嫁入り

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15.  夜が明ける。  鳥が囀り出す。  畳の上に置かれたままの、水の入った木桶。  その周りに並べられた小皿、薬草、秤、乳鉢。  日の出前の薄明るい室内に、墨絵のように浮かび上がる。  壁に寄り掛かって少し休むだけのつもりだったが、思いの外、しっかり眠ってしまったようだった。  そうだ、ナキトさんは…  静かにいざり寄れば、布団の中に横たわる男の穏やかな寝顔が見えた。そこに昨夜の高熱の頃の苦しさは見受けられない。 呼吸はゆったりとして規則正しく、深い眠りの中にいることが伺えた。  良かった…薬が効いたのね。  昨夜。  発熱の原因が右腕の傷にあるとわかり、すぐに傷の状態を確認した。  二日前に負ったばかりだが、汚れを十分に洗い流さず消毒もせず、どんな効能があるかもわからない謎の代物を塗っただけで放置した傷口は、予想通り酷い有り様だった。 ここ数日の蒸し暑さも災いして化膿していた上、訓練だか何だかで忙しかったという理由で、包帯を替えもせず巻きっぱなしで居たという。  それで良いと、傷が治ると思っていたことが、信じられなかったが。 高熱で朦朧としながらも良かれと話すナキトに、まさか説教するわけにもいかず手当に徹した。  すっかり綺麗に洗い流した傷口は縫う必要はなかったが、周囲まで炎症が広がっていた。不衛生な状態で放置したのが原因である。 高熱にしてもそうだが、要は傷口から体内に侵入した菌を殺すべく、ナキト自身の身体が必死で闘った結果だった。 それはいいのだが、ナキトはまだ若く、身体が動きさえすればまたすぐ職務に戻ると思われた。 そういう人間は、自己治癒力だけで綺麗に治るのを待つのは危険だ。 きちんと治るのを待たず、平気で無理をする。 小さな傷や変化に疎く、身体が動くうちは大丈夫だと思い込む…  結局、保護するための薬油剤を塗り、その上から殺菌効果のある薬草を挟んだ薄布を当て、新しい包帯で巻き直した。  ナキト本人は、粉にした薬草を二種類飲ませたあとは眠るに任せた。 熱を下げ、痛みを和らげるそれはかなり苦いのだが、ナキトは文句を言わずに飲んだ。 幸い体力のある若者なので、症状が辛くて上手く眠れないということもないようだった。  そのまま、一晩様子を見ていた。 やがて汗をかき始めたので、濡らした布で肌を清めた他は極力触れることもなく。様子観察に徹した。  およそ半日経って、どうやら解熱し痛み止めも効いている。  問題はこのあと…  治るまできちんと診せてほしいという要望が、受け入れてもらえるのか、ね…  昨夜の夫の態度を思い出せば、吐くため息は一つでは足りない。  部下が心配なのはわかるが、夫の行為は薬師の邪魔をするだけでしかなかった。  自分も患者を前にして冷静ではなかったから、結構な態度を取ったとは思うが。  いいわ、間違ってはいなかったもの…  あれくらいしなければ、自分は部屋から追い出されていたかもしれない。 そう思うのに、心臓が変な鼓動を打つ。  追い出される…  離縁される…  斬り捨てられる…?  不吉な予想に、ぶるぶると頭を振った。  今は保身よりも、目の前の患者に集中しなければ…  念の為と思って、眠る男の首筋にそっと手を伸ばす。  触れた皮膚は暖かいが、熱感はない。脈拍も正常。 「良かった…」  ほっとして、手を引こうとした時。 一瞬で伸びてきた大きな手に、捕まった。 「!」 「………」  見れば、ナキトが目を開けていて。 こちらをじっと見つめていた。  今起きた、というふうではなく。完全に覚醒している様子だった。 「…起きていたのですか?」 「……いえ」  失礼しました、と言って手を離す。 「すみません、武人の習性と言うのか…。身体に触れられると反射的に…」 「………」  なるほど、そういうものなのか… 「…頭がとてもすっきりしています」  そう言いながら、ナキトが起き上がろうとする。 「あ、まだ寝ていたほうが…」 「いえ…、もう…」 「でも…」  本人は平気なつもりでも、高熱のあとの身体は疲弊している。  案の定、肘を付いて上体を起こそうとしているものの、上手く力が入らないようだ。  支えて起こしてもいいのだが、それよりも横になっている方が余程良い。 「せめて、今日一日は休みませんか」 「いえ、そういうわけにはいきません」  そう言うと思った…  これは、上司である夫の影響なのか。 部下もまたなかなかに頑固そうだ。  結局、起き上がるまで至らず、中途半端に肘を付いた姿勢で止まったまま。  もっと強く言ってみようかしら… 「せっかく熱が下がったのに、無理をしたらまた後戻りですよ」 「それは…、困りますが…」 「ではまだ横になっていて下さい。だいぶ汗をかきましたから水分を補給して。着替えと、それから食事も…」 「まさか、そんな。ここでそのような世話になるわけにはいきません」 「…ここで、そのような、とは?」 「…ここは、隊長の住まう屋敷で…貴女は隊長の奥方殿ですから」 「………」  この、おかしな言い分は何なの…?  場所や相手が、病人の世話をすることにどう関係あるのか。 全く理解できない。    