」 「ジャスミンの花束のご用意でよろしいでしょうか?」  花名は先回りしてそう言った。この半年、純正は毎回同じ花のアレンジメントを注文する。 「ええ、はい。さすがに覚えられてますよね、お恥ずかしい」  少し恐縮したように純正が言ったので、花名は慌てて否定する。 「そんなことありません! いつも当店をご利用いただいてありがとうございます」 「こちらこそ。いつもきれいな花束を作ってくれてありがとう」  花名は思わず言葉を失った。この仕事についていて、一番うれしい言葉を憧れの人にかけてもらえたのだから当然だ。何度も脳内で再生され、思わず顔がにやけそうになる。 「ああそれから、今回からは茎を短めにしてもらえますか。買い替えた花瓶に入れるとバランスが悪くて、……ってどうかしましたか?」  小首をかしげられ、花名はっとして我に返る。 「――あ、はい。かしこまりました。茎は短めに仕上げます。少々お待ちください」  カウンターから出てフラワーキーパーを開けると、ジャスミンと白いトルコキキョウを数本ずつ取り出した。 それらの茎を注文通りに短めに水切りし作業台に置くと、一度長さを見せてからピンク色のシフォンのリボンと包装紙でコンパクトなブーケに仕上げた。 「出来上がりました。こんな感じでいかがですか?」 「綺麗ですね。どうもありがとう。いくらですか?」 「三千五百円になります」  差し出された五千円を受け取りレジを開くと釣銭を取って純正の掌に載せた。 指先が触れるか触れないかの微妙な距離がもどかしい。 「いつも、ありがとうございます。またお持ちしています」  純正を見送った花名は胸の奥に重だるさを感じて、ため息をひとつはいた。 けれど、なぜだかスッキリとしない。 これが恋だということに、花名は気づいてはいるけれど、いまいち確信が持てないでいた。 なぜわからないのか。それは彼女が恋をする余裕もなく十代を必死に生きてきたからだ。  花名は運送会社を経営する父と母の間に生を受けた。家は裕福でなんの不自由もない幸せな暮らし。 しかし、花名が小学三年生の時に父親が他界した。 その後母親が後を継いだが、お嬢様育ちで人を疑うことを知らなかった母親は他人に騙されて会社を奪われてしまったのだった。 手元には借金だけが残り、返済のために思い出の家を手放した。 それでも完済には足りず、仕事を求めて東京に移り住んだ。 花名は身を粉にして働く母の背中をずっと見てきた。 決して恨みは口にせず、泣き言は言わず、常に笑顔を絶やさない。そんな母親の苦労を少しでも軽くしたかった花名は、高校生になると家計を支えるためにアルバイトを始めた。  学業との両立は想像以上に大変で恋をする余裕はなかった。お洒落をしてデートを楽しむクラスメイトをうらやましいと思わなかったわけではない。しかし、生きていくだけで精いっぱいの自分にそんな資格はないとさえ思った。 色褪せた日常の中で、癒しをくれたのは都会の隅に咲いている草花。ひっそりと、けれど逞しく咲いている花に自分を重ねずにはいられなかった。 だから将来は花に携わる仕事をしようと心に決めていた。 大学進学はせず、就職を決めた花名に母は『ごめんね』といった。 大学にはいかずに働くといった娘を不憫に思ったのだろう。 『違うよ、お母さん。私はこの仕事がしたいの。だから、謝らないで。お願いよ』 花名は母親にそう言い続けた。今では頑張る花名を応援してくれている。 しかし、ようやく借金返済のめどがたったとたんに長年の過労がたたったのか、体調を崩し入退院を繰り返しているのだ。  「小石川さん、お疲れ様」  パリッとしたスーツ姿で現れたのは、花名の働くエリアを統括しているマネージャーである佐倉樹(さくらいつき)。 小さな顔に大きな目。アイドルグループで活躍していそうな印象だ。 童顔で今年三十歳になるとは到底思えないだろう。 樹は佐倉園芸の社長の二番目の息子で、兄である桂(かつら)を傍目に見ても分かるくらいにライバル視している。 社員の間ではどちらが次期社長になるのかということがよく話題に上っていた。 兄の桂は平和主義で堅実。弟の樹は野心家で常に時代の先を見ている。 兄弟のどちらかが社長に選ばれるのではなく、兄弟力を合わせて会社を盛り立てて行けばいいのにと花名は思う。 