第1章 始まりの刻

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 どれくらいの間そうしていただろう。  不意にドアの開閉音と足音が聞こえてきたのだ。  足音を聞くに、どうやら犯人は一人――  固く目を瞑り、息を殺す。 「起きてらっしゃいますか?」  淑やかなその女性の声からは、私を今すぐどうこうする気は無いように感じられる。  でも、油断しては駄目だ。相手は誘拐犯なのだから。  どうか、今すぐに部屋を去って。願いながら、手を握り締める。それなのに。  なんと、被っていた布団が頭の方から剝がされていったのだ。 「ひゃっ……!」  あまりの出来事に、思わず目を開けてしまった。  そこにあったのは女性の顔だった  穢れの無いクリクリな緑色の瞳はじっと私を見詰めている。 「いや……」  お願いだから殺さないで。歎願してみるものの、相手に伝わっているかどうかは分からない。  そのまま動けずにいると、女性は困ったように口をへの字に曲げる。 「怯えられてしまうのは仕方無いとは思いますが……」  女性は「ふぅ……」と溜息を吐くと、その場にしゃがみ込んで震える私の両手をその手で包み込む。 「大丈夫ですよ。私は貴女を取って食うつもりはありませんから」 「う……うぅ……」  では、何故、私を誘拐したのだろう。身代金を要求する程家は裕福ではないし、恨みを買うような事だってしていない。 「貴女は……私をどうしたいの……?」 「そう言われると、困ってしまいますね。したいのではなく、もう既になってしまっていますから」 「え……?」  意味が良く分からない。  その人はそっと微笑み、私を宥めるように頭を撫で始めた。 「お茶を用意してあります。どうか少しでも飲んでください。……起き上がれますか?」  言われ、震える身体を何とか起こしてみる。 「大丈夫そうですね。此方へいらして下さい」  何とか頷き、立ち上がったのは良いのだけれど、違和感に気付く。  私、制服を着ていない。今着ているのはマントも付いているし、まるでファンタジー漫画に出てくる魔法使いのような服装だ。 「私の制服、何処にやったの……?」  と言うか、誰が着替えさせたのだろう。  まさか裸を見られたのだろうか。  一気に顔が高熱を帯びていく。 「あっ。それは、貴女があまりにもへんちくりんな格好をしていたので、魔法でちゃちゃっとやってしまいました」 「へんちくりん……? 魔法……?」  制服の何処がへんちくりんな格好なのだろう。しかも、魔法とは一体――  絡まっていく思考は更にうねり、解けなくなってしまいそうだ。 「取り敢えず、此方へ」  女性は部屋の中央に置かれたソファーを手で指し示す。  段々と痛くなってきた頭を抱え、何とかそこへ辿り着く事は出来た。  ソファーに腰を下ろすと、女性は湯気の立つ甘い香りのするティーカップをテーブルの上に乗せた。 「これ……飲んでも大丈夫なの?」 「はい。毒なんて入っていませんよ」  女性はにっこりと笑う。  素直に「ありがとう」と言う気にもなれず、無言のままティーカップに口を付けた。ほんのりと苺の香りがする紅茶だ。  温かいものを飲んでふと気が緩んだのか、右目から一粒涙が零れ落ちた。 「私、家に帰れるの……?」  知らない所に連れてこられ、変な服を着せられ、目の前に居るのは緑色の髪と瞳の、まるで中世ヨーロッパを思わせるようなドレスを着た不思議な女性で――  心配にならない方がおかしい。  尋ねられた人は悲しそうに目を伏せ、小さく口を開く。 「残念ですが……これからは此処が貴女の家だと思って下さい」 「えっ……?」 「私は貴女を帰して差し上げる術を持ち合わせていないのです」  きっとこれは夢だ。そうに決まっている。  思い切り右頬をつねると、確かに鈍痛を感じた。 「そんな……。皆心配させちゃうし、定期演奏会だってあるのに……」  私にはしたい事が沢山ある。帰らなくてはいけないのに。  途端に滝のような涙が両目から溢れてきた。 「今日は何も考えないで、ゆっくりしましょう?」  こんな訳の分からない状況なんて嫌だ。頭がどうにかなってしまいそうだ。 「何で誘拐したの~……? 帰りたいよ~……。やだ~……」  不安を、恐怖を吐き出していく。 「魔法って何~……? そんなの、漫画じゃないんだから~……」  ただただ子供のように泣きじゃくる。そんな私の傍を女性はひと時も離れなかった。  泣き止んだとしても、その人は私の頭を撫で続ける。  夕食も一緒に摂る程だ。 「どうぞ、お召し上がりください」  テーブルに置かれたのはチキンとチーズが入ったミルクリゾットだった。  そうは言われても食欲は全くと言って良い程に無い。 「……食べたくない」 「駄目ですよ。少しでも食べて下さい」  スプーンを近付けられ、溜め息が漏れてしまう。  仕方無くそれを受け取った。 「何で貴女は私に優しくしてくれるの……?」 「それは、貴女の使い魔だからです」 「使い魔……?」  また訳の分からない単語が出てきてしまった。  首を横に振り、今聞いた事を無かった事にしてみる。 「貴女の名前は?」 「アリアです」 「アリアさん?」 「『さん』は要りませんよ」  その女性――アリアは「ふふっ」と笑い、そっと座り直す。
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