都というのは、本当におかしな所だわ… 「貴方が何と言おうと、私は貴方を治すと約束しました。だから、ここできちんと診させて下さい」 「………」  返事をせず、ふいに障子戸の方など見ている男を見て、眉間に皺が寄るのがわかった。  あぁ、もう… 「貴方は昨夜、聞いていたのでは?あの、鬼のような夫に啖呵を切ったのですから、どうあっても貴方を回復させなければ、私はきっと斬り捨てられてしまいます」 「あ……」  わかっているのかいないのか。 ナキトは目を丸くして沈黙した後、笑い出した。 「…何が可笑しいのですか」 「こ、これは失礼…くくく…」 「………?」  意味がわからず困っていると。  ぎしり。  唐突に廊下の軋む音がした。 「!?」  すすす、と妙にゆっくり開く、障子戸。  立っていたのは、たった今、鬼に例えた夫だった。 「キ、キリ、ヒト、様…」  いつから…!? 「………」  動揺のあまり名前を呼び、その目線を受ければ、もう頭を垂れる以外にない。  重く伸し掛かるような、強い力に押されるように畳に手を揃え、低頭した。  昨夜、あまりのされように反論した時は、一瞬だろうが斬られても良いと思ったのに。  朝の空気の中の冷えた頭は、非礼を詫びるべきだと判断した。 「…ナキト」 「はい」  夫の静かな声とナキトのしっかりとした返事が、頭の上を行き交う。 「三日間の休みを命じる」 「…え!?」  隊長!と続いた声を遮って「絶対にでてくるな」という硬い声が降ってきた。 「そんな…」 「すぐに後戻りするような身体で来られるのは迷惑だ」 「……!」  聴いていたのね…  ではこれは、薬師としての自分の意見を汲んだと言うことなのか。 自分のやり方を、認めたということか。 そんなことを考えていると。 「サヤ」  「!は、はい」  声の矛先が僅かに変わり、夫が自分の方を向いたのだとわかった。 「良くやった」 「………」  …褒めた?    そこにいるのが本当に夫なのか、確かめるために顔を上げる。 障子戸の向こうに立っているのはやはり夫だ。 朝焼けを背にして、真っ直ぐに自分を見ている。 「引き続き、ナキトを診ろ」 「は、はい」 「三日の後に、快癒させて返せ」 「…は…?」  返せと言われても、私のものではないけれど…  それに快癒させるのは難しい。熱はともかく、腕の傷は三日で確実に塞がるとは言えない。 「あの、それは…」 「良いな?」 「は、はぁ…」 「ではヒエナを寄越す。ナキト、飯を食って寝ろ」 「…わかりました」 「………」  ナキトは、夫の言うことならば素直に肯んじるようだ。  ちらりと忍び見れば悔しそうではあるのだが、反論はしないらしい。 「きちんと治してから戻れ。わかったな」 「はい」  それだけ言い置くと、夫は障子戸を閉めて歩き去った。  残された部屋で、どちらからともなく視線を交わす。 「………」 「………」 「あの、では横になって頂いて…」 「……はい」 「食欲はありますか?」 「あります」  即答だ。  若く、健康な証拠だった。 「倒れる前は、食事は摂れていましたか?」 「いえ、昨日はあまり」 「では、朝だけはお粥にしましょうか」  その方が身体への負担が少ないと言うと、ナキトは黙って首肯した。  その目に光が宿っている。  この人も、とても強いのだろう…  朝焼けの室内で、そう思った。  昼過ぎに、ヒエナに呼ばれた。 当主が戻り、本邸に訪う許可を得たという。 「では行ってまいります」 「奥さま」 「はい?」 「これをお持ち下さい」 「………」  手渡されたのは、布に包まれた箱型の何か。 「これは…?」 「ハリヒト様の好物なのです」  では食べ物だ。  大きさの割には重みのあるそれを、ヒエナが優しい目で見つめている。 「坊ちゃまもお好きなのですよ」 「…そうですか」  中味は何なのか。少しだけ気になったが、「行ってらっしゃいませ」と送り出されて、渡廊下へ向かった。  当主の好物…  あの鷹の眼の持ち主が好む食べ物。  足を止めて、包を極軽く揺すってみた。 しかし中味が動く様子はない。  重さだけでは見当がつかないわ…  まさか開けてみるわけにもいかず、早々に中当ては諦めた。  本邸に入ると、足裏の感触が僅かに変わる。 建立からの年月が違うのだろう。別棟の方が新しく、こちらの方が軋む感触も大きかった。 ぎしぎしと音をたてる床を進みながら、思う。  キリヒト様はどうやって足音を消しているのかしら…  夫ばかりではなく、義兄も、恐らくは今まだ強制的に休まされているナキトも、気配や足音を消すことに長けている。  浅羽が特別なのか、それとも武人というものは皆そうなのか。 「………」  試しに音をたてぬよう歩いてみようとするが、いくらやっても音は出た。 どんなにそっとつま先をついても、ぎしり…と鳴る床。 黒光りするほどに磨き込まれていて、塵のひとつも落ちていない。  ここは使用人も多いのかしら… 「何をしている?」 「!」  背後から急に声を掛けられて、ぎくりとした。 振り返ればそこにいたのは。 「ルリヒト様…」  今日もまた、綺羅びやかな衣を纏った義弟であった。
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