「お疲れ様です、マネージャー」 「そう言えばお母さんの具合どう?」  樹は売り上げ伝票を確認しながら花名に問いかける。 「お気遣いありがとうございます。お陰様でだいぶいいです。先生からは週明けの検査の結果が良ければ退院してもいいって言っていただけました」 「そっか、よかった。じゃあこれ、お母さんに」  樹は上着の内ポケットから出された包みを見て、花名は恐縮した。 「……そんな、受け取れません。お気持ちだけで十分です」 「いいから、ほんの気持ちだから」  以前母親が入院した際にも樹は同じことをしてくれた。赤い水引が印刷されたそれには、結構な金額が入っていて受け取ったことを後悔したほどだ。 「ですが、母は入退院を繰り返していますし、毎回いただくわけにはいきません」  丁重に断る花名に樹はその態度を崩さない。 「いいから。素直に受け取るのがマナーだと思わない?」  樹は軽く片目を瞑ると花名のエプロンのポケットに差し入れる。 「マネージャー!」 「ほら、怒ると可愛い顔が台無しだよ。じゃあ、僕はそろそろ行くよ」  樹はくるりと踵を返すと、ひらひらと手を振って店を出て行ってしまった。 花名は樹から渡された包みをそっと開けてみる。中には一万円札が五枚も入っている。 「……またこんなに。どうしよう」  花名は困ってしまった。どうにかしてか返したかったが、樹のあの様子では受け取ってはもらえないだろう。 「仕方ない。お母さんに相談しよう」 そもそもこの見舞金は自分にではなく、母親にあてたものだ。だから受け取るかどうかは母親に決めてもらうことにしよう。 花名はそう考えて、包みをバックの奥にしまった。  花屋の閉店は午後六時半。 店内の掃除をし、ゴミをビルの裏側にある回収場所まで運び終わると店の入り口にカギを掛けた。そのまま病院の正面玄関に向かい駅に向かうバスに乗り込んだ。 バスには勤務を終えた病院職員も数名乗っている。いるはずがないと分かっていながらも花名はつい、純正の姿を探してしまう。 (先生がバスになんて乗るわけないじゃない。きっと車通勤だわ)  運転手の後ろの席に腰を下ろし、読みかけの小説をバックから出す。 駅までの十分が花名の自由時間だ。夕焼け色の光が窓から差し込んで花名の頬に落ちる。眩しさに目を閉じると、そのまま眠ってしまいそうになる。 それくらい花名の体はつかれていた。 これから母の見舞に行き、今日出た汚れ物の洗濯をする。面会が終わるとビルの夜間清掃のバイトに向かわなければならない。 この仕事はもともと母のものだったが、入院している間だけという約束で花名が入らせてもらっている。 こうでもしないと母の抜けた穴は誰かほかの人に埋められてしまい、職場復帰が難しくなる。それだけは避けたかったし、追加で収入を得られるのは花名にとってとてもありがたかった。 母親の入院費は思った以上にかさんだ。限度額を超えた分は国の制度が保証してくれるが、食事代は自費で、見舞いに行く交通費も自腹だ。実際のところ、それすら捻出するのが厳しい状況だった。 早く借金を返済できれば少しは楽になるのだが、あと少しが返せない。病の床に臥せっている母に、こんな愚痴をこぼせるわけもなく、花名はひとりで耐えるしかなかった。 「お母さん、体調はどう?」  都立病院の五階内科病棟。四人部屋の窓際のベッド。急性期の病棟ということだけあって入退院が多く、今や花名の母親がこの病室の一番の古株になってしまった。 「あら、花ちゃん。いらっしゃい」  母の顔はまるで陶器のように透き通った白をしている。頬の肉がそげ、鎖骨が浮いていた。 「なんか、痩せた?」  痩せたというよりはやつれている。毎日見ていても分かる程の変化というのは異常ではないだろうか。本当に検査の結果が良ければ退院できる状態なのだろうか。花名は母の顔をじっと見つめた。 「やだ、花ちゃん。そんなに見ないで。大丈夫よ。じゃなきゃ先生も退院の話なんてしないでしょう? それに食欲はちゃんとあるのよ。今日は夕食の後、お向かいのベッドに入院してきた添田さんに苺をただいて食べたの」  美味しかった。そう言って笑う母の顔には元気だった頃の面影がない。湧き上がる不安に耐え切れず、花名は洗濯物が入った袋を掴むと「洗濯してくるね」とだけ言って病室を出た。 とぼとぼと廊下を歩きながらナースステーションの前を通り過ぎる。