しせん、しせん。

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『気を付けてくださいね、洗剤はとても滑ります』  神主さんは困ったような顔で言いました。 『実は、浦部さんの前にも掃除の方を雇っていたのですが。その方も掃除中に洗剤で転んで、それで大怪我をしてやめてしまって。浦部さんも本当に、お気を付け下さいね』 『わ、わかりました』  転んだだけで大怪我をする、なんてのもこの年だとまったく馬鹿にはならないものです。私の母も昔、庭で転んだだけで腕を解放骨折してしまったことはある。あんな痛そうなのは絶対嫌だなと思いました。  私はその日から、狛犬様の掃除を始めたのでございます。  なるほど、狛犬様は確かに汚れてしまっておりました。特に、境内を正面にして左側の狛犬様。何故か左前脚に茶色いものがこびりついております。土か何かのようで、水と洗剤で流したらすぐに落ちたのですが――ひょっとしたら誰か不届きな者が悪戯をしてしまったのかもしれません。 ――狛犬に落書きとか、する人いるのかしら。絶対バチが当たるわね。  そんな風に考えながら、初日の仕事を終えました。そして、それから暫くの月日は、特に何事もなく過ぎていったのでございます。  奇妙なことが起きたのは、アルバイトを始めた夏のこと。夏にもなると、夏休みということもあって子供達が平日の午前中から遊んでいたりするものです。親も仕事が休みで、子供と一緒に遊ぶ者も少なくありません。  神社は公園に隣接されておりますし、境内で鬼ごっこをする子供たちもいてなかなか微笑ましいものでした。私は狛犬の掃除をしながら、なんとなく我が子を思い出してほっこりとした気分になっていたのですが。  掃除をしている最中、ふと狛犬様と目があったのです。そしてぎょっとしました。その目が動いたからです。 『え!?』  見間違いかと思って目をこすりましたが、やっぱり動いていました。目玉はぐるぐると動き回ると、やがてぴたり、ととある一点を見据えて動かなくなったのです。  私はなんだろう、と思ってその視線の先を振り返りました。そこには、石畳の端にベビーカーを置いて、楽しく夫と談笑する女性の姿があったのです。そう、二人並んで立っているのに、私は狛犬様が見ているのが女性の方だとわかったのです。  彼女がどうしたのだろう、ともう一度狛犬様を見た私はまたしても驚かされることになりました。  たった今、洗い流したハズだったのに、どういうことでしょう?狛犬様の左後ろ脚が、赤茶に汚れていたのです。私が彼女を振り向いた、ほんの数秒の間の出来事でございました。  否、土に汚れたのではない。まるで、汚れが内側からしみ出してきたかのような違和感を覚えたのです。 ――な、なにこれ。きもちわるい……。  心の中でそう思いつつも、私は慌てて狛犬様を掃除しました。  それから、一週間ほどあとのこと。私は偶然、先日の旦那様が一人で神社にやってきて、神主さんにおすがりしているのを見てしまったのです。 『何か、悪いものが憑りついているかもしれないんです。……妻が、妻の実家で……と、トラクターに左足を巻き込まれて切断することになって……』  左足。  私が、狛犬様のことを思い出したのは、言うまでもありません。
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