第9話

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「ほんなら、行ってくるわ。」 「うん。行ってらっしゃい!藤次さん!!」 「ぶーー!あーー!!!」  −−−件の嵐山デートから一週間。  いつもと変わらない、藤太を胸に抱いて自分を見送る絢音に軽くキスをすると、不意に息子がペチペチと小さな手で自分の頬を叩いてくるので、藤次の目尻は下がる。 「なんや〜?一丁前にヤキモチかぁ〜。残念やなぁ〜。お母ちゃんは、お前のもんやあらへん。お父ちゃんのもんやで〜。」 「うーー!!あーーー!!!」 「うんうん。分かった分かった!そやし、先ずは離乳食立派に食べられるようになってからや!あんまりワガママ言うて、お母ちゃん困らせるんやないでぇ〜!」 「あーー!!ぱーーー!!」  それでも藤太が自分の方に手を伸ばすので、藤次はやれやれとため息をつき、カバンを置いて彼を腕に抱く。 「どないしたんや?いつもは笑ってお母ちゃんとお見送りしてくれるやろ?なあ、藤太〜」 「うーーー。ぱーーー。」  もぐもぐと口を動かし、何かを伝えたいような素振りをする息子に、少し違和感を覚え藤次は、絢音に問いかける。 「なあ、藤太今朝、なんか変わった事あったか?」 「えっ!?寝起きもご機嫌だったし、オムツにも変わった汚れは無かったし、ミルクなんていつもより多く飲んでくれたわよ?」 「さよか……」 「んーーー!ぱーーー!!」  ネクタイピンを握りしめて遊び始める、いつもと変わらない可愛い息子。  しかし、検事として長年研ぎ澄ませてきた直感が、何故か頭の中で警鐘を鳴らし始める。 「……なあ、ワシの杞憂で済めばそれでええんやけど、今日、中山先生に藤太診てもらうこと、できるか?」 「えっ?!あ、えっと……確か今日は中山先生、午後からだわ。でも、なんで?」 「ん?んー……。すまん、上手く言えん。強いて言えば、勘かな。」 「……そう。なら、従うわ。藤次さんの勘て当たるし。」 「悪いな。仕事増やした挙句、大して面倒見てへんのに、こう言う時だけ父親面して…」 「なによ水臭い。私達の子でしょ?ねえ藤太!お父さん心配性でちゅねーー!!」 「きゃーーー!!」  腕の中で、絢音に頭を撫でられ無邪気に笑いはしゃぐ息子。  最近重罪人の裁判を立て続けに担当したから、少し過敏になっているのかと思いながらも、藤太を絢音に預けて、藤次は鞄を持つ。 「ほんなら、行くわ。終わったら念の為メールくれ。なら藤太、バイバイや。」 「うん!行ってらっしゃい!!」 「ぱーーーー!!!」  …そうして玄関の戸を閉めた時だった。 「相変わらず、賑やかですね。」 「ああ。柳井さん。おはよう御座います。すんません、毎朝騒がしゅうさしてもうて…」 「いえいえ。お互い可愛い盛りですからね。僕も毎朝、仕事行くの億劫ですよ。」 「ははっ。」  そうして、マンションの隣人で親しくしている柳井雄二の言葉に、藤次は笑う。 「柳井さんちは、まだ若いからしっかり躾できとるでしょ?ウチなんか、遅うに産まれた子やから、ついつい甘やかしてしもうて、わがまんまなになりましたわ。」 「そんなの、ウチだって同じですよ。あんな可愛い子に、ダメダメ言って嫌われたくないですからね。ほら、特に僕ら父親は、働いて昼間いませんから。余計に…」 「分かります。ついついエエ顔してまいますよね。お陰で内方に怒られてばっかですわ。そんなに甘やかさないで!って。」 「へえ、あんな優しそうな奥さんなのに……あ!奥さんと言えば、こないだはウチのやつに美味いレシピ教えてもらって、ありがとうございますって伝えておいてもらえませんか?」 「美味いレシピ?なんやろ…」 「嫌だなぁ…迷うくらいあるんですか?美味いレシピ。唐揚げですよ。鶏の唐揚げ。」 「ああ!!あれか!美味いでしょ?!通わせてる料理教室の看板レシピみたいで、あれで僕、胃袋掴まれましてん。」 「あはは!分かります。僕も結婚前にあれ出されたら、掴まれてます。どこの料理教室なんです?」 「左京区辺りの舟藤料理教室ですわ。季節もんに敏感やし、月謝も安い。オススメですよ。」 「へぇ、今度嫁さんに言ってみよ。まあ、僕は今の嫁さんの料理でも、満足なんですがね。」 「ははっ!こら、とんだ惚気もろたわ。ご馳走さん。ほな。」 「はい。」  そうしてマンションを出て柳井と別れると、2階の角部屋から絢音の声が聞こえたので見上げると、2人が笑顔で自分に向かって手を振っていたので、藤次は笑いながらその手を振り返す。 「幸せやな…」  込み上げてくる多幸感で緩む口元を押さえながら、先程感じた不安はやはり気のせいだと言い聞かせて、藤次は最寄駅へと足を進めた。  これが、この家で家族3人で交わした、最後の挨拶になるなど、夢にも思わずに…… * 「……はあ。やっと一息つけるわね。お昼は……私は藤次さんのお弁当の残り。藤太はーー……」  藤次を見送り、朝家事を一通り終えて、絢音はふと、やけに静かすぎる室内に違和感を感じる。 「藤太……?」  家事に注力し過ぎて、泣き声を聞き逃し、泣き疲れて寝てるのかと思いながら、ミルクの入った哺乳瓶を片手に寝室へ向かい、ベビーベッドを覗くと…… 「えっ……」 * 「では検事。私、ランチに行ってきますね!」 「おう!帰って来るまでに調書読んどくから、午後も頼むえ。」 「はーい!」  そうして笑顔で去って行く佐保子の背中を見送り、調書片手に絢音の手料理に舌鼓を打とうとした時だった。 スーツの内ポケットに入れたスマホが、微振動を始めたのは…… 「なんや?電話?絢音が?」  いつも仕事中は連絡などしてこない妻の突然の着信に、藤次の中にあった負の直感が、首をもたげる。  まさか、まさか……  震える手でボタンをタップし、耳に当て、極力平静を装って明るい声でどないしたと言ってみたが、絢音から返事がない。  杞憂だ。杞憂であってくれ。  そう神に縋ってみたが、無情にも、その袂は翻される。 「……藤次、さん。藤太、息、してない……」 「えっ…………」 カシャンと、手から滑り落ちたスマホから聴こえる絢音の悲鳴を聞きながら、藤次は震える手でデスクの固定電話の受話器を取り、119を押す。 「……すんまへん。今から言う住所に、救急車一台、お願いします。患者は、棗藤太。僕の、息子です。」  色づき始めた銀杏の一葉が、フワリと風に流されて、まるでこれからの彼の人生を暗示するかのように、ひらりはらりと、地へと堕ちていった。 第9話 了
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