ふと顔を上げると個室の前の廊下に家族らしき人たちが大勢集まって泣いていた。 (……誰かが亡くなったんだ) 花名は急ぎ足でその前を通り過ぎるとその先にあるランドリーに向かった。 あいにく、いくつかある洗濯機はすべて用中だった。表示された時間を見てまわり、その場で待つことにした。 使い古された丸椅子に腰かけて、ただぼんやりと時間が過ぎるのを待った。 やがて入院患者らしき男性が仕上がった洗濯物を取りに来て、花名に声を掛けてくれる。花名は会釈だけすると洗濯機の端にある機械にプリペイドカードを通し、洗剤を入れた。 仕上がるまでの六十分をいつもは母親の病室で過ごすのだが、今日は足が向かない。しばらく考えた花名は談話室の自販機でコーヒーを買い端の方に腰を下ろした。 コーヒーを啜りながら読みかけの小説を開いてみるが、ストーリーがまったく頭に入ってこなかった。 「小石川さん?」  不意に声をかけられて、花名ははじかれたように顔を上げる。 すると白衣を着た若い男性がすぐ傍に立っていた。 「あ、母の主治医の……」 「そうですそうです、お母さまの主治医の大津です。覚えてくれてましたか」 「はい。ご無沙汰しています」 「ほんと、久しぶりですね。でもよかった、やっとお会いできた」 「やっと?」  言われている意味が分からずに、花名は小首を傾げた。すると大津は怪訝そうな顔をして話を続ける。  「ええ、何度もお呼びしましたよね。でも、お仕事がお忙しいとかで病状説明の席に同席していただけなかったんじゃないですか」 大津の言葉に花名は更に首を傾げる。 「いつ、呼ばれたんでしょうか?」 「どういうことですか? お母様から何も?」 「……ええ」  花名がそう答えると、大津は少し考えるそぶりをした。 「ちょっといいですか。ここじゃなんなんで、場所を移りましょう」  大津は花名を立ち上がらせて歩き出す。向かった先はカンファレンスルームだった。 使用中の札をドアノブに下げると「どうぞ」と花名を部屋の中に入れる。 「そこの椅子に掛けてください」 「失礼します」  花名は言われたとおりに椅子に腰を下ろした。嫌な予感がする。握りしめた拳には大量の汗が滲んでいる。 「あの、単刀直入に言います。お母様の御病気のことですが、あまりいい状態ではありません」  花名は驚いた。しかし、どこか腑に落ちたような感覚もあった。あの母親の顔を見れば当然のことだった。 「それ、ほんとうなんですか? 母からは週明け退院できるって聞いていました」 「ああ、はい。退院の話はしました。しかし、その選択は治療を諦めるという前提での話です。今後のこともあるので、娘さんにもお話しなければならかったのですが、おそらくお母様はあなたに隠したくて嘘をついているのでしょう」 大津は花名に母親の病状を事細かに話し始めた。 病名は膵臓癌であり、手術は難しい状態であること。 今後は食事を通すためにバイパス施術などが必要になること。 延命は難しいかもしれないということ。 花名は震える手でメモを取りながら聞いていた。 「……そんなひどかったんですか。どうにか助かる方法はありませんか?」 「ありません。というのが私の見解です。ご納得していただけないのも分かります。もしよろしければ、セカンドオピニオンを受けてみたらいかがでしょう?」 「セカンドオピニオン?」  初めて聞く言葉だった。そんな花名に大津は丁寧に説明を加える。 「はい。ザックリと言えば、私以外の医師に見解を聞くことです。こちらでの検査データはお貸しします。それを持って、お母さんの治療法が他にないかを聞いてください」 「どちらの病院へ行けばいいのでしょうか?」 「お勧めするのは深山記念病院でしょうか」 「深山記念」 「ええ、あそこには私の先輩にあたる優秀な外科医がおります。もしかしたら新たな治療法を提案されるかもしれません。そうなれば転院していただくことも出来ますよ」  深山記念病院はいわゆるセレブ病院として名高い。全室個室で部屋代は自費扱いとなるため、治療費を含めるとひと月百万円はくだらない。 売りは高級ホテルにも引けを取らない設備とホスピタリティー。日本全国から集められた優秀な人材。政財界の人間や芸能人が好んで治療を受けに来ている。 その病院の隣で働いている花名はよく知っていた。 「まあ、考えておいてください。