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私の頷きに気を良くしたのか、彼女はやや笑いを湛えた声にてこう訊ねて来る。
「それで、どの風鈴に致しましょう?
早くお選びにならないと、他のお客様に先を越されてしまいますよ」と。
私は思わず狼狽える。
風鈴を選べとは一体何事なのかと心中にて慌てふためく。
私の狼狽を見て取ったのか、彼女はこう口にする。
「お気に入りの音を探していたからこそ、此処に参られたのでしょう?」と。
そして、一呼吸ほど置いてからこう告げた。
まるで囁くようにして。
「いや…。
貴方様の場合は迷い込まれたと申しましょうか?」
ふと気が付くと、彼女は私の眼前まで歩み寄っていた。
彼女の歩み寄る気配に全く気が付かなかった私は、酷く狼狽える。
息が掛るほどの距離まで歩み寄っていた彼女は、見上げるようにして私の顔へと視線を注ぐ。
やや潤みを帯びた漆黒の瞳が私を捕える。
ふわりと漂って来た花の香が私の鼻孔を擽る。
知らず知らずの内に、私の口から言葉が零れ出す。
「いや、その…、会社から家に帰る途中、路地から風鈴の音が聞こえたような気がして…」
彼女の視線が揺らいだように感じられ、それは言葉の続きを促しているかのように思えた。
私はまるで譫言のように言葉を続ける。
「それで…、思わず路地に入ったら目の前が真っ暗になって。
そして何時の間にか神社の境内に居て…」と。
二、三度大きく頷いた彼女は、労るような調子にてこう口にする。
「そうだったんですね。
気が付けばこんな場所に居て、さぞかし戸惑われたことでしょう」と。
私は曖昧に頷く。
彼女はやや慌てたような口調でこう告げる。
「あぁ、申し遅れました。
私はこのお社の主から頼まれて、風鈴の頒布会を担当させて頂いている者です。
西條と申します」
西條と名乗ったその女性は言葉を続ける。
「路地と言うことは、裏の方から入って来られたんですね。
裏口って、道路から入ると途端に暗くなってしまうから、明るさの落差で目を回してしまう方が時々おられるんですよ。
今日のように梅雨も明けたばかりの蒸暑い日は尚更かと」
そう告げた彼女は唐突に踵を返し、来た方向へと小走りで向かった。
そして、その右手に何かを携えて直ぐに駆け戻って来た。
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