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第9話
……長い髪が、滝のように流れて、床に川が出来る。
自然と溢れたんは、惜別の辛さと言うより、
喜びの涙やった。
おおきに、おおきに。
ありがとう。
こないな男を夫に、親父にしてくれて……
ほんまにおおきにな。
愛しい愛しい、
ワシだけの、
絢音……
*
「あーあー」
「あら、もうお腹空いたの?藤太はホント食いしん坊ねー」
「ぶーー」
……盛夏の八月。
ノアール北山というマンションの一室に棗一家が居を移して来て、三ヶ月が経とうとしていた。
可愛いらしいベビーベッドの中でジタバタと動く息子を愛しそうに抱き上げ座り、母乳を与える妻の絢音を眩しそうに見つめながら、藤次は洗い物を食洗機に入れてスタートスイッチを押す。
「……なんや。まだ三ヶ月位しか経ってへんのに、もう顔は完全にお母はんやなぁ〜」
「や、やだそんな……まじまじ見ないで?恥ずかしい。」
「なんでや。愛しい嫁はんと可愛い息子。ワシの最高の宝物や。……なあ、もうセックスできんにゃろ?ワシ、次は女の子欲しいなぁ〜」
「ば、ばかっ!!藤太の前でそんな事聞かないでよ!!……そりゃあ、本音はシたいけど……」
そう言ってみるみる赤くなって行く母を不思議そうに見上げる息子を交互に見ながら、藤次はプッと吹き出す。
「嘘や。そやし、2人目欲しいんはホントやけど、お前の病気や藤太の育児で大変な時期が暫く続くにゃろから、まあ……2年くらいは家族計画、おあずけやな。」
「藤次さん……」
ポンポンと優しく頭を撫でてくれる藤次にそっと寄り添い、絢音はポツリと呟く。
「……ありがとう。私幸せよ。藤次さん……」
*
……今にしてみれば、振り返ってみれば、
あの頃が、幸せの絶頂やった。
絢音がおって、藤太がおる。
家に帰れば、二人で藤太を風呂に入れてやり、おもちゃで遊んで、最後は絢音が読み聞かせして寝かしつける。
ほんでその後は、夫婦二人でささやかな晩酌して、一緒に風呂入ってイチャイチャして眠りにつく。
夜泣きで睡眠が不規則になるのは、ハードな仕事で徹夜も当たり前やったから、極力絢音は寝かせて、ワシがミルクであやした。
最初は不安やったけど、藤太はミルクでも嫌がらず飲んでくれて、ワシのぎこちない抱っこも、喜んでくれた。
可愛い可愛い、
目ぇに入れても痛たない息子……
早よ喋ってくれんかなぁ。
早よ成人して、一緒に酒飲みたいなぁ。
眠りに落ちていく藤太の顔を見つめながら、必ず来ると信じて疑わなかった明るい未来ばかりを、あの頃のワシは、ただただ描いとった。
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