お母様ともよく話し合っていただいて」 「はい。分かりました」 「もし、セカンドオピニオンを受けたいのなら、平日の十七時くらいまでに僕のところに来てくださればお話しできると思います」 「ありがとうございました」  花名は大津に頭を下げるとカンファレンスルームを出た。 その足でランドリーに向かうと乾燥まで終えた洗濯物を取り出して、狭いスペースで母親の下着を畳んだ。 父に続いて母まで失ったら自分はひとりになってしまう。そう考えると涙を止めることが出来ない。  洗濯物を畳み終えた花名は母親の病室へと戻った。 「おかえりなさい。だいぶかかったのね、洗濯」 「うん、ランドリー混んでて……」  花名はそう言いながら、母の洗濯物を床頭台の引き出しにしまった。そして、樹から渡された見舞金をバックから取り出す。 「それとこれ、会社の人から頂いたの」 「あら、お見舞い?」  花名から受け取ると、包にかかれた名前をじっと見た。 「……佐倉さんって、以前もお見舞いを下さった方でしょう?」 「うん、そう。頂てばかりじゃ申し訳ないからお断りしたんだけど、どうしても受け取って欲しいっておっしゃるの」 「ありがたいわ。お気持ちは素直に頂戴しましょう。もしかしたらその人、花ちゃんのことが好きなのかもしれないわね」 「まさか! マネージャーが私のことを好きだなんて、あり得ないよ」  花名は母の言葉をすぐさま否定した。 樹は花名の家庭の事情を知っていて、気にかけてくれているのかもしれないけれど、自分にだけ特別ということはないはずだ。 ましてや平社員の自分のことを好きなんてなるはずがない。 樹は社員の誰にでも優しい。そんな彼の態度に勘違いする女性の社員もいると聞く。 だから樹の優しさをイコール好意ととらえては駄目なのだ。 「そうなの? でも、いい方なんでしょう? 花ちゃんはどう思っているの?」 「いい人よ。仕事もできるし、とても素敵な人」 「そんな人がお婿さんになってくれたらいいのに。そうしたらとっても安心だわ」 「お母さんは私が結婚したら安心なの?」 「そうね。安心してお父さんとところへ行ける」 「なんでそんなこと言うの!……いやよ、私はまだまだお母さんに心配してて欲しい。だからひとりにしないで……」  花名は自分の声が震えているのに気づいた。これ以上ここにいたら泣きだしてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。 無造作にバッグを手に取ると、母に背を向けた。 「ごめん、お母さん。バイト行くからもう帰るね」 「……花ちゃん。いってらっしゃい」  振り返ることはできなかった。もしかしたら母親も自分と同じような悲しい顔をしているかもしれない。そんな顔を見たら、立ち直れそうもない。 (神様はどうして私に意地悪ばかりするんだろう) 大切な人を失うあの引きちぎられるような痛みは、もう二度と経験したくはなかった。 それなのに父に続いて母までも神様は奪おうとしている。 花名は考えた。どうしたら母を救うことが出来るのか。 進むべき道はひとつしかないのだろう。 大津の言っていたセカンドピニオンを受けてみよう。 そうと決まればすぐにでも行動したほうがいい。明日は日曜日で店が混む。だからパートのスタッフがヘルプに入るはずだ。けれど、夕方以降はその忙しさも下火になるはずだ。 無理を言えば早退させてもらうことは可能だろう。その足で大津に話しをしに行こう。 もちろん母には内緒だ。 全ての段取りが終わるまで、黙っていた方がいい。  翌朝花名はいつも通りの時間に出勤したビルの裏手にある通用口から入って、店の入り口のカギを開ける。 隣にあるコーヒーショップはもうすでに開演準備を終えているのだろう。香ばしいコーヒーの香が花名の鼻腔を抜けていった。思えば昨日の昼以降何も食べていない。 お腹を空かせた花名は小銭入れを握り締めて、隣の店に入った。 「いらっしゃいませ。ああ、隣の花屋さん」  同い年くらいの店員が人懐っこい笑顔を花名に向けてくれる。 「カフェ・ラテ下さい。それと、シナモンロールひとつ」 「――あと、ブレンドコーヒーもお願いします」  背後から突然かけられた声に驚いて振り返ると、私服姿の樹が立っている。 「マネージャー! どうしたんですか? 