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「君、何してるの?」
「……金魚を見てるの」
深夜、学校に忍び込む輩がいるという噂を聞いた俺は好奇心に導かれるままにこのプール場に辿り着いた。夜空に咲いた黄金色の穴が優しい光で照らしている。
目の前でしゃがみながらプールを見つめている彼女の傍にはその穴よりも遥かに眩しい懐中電灯が置かれていた。彼女の表情は薄暗闇のカーテンに隠されて朧気になっていて、目を凝らしても闇夜が固く守っていた。
俺はプールサイドに立ってその水面を見つめてみる。すると微かに何かが揺らめいた。彼女の言葉を信用するなら、金魚なのだろう。
「……暗くて見えないな」
「そっちは光が当たってないでしょ。ここからなら良く見えるわよ」
反対側から覗くと色彩を帯びた鱗が確かに見えた。懐中電灯を借りてプールの側面を静かに歩くと沢山の金魚が優雅に尾鰭を揺らしている。回収が大変だろうなと他人事に思う。まあ、本当に他人事なのだが。
「何でここに金魚を?」
「私、水槽を持って無かったの。それに、夏祭りの見世物の金魚達は窮屈そうだったから、可哀想って思ったのよ」
「俺は勝手に魚を入れられたプールさんの方が可哀想だって思うけどな」
独特な感性で紡がれる透明感ある声は、蒸し暑いこの夏の清涼剤を果たしてくれそうな程だ。声帯に風鈴を埋め込んでいるのかもしれない。少し大きい水槽を眺め続けると、独特な動き方をするその魚達に俺の目も泳ぎ始めた。
「今更だけど夜に学校に入るのは犯罪らしいよ」
「……私は大丈夫よ」
「なんだ、許可取ってたのか?」
懐中電灯がプールに落ち、光が反射する。
「そのルールはニンゲン用の物だからね」
照らされたその頭部に、二本の触覚が生えていた。先端は丸くキャンディの様で、顕になったその瞳には金平糖の様な細やかな煌めきが入っていた。妖艶に微笑む彼女の手が俺の頬に触れる。
「貴方は水槽で飼えるかなあ」
「ごめん……気まずいんだけど……」
「……ん?」
「俺もそっち側です……」
帽子を脱いで、額を見せる。
彼女とは別色の赤みを帯びた触覚が世界に晒される。
「……嘘でしょ?」
「隠してて申し訳ない」
心底嫌そうな顔をする彼女に平身低頭で謝罪し、お詫びの印に懐中電灯をゴムの様に伸縮自在な手で取ってあげた。金魚はプールの向こう側まで逃げてしまった。ちょっと傷ついた。
「ここに来てどれくらい経つの?」
「大体百五十年くらいかなあ」
「……ニンゲンの基準で答える辺り、この惑星にかなり毒されてるわね。しっかりしなさいよ」
最近は同族に出会う事も無かったのでずっとニンゲン寄りの考え方をしていた。このままだとニンゲンの文化に逆に侵食されそうだ。どっちが侵略者が分からなくなってしまう。
「君、俺が同族じゃなかったら攫うつもりだったでしょ?」
「別にそんなつもりは無いわよ。密かに飼おうとは思ってたけど」
「それを誘拐って言うんだよ」
それから最近の情報と互いの連絡先を交換して、今日はお開きという形になった。正直、ずっと孤独感を抱えていたのでこの出会いは助かった。予定が合う日に時々でも会えば、彼女は俺が染まりそうになっているニンゲンの文化を客観的に見て矯正してくれる筈だ。
「この惑星はどう? 楽しい?」
「さあね。でも、食べ物は美味しいし、金魚は可愛いし、空気も美味しいし、嫌いでは無いわ」
「……君も結構侵食されてないか?」
「うるさいわね」
……もしかすると、お互いもう手遅れかもしれない。この球形の水槽を気に入ってしまって、不自由なく優雅に泳げてしまっている。この星の快適さが悪い。侵略する気概を削ぎ落とすなんて卑劣な惑星だ。そう誰に言うかも曖昧な言い訳をする。
「それじゃ片付けよろしく」
「はあ!? 俺がやるのかよ!」
「また後で取りに行くから、一匹も取り逃さないでね」
彼女はそう言って去っていった。
黄金色の穴は未だ俺の事を無言で見下ろしている。どこまでも気高くそして美しい。手中に収めたいと思うが征服するならまずはこの球形の水槽からだろう。あの月をぷかぷかと浮かべる為の水槽としては中々良い惑星だ、と冗談を想像する。
欲しい物は必ず手に入れる。
どれだけ時間がかかっても、逃がさない。
「……明日はクレープ屋巡りでもするかなあ」
魔が差すまで泳ぎ続ける、牙を持った回遊魚。
今はまだ、本気もやる気も全く出ないけど。
星々の薄明も月光も白雲に隠されて見えなくなり、彼女が持ち帰らなかった懐中電灯だけが水槽と自由に泳ぐ金魚を照らしていた。
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