しせん、しせん。

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 ***  そうです。その通りなのです。  そのようなことが、それから何度も繰り返されることになるのでございます。  ある時は、狛犬様は境内で遊んでいる子供の一人を見つめました。そして、右前足を赤茶に染めたと思った瞬間、ボールを追いかけて道路に飛び出していったその子供が撥ねられるのを目撃してしまうことになるのです。  その男の子は右腕がトラックのタイヤの下敷きになって、痛い痛いと泣き叫んでおりました。あんな華奢な腕が、何トンもあるトラックの下敷きになって無事で済むはずがありません。恐らく、切断することになってしまったことでしょう。  またある時は、狛犬様のお尻のあたりが汚れたことがあり、その時見ていたのは私より三十歳は年上のおばあさんでした。そのおばあさんは階段から落ちた拍子に柵にお尻が刺さり、血まみれになって泣き叫んでおりました。  さらに、顔が真っ赤に染まったケースもあります。見ていたのは参拝に来ていた女子高校生三人組の一人。背が高くて美人な、ポニーテールの可愛らしい女の子でした。彼女は後日、顔を包帯でぐるぐる巻きにして神社を再び訪れました。何があったのかはわかりませんが、“呪われた”“火事”“お祓いを”と神主さんに話していたキーワードだけは聞き取れたように思います。 ――あの狛犬が、人に呪いをかけているんじゃ。  私は恐ろしくなりました。このままでは、自分にも呪いが飛んでくるのではと思ったのです。  ですので、春になる前に神主さんにお伝えしました。アルバイトをやめたい、あの狛犬様が恐ろしいと。  すると神主さんはこう言ったのです。 『やめるのはお勧めしません。狛犬様に嫌われてしまいますよ、それでもよろしいのですか?』  嫌われるもなにも。もうすでに、こっちが願い下げ、という状態でございましたから。私は神主さんが止めるのもきかず、その日のうちに退職を願い出たのでございました。  ですが。  私は忘れていたのです。社務所もまた、鳥居の内側にあること。  帰るには、狛犬様の前を通らなければいけなかったということを。  見ないように、見ないように、見ないように――そう思っていたのに私は、狛犬様の方へと顔を向けてしまっておりました。そして気づいたのです。  金色の眼が、私を見ていること。その目が怒りに染まっていること。  そして私が見ている前で、その顔が、両の前足が、両の後ろ脚が。全て赤黒く染まっていく様を。 『い、いやああああああああああああああああああああああああああ!!』  私はそのまま逃げだして今、此処に至ります。  こうして遺書を書き記しているという次第なのです。  ああ、臆病で情けない女でございましょう。私は恐ろしいのです。死ぬことよりも何より、“顔を潰され両手足を切断してまで生き延びなければならないような眼に遭う”ことの方がよほど恐ろしい!その苦痛と恐怖から逃れたくてたまらないのです。  あれは確実に私の身に降りかかると確信できるのです。  崇さん。  それから愛する息子たち。本当にごめんなさい。  私は一人、この恐怖から逃れに参ります。それがどれほど皆さまを悲しませ、苦しませるとわかっていても――私は、もう。  本当に申し訳ありませんでした。  愛しています。  浦部由美子
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