日曜日はお休みのはずですよね」 「うん、そうだよ。昨日の夜にバイトの子から休みの連絡が入ってね」 「だからって、わざわざ樹さんが出てこなくても……」  ほかにも調整がきくバイトスタッフが大勢いるはずだ。樹がわざわざ代理で出勤する必要なんてない。 「たまに店舗スタッフの仕事をするのも勉強になるんだよ」  確かにそうかもしれない。けれど、自分の休日をつぶしてバイトの代理で出勤するんなんてなかなかできることではない。 「マネージャーは本当に仕事熱心なんですね。尊敬しちゃいます」 「そんなことないよ。でも嬉しいな、小石川さんにそう言ってもらえて」  いいながら樹は店員にクレジットカードを差し出した。 「彼女の分もこれでお願いします」 「まってください。自分の分は自分で払います」  慌てて財布を開こうとすると樹は手で制する。 「いいから。僕の顔を立ててよ」  樹にそう言われてしまうと、これ以上抵抗するのも気が引けた。 しかも、レジ前で払う払わないの押し問答を繰り広げるのは迷惑だろう。 次の機会にお返しをすることにしよう。 花名はそう考えた。 「ごちそうさまです」  お礼を言って丁度出来上がったカフェ・ラテとシナモンロールを受け取る。 花屋に戻り、花名は樹とカウンターの中にある椅子に並んで座った。 「あ~、美味しい」 甘いシナモンロールは疲れた体に優しくしみわたっていく。少しビターなカフェラテが絶妙にマッチして、無限に食べられそうな気がする。 「小石川さんって、とても美味しそうに食べるんだね」 樹はまるでいとおしいものを見るように目を細める。 「そうですか?」 ガッツいていたところを見られていたなんて、恥ずかしい。頬が紅潮していくのを感じて、花名は俯く。 「そうやって照れるところもかわいい」 「かわいいだなんて、そんな。からかわないでください」 「別に、からかっている訳じゃないよ。いつも思ってる」 「……いつも?」  驚いて顔をあげた。すると樹はまっすぐにこちらを見ている。 彼の真っ直ぐな瞳に、花名は息をつくのを忘れそうになった。それと同時に昨日の母親の言葉を思い出す。 ――『もしかしたらその人、花ちゃんのことが好きなのかしら』 「……まさか」  思わず口に出してしまいとっさに口を手で覆う。 「どうしたの? 小石川さん」 樹は不思議そうに花名を見つめる。 「いえ、その。そろそろ開店準備を始めないと、と思って」  花名は樹から視線を逸らすとまるで逃げるように椅子から立ちあがった。そして、畳んでカウンターの内側に置いてある店のエプロンに手を伸ばす。 「本当だね。もうこんな時間だ。僕にもエプロン出してくれる?」 「ああ、はい。予備のものを出しますね」  花名は店の奥にあるスタッフ用のロッカーから薄いビニールの包まれたクリーニング済みのエプロンを取り出すと、樹に手渡した。 「ありがとう。これ付けるの久しぶりだな」  樹は少し色あせたブラウンのギャルソンエプロンを手早く腰に巻いた。縦のラインが強調されて、ただでさえスタイルの良い樹がより素敵に見える。 「なんか気合が入るな。でも、色々と忘れてることもあると思うから、ご指導よろしくね。小石川さん」  そう樹に言われて、花名は恐縮する。 「そんな、マネージャーに教えることなんて私にはありませんよ」 店舗に出ていたのは数年前とはいえ、樹はフラワーアレンジメントやブライダルの装花コンテストでの受賞歴もある。さらには、佐倉園芸が運営するフラワーデザインスクールの講師も務めている。 そんな樹に指導なんて、出来るはずがない。むしろ花名が学ぶ立場だ。 「私の方こそ、ご指導よろしくお願いします」  深々と頭を下げると、樹も同じように頭を下げる。 「こちらこそ」 もっとえらそうにしていてくれたらいいのにと花名は思うが、この腰の低さが樹のよさでもある。 社長の息子という立場を利用したりせず、常に社員と同じ立ち場にいることで多くの信頼を得てきた。だからこそ、彼を慕う社員は多い。花名もその一人であることは間違いなかった。 店を開けるとさっそく高そうなスーツを着た中年の女性客が入ってくる。彼女はこの店の常連客だ。 「いらっしゃいませ。お決まりになりましたらお声がけください」  樹は極上の笑みで声をかける。するとその客は顔を綻ばせた。 「あらあなた、見ない顔ね」 「はい。