バーの夜

1/3
前へ
/20ページ
次へ

バーの夜

 カランコロンと、ドアベルが鳴った。 「いらっしゃいませ」  手元を見ていたヨシタカが顔を上げて見ると、鳴里教授だった。  黒いロングワンピース、黒ブーツ、黒い幅広とんがり帽子で全身が黒づくめ、まるで魔女だ。今日はハロウィンではない。  鳴里教授は、店内を一通り眺めると、「ほおー、オーセンティックバーだな」とつぶやいた。 「約束を守ってくださったんですね」 「まあね。新宿二丁目と言えばゲイバーとおかまバー。いつもおかまバーに行くんだけど、普通のバーも行ってみようかなって思いついたんで。気まぐれもありだろう」  カウンター席に座ると、「テキーラ、ショットで。気持ち多めに」とオーダーした。 「お酒、お強いんですね」 「だって、おごりだろ? 遠慮なく頂こうと思ってさ」 「確かにサービスしますとは言いましたが、こちらは苦学生なんで、1杯だけで勘弁してください」  バー・七ツ矢は安くない。 「はは! 冗談だよ! 学生に奢らせるわけにはいかないよ! ちゃんと自分で払うから安心しろ」  鳴里教授は、冗談を真に受けているヨシタカを見て楽しそうだ。  ヨシタカは、いつも通りに注いだショットグラスをカウンターに置いた。  二人の掛け合いを聞いていたマスターが近づいて「ようこそ当店に。初見のお客様ですね。彼とはお知合いですか?」と訊いてきたので紹介した。 「この方は、私が通っている大学で宗教学の教鞭を取っている鳴里教授です」 「よろしく。いい店だね」 「そうでしたか。ありがとうございます。ごゆっくりお寛ぎください」 「そうさせていただく」  マスターが他の客のところに戻ると、鳴里教授はヨシタカに小声で言った。 「イケおじマスターだね」 「そうですね」  誰が見てもマスターはイケおじだ。男女問わずマスター目当ての客は多い。ヨシタカのような若造は夜の新宿ではトンと相手にされない。  ヨシタカは、「マスター、お酒が切れそうなので取りに行ってきます」と、一言断ると、裏に回って自分のスマホを手にしてメッセージを打つ。  用事が終わると、適当なお酒を手にして何食わぬ顔で表に戻る。  話し相手がいなくて手持ち無沙汰だった鳴里教授が文句を言った。 「待っていたよ。急に消えるから。私の担当は君だろ?」  たったの数分いなくなっただけで大騒ぎだ。 「一人で飲む寂しい女に見られてしまうよ」 「すみません」  彼女ほど、一人が似合う女はいないだろう。 「先ほどおかまバーに行くとおっしゃっていましたね。お好きなんですか?」 「元教え子が働いていてね。それで売り上げに貢献しようと、たまに顔を出している。今度連れて行ってやるよ」 「うーん、特に興味がないですね」 「行けば楽しいよ。こことは趣が違う。いや、ここが気に入らない訳じゃない。こういう静かなバーもありだと思う」  お酒は大勢で飲んで騒ぐタイプだった。 「フォローしなくても大丈夫です。土地柄は重々承知しています」 「新宿二丁目は、他では味わえない唯一無二の街で癖になるよな。ついつい足が向いてしまう」  こうして話していると、実に普通の人だ。  鳴里教授は、飲み干したグラスをドンと置いた。 「お代わり!」 「飲むペースが早くないですか?」 「大丈夫だ!」  目が据わっている。  沈着冷静で学者然とした物腰の鳴里教授とは思えない。酔うと人が変わる。  新しいショットグラスをカウンターに置くと、それを鳴里教授は一気に飲んだ。 「お代わり!」 「ビールじゃないんですから。煽るように飲まない方がいいですよ」 「大丈夫!」  このペースでは、自覚がないまま酔いつぶれそう。  ヨシタカは、チラチラと腕時計に目をやった。 (そろそろ来て欲しいな)  鳴里教授が酔い潰れる前に来てくれないと意味がない。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

26人が本棚に入れています
本棚に追加