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「……本当に、事実なのかね?」
ーー藤次の逮捕から間も無くの京都地方検察庁検事正室に、佐保子と葵はいた。
部屋の主人……京都の全ての検察官のトップである安河内の発した言葉に、佐保子は静かに頷く。
「はい。全て事実です。私は、棗検事に夫人がいらっしゃるのを知りながら、肉体的関係を持ち、職務中にラブホテルで怠慢を起こしたのも、事実です。」
「………」
余りにも冷静に…まるで開き直っているような佐保子の態度に、安河内はデスクに置かれた、明日発売の週刊誌…藤次と佐保子がラブホテルから出てくる瞬間を捉えた写真が大きく載っていて、『妻殺害の検察官の真昼の情事!相手は部下のKさんか?!!』と見出しのついた記事を見つめながら頭を抱える。
「こんな記事が出回ったら、ますます地検の沽券に関わる。マスコミだって、今まで以上に来るだろう。…処分は免れんぞ?」
「…分かってます。」
「…なら、暫く自宅での謹慎。手続きが済み次第、京極佐保子検察事務官、君を懲戒免職とさせてもらう。」
「……はい。」
「それであの、検事正、棗検事の裁判については…」
葵の言葉に、安河内は別の書類を捲る。
「昨日東京地検特捜部から連絡があり、数名の検察関係者を派遣してくるそうだ。代表の名前は相原藤司検察官。今後は彼に指揮権を渡して、我々京都地検はこの件には一切関わらない方針だ。」
「ですが検事正。棗検事は、この京都地検…中でも楢山賢太郎検事に裁かれる事を望んでおります。どうか」
「馬鹿を言うな。それでは特捜部の面子を潰すことになる。色々良くやってくれている君の申し出でも、これは曲げられん。」
「ですが!」
「口説い。この話は以上だ。退出したまえ。」
「………」
とりつく島もない安河内の態度に、葵は意を決したように、スーツの隙間から一枚の封書を取り出す。
「…では、私の検事生命を賭けて、お願い致します。」
「?」
首を傾げながら差し出された封書を見ると、黒い墨で力強く書かれた『辞表』の2文字に、安河内は瞬く。
「わ、度会君!正気か?!」
「正気です。あの子は、棗藤次と言う男は、誰よりもこの仕事に誇りを持ち、また、この京都地検を誰よりも愛している男です。警察でも、今回の自分の不始末で、地検の関係者に迷惑をかけていることに深い罪悪感を抱いており、心を痛め、また、不貞の相手である京極事務官への取材は最小限にしてやって欲しい。全ては自分の過ちだと言っております。」
「だからと言って…それに、仮に私が楢山検事に担当を任せたら、東京からくる検察関係者になんと言えば…」
「末席に加えて下さるだけで良いんです。棗検事は、誰よりも楢山検事に裁かれる事を望んでいます。彼なら、自分の思いや訴えを誰よりも分かってくれる。必ず、正しい裁きを下してくれる。だから頼みますと、何度も私に手紙を書いてきました。ですから、上司として、亡き南部刑事部長の忘形見である彼の親代わりとして、私は彼の意思を尊重したい。ですからどうか、お願いします!!」
「刑事部長…」
「…………」
頭を下げて懇願する葵に、どう言って宥めようと安河内が思案していた時だった。
扉をノックする音がして、1人の人間が入ってきたのは…
「な、楢山君?!!」
「楢山検事!!」
瞬く葵と佐保子の視線の先には、神妙な面持ちをした賢太郎がいた。
「ああ、楢山検事か。ちょうど良かった。今君の話を…」
言って、安河内が賢太郎に向き直った時だった。
「検事正。無理を承知で直訴に参りました。私に、棗藤次検察官の裁判を、任せていただけませんか?」
「なっ!」
言葉に詰まる安河内の前に、賢太郎は葵と同じ『辞表』と書かれた封書を置き、深々と頭を下げる。
「何故、こんな真似を。君は、いつも冷静沈着で、どんな案件も適切に処理してきただろう!いずれお父上と同じ特捜部に推薦だって考えていたのに何故…」
「そう評価して頂き恐縮の限りです。ですがこの案件だけは、どうしても自分が担当したいんです。何故棗検事が、今回のような事件を起こしたのか、真実が知りたいんです!ですから、お願いします!!!」
「検事正、私からもお願いします!どうか棗検事を…いえ、棗藤次を、京都地検で裁いてください!」
「わ、私も、言えた義理ではありませんが、どうか、よろしくお願いします!!」
「…………」
そう言って、いつまで経っても頭を上げない3人に、安河内はとうとう根を上げる。
「分かった。楢山検事を、東京からくる検察関係者の中に加えるよう、責任者の相原検事に打診する。その上で、楢山検事は自分の意見を述べるが良い。ただし、最終的な判断を下すのは相原検事だ。それは曲げられん。良いな。」
「はい!ありがとうございます!」
「ありがとうございます!検事正!」
破顔する葵と賢太郎を一瞥して、安河内はポツンとつぶやいた。
「全く…随分な愛されようだな。棗君…」
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