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彼氏を振ってでも一ヶ月水瀬くんと火遊びがしたいのか、自分だけは水瀬くんを変えられると思うのか、私には歴代の彼女たちの気持ちを微塵も汲み取ることは出来ず、生暖かい目で見守ることにしている。
「だって俺、今は莉子先輩に夢中だし」
全くもって嬉しくない宣言を就業中にニコニコされた。
飲みきったココアの紙コップを足元のゴミ箱に捨てて、彼の言葉をやり過ごす。
キテレツな恋愛観の真偽を直接本人に聞いたわけではないけど、これだけ大きくなっている噂を否定しないで遊んでいる様子を見るに事実なんだろうと思う。
それならば、私は彼の『お相手をする条件』に当てはまらない。
大学時代からずっと付き合っていた彼氏ときっちり別れたのはもう一年以上も前。それ以来、恋愛とは距離をおいて仕事一筋で走ってきた。
なぜそんな私にちょっかいを出し始めたのかと疑問に思わなくもないが、王子のお戯れだと基本放置している。
二週間ほど前に『次は莉子先輩にします』なんて言い出したときには驚いたし頭痛もしたけど。
チャラい冗談のような言葉を投げかけられる程度で特に実害はない。
そのうち飽きて、彼氏とラブラブな可愛い女の子を見つけてそちらに行くだろうと思っている。
「野原くん、十分後に出るよ」
「ちょっと。しんちゃんキャラ定着させようとすんのやめてください」
「ふふ、水瀬くん。ちゃんとほっぺ冷やしたら準備してね」
「んー……、蓮兄が企画に行ったからってやっぱり紛らわしくないですか?爽でいいです」
同期の水瀬は半年前の三月まで私と同じこの営業課にいた。
今年の四月に建築企画課の首都圏プロジェクト室という都市再開発事業をメインにする部署へ移動になった。
エリートの集まりだと言われる首都圏プロジェクト室に入社四年目で配属になるなんて、水瀬は本当に凄い。
御曹司であるがゆえに親の七光りだなんて口さがない事を言う人もいだけど、営業課にいた二年間の彼の仕事ぶりを見れば、恥ずかしくてその口を噤むしかないだろう。
もちろん私だって水瀬が実力で企画課に異動したと正しく理解しているから、三月の営業課で開いた簡単な送別会では盛大に栄転を祝った。
今後は気軽に仕事帰りに愚痴を言い合いながら飲むなんてことは出来なくなるのかなという自分勝手な感情に蓋をして、順当にエリート街道をひた走る同期に尊敬の眼差しで『おめでとう。頑張ってね』と伝えた。
『サンキュ』とお礼を言いながらも少し寂しそうな顔をしていて、二年間いた営業課にそんなに愛着を持ってるなんて、水瀬も可愛いとこあるんだなぁなんて感慨深く感じながら見送った。
そんなわけで同じ部署に『水瀬』がふたりいるわけじゃないし、自分の中で同期の水瀬と後輩の水瀬くんで区別は出来ていたんだけど。
彼にとっては同じ名字で他の誰かが呼ばれているのは紛らわしく感じるのだろうか。
「ん、わかった。爽くんね」
半年も経った今さら呼び方を変えるのも若干気恥ずかしいものがあるが、それを出すほうがおかしな雰囲気になりそうでなるべくあっさり呼んだ。
水瀬くん……もとい爽くんも特別気にしてはいないのかひとつ大きく頷いただけで、左頬に保冷剤を当てたまま資料を鞄に詰め込んでいる。
今日は朝から外回り。出社してメールのチェックだけ済ませてから、爽くんの出身大学の事務局へ打ち合わせを兼ねた営業をしに行く予定だ。
学生寮の老朽化が進み、都内に四つあるうちの一つの寮の建て替えをうちで請け負うことになった。
建て替えの間の学生たちの住居ももちろん我が社と懇意にしている不動産会社と手を組んで手配済み。
他の寮は今のところ問題は起きていないとのことがだ、築年数は十年も変わらない。なんとしても残り三つの寮も全てうちで建て替えを請け負いたい。
爽くんは出身大学というだけあって事務局の人にも顔見知りがいたり、ここの寮で生活していた友人もいたようで何かと営業をするのに役立つ情報をたくさん持っている。
一応私の案件の補佐という立場ではあるけど、残りの三つの建て替えを請け負えたとしたら、間違いなく爽くんの手柄だ。決して私ひとりの実力ではない。
若干ネガティブになりかけた思考を振り払うように頭を振って切り替える。
オフホワイトの大きな鞄に資料とタブレットを入れ、ちらりと爽くんを見ると既に営業車のキーを手にしていて準備が整ったようだった。
「よし、行きますか」
「ほっほーい」
「ふふ、全然似てない」
「モノマネなんて初めてしました。もうしません」
「あはは!王子はモノマネのレパートリーなんていらないもんね」
「莉子先輩はあるんですか?レパートリー」
「聞きたい?」
「ぜひ」
「いつかね」
拗ねた顔をする爽くんに笑いながら営業のフロアを出てエレベーターへ向かう。
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