今日は臨時なんです。いつもご来店いただいているんですか?」 「ええ。月に二度」 「それはどうもありがとうございます」 「今日はこのバラをいただこうかしら」 「こちらですね。どのようにないさいますか?」 「自宅のリビングに飾りたいの。五千円くらいでお願いね」 「かしこまりました。お作りするのに少々お時間いただきますが、店内でお待ちになりますか? お作りしてお待ちすることもできますよ」  樹の接客は完璧だった。日曜日バイトの男の子は、この気遣いができない。「お作りするのでお待ちください」で終わってしまう。 花名はあまり五月蠅くならないよう、注意を繰り返したが、直そうとはしなかった。 「じゃあ、主人の受診が終わったらまた来るわね」  女性客は支払いを済ませると店から出て行った。 となりの深山記念病院は年中無休の病院で、休日でも外来診療を行っている。 そのため、日曜日であっても普段通りに客がくる。午前中は外来受診の患者やその家族が自宅用の花を買いに来て、午後になると見舞客が来店する。土日は見舞客が多いので、稼ぎ時でもあった。 樹は客を見送ると、すぐさまバラの花を数本取り出した。 専用の器具で棘を払い、花を引き立てるグリーンを選ぶ。 その手際の良さとセンスに花名は目を奪われた。束ねた茎を輪ゴムで留め、切りそろえる。 それから水を含ませた不織布で覆うとアルミホイルを巻いた。 「小石川さんはどの色が合うと思う?」  ラッピングペーパーの色のことを聞かれているのだと分かったが、急に話を振られた花名は言葉を詰まらせる。すると樹は勝手に話を続ける。 「そうだよね、聞かれても困るよね。ここは種類が少ないから選ぶのも限りがあるし」 言われて花名は小さく頷いた。樹の言うことは確かで、ここの店はほかの店舗に比べて、ラッピングペーパーやセロハンの種類もリボンの色も限られている。 だからと言って使いたいものを勝手に発注することは許されていないし、そもそも置いておくスペースもないので仕方のないことと諦めていた。 「小石川さんはこの店舗の仕事、楽しい?」  そう聞かれてとっさに返事ができなかった。限られた仕入れの花を、限られた素材を使って仕上げる。 病院の隣という立地からか、毎日が単調で、華やかさはまるでない。 せっかく佐倉園芸の社員として働いているのだから、ブライダルやレストランなどの装花の仕事をしてみたいと考えることもある。 しかし、マネージャーである樹を目の前にして本音を言っていい訳がない。 「……仕事は精一杯やっています」 言葉を濁す花名に樹は困った様に笑った。 「それ、答えになってなくない?」  樹は言いながらラッピングペーパーの棚に手を伸ばしてピンクとブルーの不織布を手に取ると、それらを重ねて綺麗なパープルを作り上げる。 そして透明のセロハンと共に花束に纏わせてリボンを巻いて仕上げた。その出来栄えの美しさに花名は息を飲む。 「さあ、できた。……ねえ、もし小石川さんに配置転換の希望があるのなら遠慮なくいってくれていいから。人事は桂の範疇だけど、僕にだって口を出す権利はあると思うんだ」 樹の申し出に花名の心は揺らいだが、彼の仕事ぶりを見て新たな気付きも得た。 小さな店舗ではあるけれど、仕事は工夫次第でどうにでもなるということだ。 できないと思えばそこまでで、仕事を面白いと思うか、つまらないと思うかも自分次第なのだろう。それを彼は身をもって教えてくれた。頭が下がる思いがした。 「ありがとうございます。でも私はまだ、ここでやり切れていませんし」 「そっか。小石川さんって頑張り屋さんだね。でもあまり無理はしないでよ」 「はい。それとは別件で、今日なんですが……」 花名は樹に早退の話を申し出た。 「四時に上がりたい?」 「はい。もちろん午後の状況によっては日を改めようと思ってます」 「いいよ。お母さんの所に行くんでしょう? もし店が忙しくても帰ってもらって構わないよ」 「いいえ、その時は残ります」  花名は首を横に振った。臨時で来た樹に店を任せて早退することですら気が引けるのに、客が入っている状態で帰るわけにはいかない。 「大丈夫、接客くらいひとりでできるよ」  確かにそうかも知れない。樹の手際のよさなら、花名とバイトの二人よりも早く店が回りそうだ。だからといって、「お願いします」と甘えることも出来ない。 