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「ほんなら、行ってくるわ。」
「うん。行ってらっしゃい!藤次さん!!」
「ぶーー!あーー!!!」
−−−件の嵐山デートから一週間。
いつもと変わらない、藤太を胸に抱いて自分を見送る絢音に軽くキスをすると、不意に息子がペチペチと小さな手で自分の頬を叩いてくるので、藤次の目尻は下がる。
「なんや〜?一丁前にヤキモチかぁ〜。残念やなぁ〜。お母ちゃんは、お前のもんやあらへん。お父ちゃんのもんやで〜。」
「うーー!!あーーー!!!」
「うんうん。分かった分かった!そやし、先ずは離乳食立派に食べられるようになってからや!あんまりワガママ言うて、お母ちゃん困らせるんやないでぇ〜!」
「あーー!!ぱーーー!!」
それでも藤太が自分の方に手を伸ばすので、藤次はやれやれとため息をつき、カバンを置いて彼を腕に抱く。
「どないしたんや?いつもは笑ってお母ちゃんとお見送りしてくれるやろ?なあ、藤太〜」
「うーーー。ぱーーー。」
もぐもぐと口を動かし、何かを伝えたいような素振りをする息子に、少し違和感を覚え藤次は、絢音に問いかける。
「なあ、藤太今朝、なんか変わった事あったか?」
「えっ!?寝起きもご機嫌だったし、オムツにも変わった汚れは無かったし、ミルクなんていつもより多く飲んでくれたわよ?」
「さよか……」
「んーーー!ぱーーー!!」
ネクタイピンを握りしめて遊び始める、いつもと変わらない可愛い息子。
しかし、検事として長年研ぎ澄ませてきた直感が、何故か頭の中で警鐘を鳴らし始める。
「……なあ、ワシの杞憂で済めばそれでええんやけど、今日、中山先生に藤太診てもらうこと、できるか?」
「えっ?!あ、えっと……確か今日は中山先生、午後からだわ。でも、なんで?」
「ん?んー……。すまん、上手く言えん。強いて言えば、勘かな。」
「……そう。なら、従うわ。藤次さんの勘て当たるし。」
「悪いな。仕事増やした挙句、大して面倒見てへんのに、こう言う時だけ父親面して…」
「なによ水臭い。私達の子でしょ?ねえ藤太!お父さん心配性でちゅねーー!!」
「きゃーーー!!」
腕の中で、絢音に頭を撫でられ無邪気に笑いはしゃぐ息子。
最近重罪人の裁判を立て続けに担当したから、少し過敏になっているのかと思いながらも、藤太を絢音に預けて、藤次は鞄を持つ。
「ほんなら、行くわ。終わったら念の為メールくれ。なら藤太、バイバイや。」
「うん!行ってらっしゃい!!」
「ぱーーーー!!!」
…そうして玄関の戸を閉めた時だった。
「相変わらず、賑やかですね。」
「ああ。柳井さん。おはよう御座います。すんません、毎朝騒がしゅうさしてもうて…」
「いえいえ。お互い可愛い盛りですからね。僕も毎朝、仕事行くの億劫ですよ。」
「ははっ。」
そうして、マンションの隣人で親しくしている柳井雄二の言葉に、藤次は笑う。
「柳井さんちは、まだ若いからしっかり躾できとるでしょ?ウチなんか、遅うに産まれた子やから、ついつい甘やかしてしもうて、わがまんまなになりましたわ。」
「そんなの、ウチだって同じですよ。あんな可愛い子に、ダメダメ言って嫌われたくないですからね。ほら、特に僕ら父親は、働いて昼間いませんから。余計に…」
「分かります。ついついエエ顔してまいますよね。お陰で内方に怒られてばっかですわ。そんなに甘やかさないで!って。」
「へえ、あんな優しそうな奥さんなのに……あ!奥さんと言えば、こないだはウチのやつに美味いレシピ教えてもらって、ありがとうございますって伝えておいてもらえませんか?」
「美味いレシピ?なんやろ…」
「嫌だなぁ…迷うくらいあるんですか?美味いレシピ。唐揚げですよ。鶏の唐揚げ。」
「ああ!!あれか!美味いでしょ?!通わせてる料理教室の看板レシピみたいで、あれで僕、胃袋掴まれましてん。」
「あはは!分かります。僕も結婚前にあれ出されたら、掴まれてます。どこの料理教室なんです?」
「左京区辺りの舟藤料理教室ですわ。季節もんに敏感やし、月謝も安い。オススメですよ。」
「へぇ、今度嫁さんに言ってみよ。まあ、僕は今の嫁さんの料理でも、満足なんですがね。」
「ははっ!こら、とんだ惚気もろたわ。ご馳走さん。ほな。」
「はい。」
そうしてマンションを出て柳井と別れると、2階の角部屋から絢音の声が聞こえたので見上げると、2人が笑顔で自分に向かって手を振っていたので、藤次は笑いながらその手を振り返す。
「幸せやな…」
込み上げてくる多幸感で緩む口元を押さえながら、先程感じた不安はやはり気のせいだと言い聞かせて、藤次は最寄駅へと足を進めた。
これが、この家で家族3人で交わした、最後の挨拶になるなど、夢にも思わずに……
*
「……はあ。やっと一息つけるわね。お昼は……私は藤次さんのお弁当の残り。藤太はーー……」
藤次を見送り、朝家事を一通り終えて、絢音はふと、やけに静かすぎる室内に違和感を感じる。
「藤太……?」
家事に注力し過ぎて、泣き声を聞き逃し、泣き疲れて寝てるのかと思いながら、ミルクの入った哺乳瓶を片手に寝室へ向かい、ベビーベッドを覗くと……
「えっ……」
*
「では検事。私、ランチに行ってきますね!」
「おう!帰って来るまでに調書読んどくから、午後も頼むえ。」
「はーい!」
そうして笑顔で去って行く佐保子の背中を見送り、調書片手に絢音の手料理に舌鼓を打とうとした時だった。
スーツの内ポケットに入れたスマホが、微振動を始めたのは……
「なんや?電話?絢音が?」
いつも仕事中は連絡などしてこない妻の突然の着信に、藤次の中にあった負の直感が、首をもたげる。
まさか、まさか……
震える手でボタンをタップし、耳に当て、極力平静を装って明るい声でどないしたと言ってみたが、絢音から返事がない。
杞憂だ。杞憂であってくれ。
そう神に縋ってみたが、無情にも、その袂は翻される。
「……藤次、さん。藤太、息、してない……」
「えっ…………」
カシャンと、手から滑り落ちたスマホから聴こえる絢音の悲鳴を聞きながら、藤次は震える手でデスクの固定電話の受話器を取り、119を押す。
「……すんまへん。今から言う住所に、救急車一台、お願いします。患者は、棗藤太。僕の、息子です。」
色づき始めた銀杏の一葉が、フワリと風に流されて、まるでこれからの彼の人生を暗示するかのように、ひらりはらりと、地へと堕ちていった。
第9話 了
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