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ちりん、と涼やかな音が響き渡る。
それを皮切りとしたかのように、吊された数多の風鈴が次々にちりん、ちりんと音を奏で始める。
ひとつひとつの音は細やかなものであったけれども、数多の風鈴が絶え間も無く奏でる所為か、それは恰も音の奔流のように感じられつつあった。
涼やかな音の奔流に押し流されるかのようにして、私は通路の奥へ向けて歩みを進める。
ちりん、という音が私を溺れさせ、耳へと押し入って来る。
涼やかな響きが頭蓋の中を満たしていく。
目眩を覚えつつも、私は只管に歩みを進めて行く。
「やぐら」の半ば程まで歩みを進めた頃だろうか、私は通路の奥に人影を認めた。
人影は、左の横顔をこちらに向けて佇んでいるようだった。
その左手を斜め上に掲げている様は、吊された風鈴を結わえ直しているようにも見えた。
一歩踏み出した私の足元で、じゃりっ、と玉砂利が鳴る。
その音を耳にしたのか、人影はゆっくりと私のほうにその顔を向ける。
顔が湛える白が視界へと飛び込んで来た。
その白は、濃紺に染まりつつある情景の中で一際印象的だった。
人影は、私に向けてゆっくりと歩みを進め始める。
暗がり故が、最初のうちはその顔立ちや衣装は判然としなかった。
けれども、距離が狭まるにつれて姿や彩りは次第と明瞭になりつつあった。
それは、濃紺の浴衣を纏ったうら若き女性だった。
艶やかな黒髪は頭の後ろで纏められ、如何にも仕立の良さそうな濃紺の浴衣には白や薄青の朝顔が随所にあしらわれていた。
慎重に歩みを進めているのか、その足元の玉砂利は音一つ立てなかった。
音も無く歩み寄って来た彼女は、私からやや離れた場所にて立ち止まる。
彼女の唇の右端付近に小さな黒子があるのが判った。
睫毛も長い、やや切れ長の目で私を見据えた彼女は、その口元に仄かな笑みを浮かべる。
それから、私に向けて深々とお辞儀をする。
緩やかでありながらも流れるようなその挙措は、えも言われぬ雅やかさを帯びているように感じられた。
何時の間にか身を固くしていた私は、我に返ったかのように慌てて頭を下げる。
小さな笑い声が慎ましやかに響く。
それは嘲りでも阿りでも無い、無邪気な雰囲気を湛えた可愛らしい笑い声だった。
私は思わず頭を上げ、躊躇いがちに彼女の顔を見遣る。
彼女はその右手を口元に当て、悪戯めいた眼差しを私に注いでいた。
それから右手を下ろし、やや小首を傾げた彼女は、ふわりとした調子にてこう口にした。
「こんばんは。
月が無くて良い夜ですね」と。
私は思わず、こう問いを投げ掛けていた。
「どうして…、月が無ければ良いんですか?」と。
その途端、彼女を取り巻く空気が硬質なものに変わったように思えた。
彼女は答えを返すことも無いままに、じっと私を見据えてくる。
その瞳には何の感情も浮かんでいなかった。
私は、自分の脇や背にじんわりと汗が湧きつつあるのを感じていた。
凍て付いたかの如き僅かな沈黙の後、ふっと目許を緩めた彼女はこう口にする。
「だって…、月の光って騒がしいと思いません?
無駄に明るくて慎みも無くて。
風の音を愉しみたい夜には邪魔でしかないんですよ」と。
そんなものかと思った私は、言葉も無いままに二、三度頷く。
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