けれど、できるだけ早くに母親の病院へ向かいたい気持ちはあった。困り果てる花名に樹は言った。 「あのさ、小石川さん。仕事の代わりはたくさんいても、娘は君だけだろ? それなら君がどちらを選べばいいかなんて決まり切ってると思うよ」 「……そうですね」 「僕はね、佐倉園芸が社員にやさしい職場でありたいと思ってるんだ」  花名は樹の言葉に目頭が熱くなるのを感じた。そして、自分の上司が樹でよかったと心底思った。 「私、佐倉園芸で働けてよかったです」 「僕もいいスタッフに恵まれてうれしいよ」  その日の午前中、花名は樹の仕事ぶりに目を奪われてばかりだった。 「小石川さん。そろそろ休憩にはいったら?」  十二時半になり、客足が途絶えると樹は花名に声をかけた。 「はい。じゃあ、お先に行かせていただきます」  花名はバックを手に取ると、病院の二階にある食堂へと向かった。 深山記念病院の食堂は管理栄養士が監修したメニューが売りで、誰でも利用できるように解放されている。 花名はいつも自作の弁当を持ってきているが、ここ何日かは自炊する余裕もなく食堂を利用していた。 患者や病院スタッフに紛れて、壁際のカウンター席に座る。味噌汁と日替わりの小鉢がついた親子丼と無料のほうじ茶。ワンコイン以下で食べられるのが魅力的だ。 「今日もおいしそう。いただきます!」 昼休みは一時間取っていいことになっているけれど、樹に店番をさせていることが気になってゆっくりとは休めそうにない。早退することも考えるとなおさらだ。 親子丼をスプーンですくって食べ、みそ汁で流し込んだ。 しかし、それは予想以上に熱かった。吹き出しそうになるのを堪えて飲み込むと口元を手で仰ぐ。 するとちょうど隣に座った誰かがクスリと笑った。 人の不幸を笑うなんてなんて酷い人だろう。 悔しさと恥ずかしさに花名は唇をかみしめる。するとその時、そっと氷水の入ったコップが差し出された。 「これどうぞ」 「……すみません」  花名は両手でコップを掴むと氷水を口に含む。そして、確かめるように隣を見た。するとそこいたのは純正だった。 何度も食堂に足を運んでいるのに、純正にあったのは今日が初めてだ。 否応なしに花名の鼓動は早まった。 純正のいる右側だけが急速に火照っていくのを感じながらどうにかスプーンを動かす。 意識しないようにするほうが無理だ。 純正はハンバーグ定食を黙々と食べ進めている。 食堂にやって来た数名の看護師は純正の姿を見つけるとわざわざ近くを通り過ぎ「お疲れ様です」と声を掛けていく。 「お疲れ様」と純正が答えると、「きゃあ」と黄色い声が上がった。 これでは純正がゆっくりと食事もできないじゃないか。そう花名は思う。だから自分も話しかけたいのを必死でこらえているというのに。といっても、そんな勇気は花名にはない。出来るのはこの偶然に感謝することだけだ。 少しすると純正は掛かってきた電話に出た。食事を半分残したまま、立ち上がるとお膳を片付けて食堂から出て行ってしまった。 「……先生、いっちゃった」  花名は残念そうにつぶやくと、残った味噌汁を飲み干した。 火傷した口腔内がひりひりと痛んだが、純正に優しくされてよかった。なんて単純なんだろうと花名は自嘲気味に笑った。 その日の夕方、花名は希望の時間に早退することができた。 「それじゃあ、お先に失礼します。片づけは明日早く来てするので、そのままにしておいてください」 「わかったから、早くいっておいで」 残りの仕事を引き受けてくれた樹に感謝しつつ、母親の入院する病院へ向かった。 病院へ到着すると花名は面会の受付を済ませてエレベーターで五階病棟まで上がり、ナースステーションのカウンターから近くにいた看護師に話しかけた。 「すみません、大津先生はいらっしゃいますか?」 すると看護師は作業の手を止めると、訝しそうに花名をみつめた。 「……ええと、どのようなご用件でしょうか?」 「あの私、入院している小石川雅恵の娘です」 「ああ、小石川さんの」 「母のことでお話させていただきたいことがありまして」 「今日ですか? 先生からはなにも聞いてませんよ」 「先生が、十七時までならいつでもいいと言ってくれたので……、いけなかったですか?」  花名がそう言うと、看護師は中にいるスタッフに「大津先生みてない?」