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水瀬の私を見つめる視線に甘さが交じるようになったのはいつからだっただろう。
気付いたきっかけとなった会話を思い出す。
あれは確か彰人と別れてすぐの飲み会の席だったと思う。
『そういや自転車買った?』
『満場一致で否決された』
『何で?』
『俺の一票はどこいった』と不服そうな顔をした水瀬が『送っていく』と私の最寄り駅まで来ようとした時、初めて違和感を感じた。
『え?いいよ』
『いいから。この前聞いてビビったわ。遠すぎだろ』
『遠くないよ。おにぎり二個とチキン食べてお茶飲み干したら着くよ』
『帰り道で夕食済ませてんじゃねぇ。だから倒れるんだろ。大体食べ歩きとか行儀悪ぃ』
『お母さんか』
『産んだ覚えはねぇ。いいから送ってく』
そのあとも『いらない』『送ってく』の押し問答は続き、結局無事に家に着いたらメッセージを送るという謎の着地点で合意を得た。
家に着き【今家に着いたよ】と送ると、即既読がつき【了解】と短く返ってきた。
それだけのメッセージのやり取りがなんとも照れくさく、据わりが悪い感情に支配される。
今までそんなことはなかったのに。
どれだけ遅くなっても『気をつけて帰れよ』くらいだったはず。水瀬に限らず、こんなに過保護にされた覚えは一度もない。
それが言外に『心配だ』とひしひしと伝わってきて落ち着かない。
それからだ。
水瀬がどこか変わったように感じることが多くなったのは。
少し前髪を切ればそれに気付き、季節でメイクを変えればコメントをくれる。
『タモさんか!』とつっこみたくなるのにそれが出来ないのは、からかったり気まぐれなんかじゃない、甘く絡め取るような視線が私を惑わそうとするから。
いきなり同期の距離感が崩れたわけじゃない。今まで通りバカバカしいノリの会話にも付き合ってくれる。
でもそれだけじゃない、私を女性扱いしていると私に気付かせようとしている意図を所々に感じてしまう。
それが私の自惚れだったらいいと、この一年半ずっと思っていた。
私がただの自意識過剰なだけで、水瀬は王子の名に相応しくただ紳士的なだけ。私だけじゃなく、他の女の子にもきっと同じようにしているに違いない。
そう思い込もうとすると、喉の奥がぎゅうっと痛むような気がするけどそれも気の所為にして。
私は彼の特別なんかじゃない。ただ他よりも少し距離の近い仲の良い同期。それが一番平和。
そう思いながらも、もし違ったらという小さな疑問が私の心から消えなくて。
もしも私が思っている通りだとしたら。
心の中でさえ直接的に言葉に出来ない思いを彼が私に抱いているとしたら。それを私に伝えようとしているのだとしたら。
そんな疑念が胸を締めている状態で毎週のように水瀬と飲みに行くのが難しくなってきたこの半年ほど。
避けているとはいえない程度に水瀬との距離感を考えて図っていたのを、きっと彼もわかっていたんだと思う。
そして入社四年目の現在。先週の水曜日に行われた三ヶ月ぶりの同期会。
前回はノー残業デーにも関わらず忙しすぎて残業になったので参加出来ず、私にとっては半年ぶり、水瀬が営業から企画に異動して初めて参加する同期会だった。
私と水瀬が隣に座ったって、誰も何も思わない。いつも通り。ただそれだけ。
サラダや唐揚げを甲斐甲斐しく私のお皿に盛ってくれる様子も、『飲みすぎるなよ』と店員さんに水を頼んでくれるのも見慣れた光景で、特別なわけじゃない。
それでも私にはわかってしまった。
水瀬が今日、何か決意を持ってこの場に来ていることを。
時々私に向けられる視線の強さに、捕食者の鋭い光が宿っているのに気付いてしまった。
『お前、最近俺のこと避けてるだろ』
小声で隣から唐突に核心に触れられて、驚いて思いの外大きく身体が跳ねた。
『冤罪です』
『虚偽の証言は犯罪だぞ』
『……黙秘権を行使します』
『それはもうほぼ認めてるようなもんだろ』
『……』
『なぁ、佐倉』
『傍聴人はお静かに願います』
『誰が傍聴人だ』
緊迫しているのかバカバカしいのかわからない言い合いをしていると、橋本くんが『お前ら相変わらず仲良いなぁ』と私たちの間にジョッキを持って割って入ってきた。
水瀬は明らかに嫌な顔をしていたけど、私は拝みたくなるほどタイミングの良い橋本くんに感謝した。
そのまま都市開発の企画の話になり、他の住宅建築部の同期も興味があるのかその輪に何人かが加わって、私は自然に水瀬の隣から移動することが出来た。
少し離れた所にいた総務部の亜美や経理部の理沙のところへ行く。
この二人とはインターンから親しくしていて、私に『水瀬帝国の王子』の話を聞かせてくれた張本人達。
二人共入社当時こそ水瀬にキャーキャー言ってたみたいだけど、今はそれぞれ彼氏と幸せそうにしている。
近況だけさらっと話した所で、明日早くに出社する予定があると嘘をついて理沙に会費を託し、まだお開きには遠そうな同期会を抜けた。
いつも隣りに座ってる水瀬に何も言わずに帰るのが後ろめたくないわけじゃなかった。
でもこのままここにいたら、聞きたくない何かを聞いてしまうんじゃないかって怖かった。
だから、一人でこっそり帰ってしまった。
その結果【マジで話があるんだけど】と逃げられないメッセージとパンダが夜のうちに届き、有無を言わさず食事のアポを取り付けられ、いよいよ今日その約束の時がきてしまった。
作った資料を保存し、パソコンをシャットダウンする。持ち帰るほど仕事が溜まっているわけでもないので、出力した資料はデスクに入れて鍵をかけておく。
エントランスで長く水瀬を待たせるわけにはいかない。逃げたと勘違いされ営業課に迎えになんて来られたら困ってしまう。
私は大きく息を吐き出し腹を決めると、簡単に化粧直しをしてから行こうとトイレへ向かって歩き出した。
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