と声を掛ける。しかし何人かに「知らない」と言われてしまい、首から下げていたPHSでどこかに電話をかけ始めた。 花名はその様子をただ見ているだけしかできない。出来れば母に見つからないうちに大津に会いたかった。 けれど、何の連絡もせずに突然やってきたのだから待たされても仕方がないのだ。もし今日会うのが無理ならまた改めてアポをとることにしよう。 そう伝えようと思った時、看護師は電話を耳に当てたまま花名に近づいてきた。 「大津先生が外科外来まで来てほしいって言ってるんですけど、今すぐ行けます?」 「ええ、はい」 「じゃあ、すぐ行くって言いますね」  看護師は「先生、小石川さんの娘さん今から降りてもらいます」と電話の向こう側にいる大津にそう伝えると終話ボタンを押した。 「五十三番診察室です。場所、分かります?」 「はい、分かります。ありがとうございます」  花名は看護師にお礼を言と、エレベーターで二階フロアーにある外科外来に向かった。  明かりの消えた外科外来はひっそりとしている。 花名は五三番と書かれた診察室の前に立った。 その時、目の前の扉が勢いよく開き大津が顔を覗かせた。 「あ、どうも。さあ、中に」  大津は花名を診察室の中に招き入れる。 「ちらかっててすみません」  申し訳なさそうにいいながら、大津は花名に椅子に座るように促した。 花名はいつもと違う様子の診察室を見渡す。デスクの上は勿論、ベッドの上にも書類が山積みにされている。 「レセプトやら、サマリーやらがたまってしまって、この様です」  花名には大津が何を言っているのか理解できなかったが、とにかく処理しなければならない書類が沢山あるということは分かった。 「そうでしたか。お忙しいところ、申し訳ありません」  恐縮したように花名が言うと、大津はとんでもないとでもいう様に、首を横に振って見せた。 「いえ、いいんですよ。毎月のことですから。それで、話ってセカンドオピニオンのことですかね」 「はい。……私、先生のことは信頼しています。でも、もし他のお医者さんの治療で母の病気が良くなるかもしれないのなら、それにかけてみたいんです。ごめんなさい」  花名は静かに頭を下げた。 「謝らなくていいんですよ。セカンドオピニオンは患者側の権利です。それに小石川さんの病気がなおるのなら、それに越したことはないと思っています」  大津は花名を安心させるように笑うと、「すぐに書類を作りますね」といってパソコンの電子カルテを開く。 専用のフォーマットを立ちあげて文章を打ち込むと、どこかへ電話をかけた。 「これから事務員さんに書類をまとめてもらいますので時間がかかります。すこしそこの待合室の椅子で待っていてください」 「はい。分かりました。ありがとうございます。それと先生、このことは母に内緒にしておいてください」 「そのことなんですが、お母様に同意を得ないといけません」 「そうなんですか?」 「今の時代、個人情報の扱いに厳しくて陰でこそこそと動くわけにはいかないんですよ。おそらく、同意書を持ってくるように言われると思いますのでそれに従ってください。深山記念で、よい話が聞けるといいですね」 「はい、ありがとうございました。失礼いたします」  花名は更に深々と頭を下げ、診察室の扉を閉めた。 廊下に出て、待合室のソファーに腰を下ろす。しばらくすると、封筒を持った女性の事務員がやってきた。 「小石川さん、ですね」 「はい」 「お待たせしました。こちらをお持ちください」 差し出された封筒を花名は両手で受け取った。 「中に、診療情報提供書と画像のデータが入っています。まずは、ご自身で深山記念のセカンドピニオン外来の予約をしてください」 「あの、すみません。予約ってどのようにすればいいんでしょうか?」 「ああ、そうですよね。説明します」  花名は事務員からセカンドオピニオン外来の予約の方法の方法を聞くと、礼を言って立ち上がった。 それから母親の病室に顔を出し、いつも通りに振舞った。 母親のベッドの傍で他愛もない会話を楽しみながら洗濯物が乾くのを待つ。花名は母の笑顔をみつめながら祈った。 大津先生がくれた希望の種が、このまま花を咲かせてくれますように。
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