第1章 始まりの刻

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「貴女のお名前は何ですか?」 「私? 私は……」  教えてしまって良いのだろうか。もしかすると、両親が私のせいで脅迫などされてしまうかもしれないのに。  俯いてしまった私の手に、そっとアリアの手が触れる。 「花岡実結、です」  多分、この人は怖いだけの人ではない。これまでのアリアの行動がそう思わせ、口を開いていた。 「ファーストネームはどちらでしょう? ハナオカ様ですか? ミユ様でしょうか?」 「実結だよ」 「ミユ様ですね」  変な質問だなと思いながらも小さく頷いてみせると、アリアはそっと微笑んだ。  隣に居るアリアがリゾットを食べ始めたので、私もスプーンを使ってリゾットを頬張ってみる。  甘いミルクとコンソメの味が口いっぱいに広がった。今まで食べてきたリゾットの中で一番美味しいかもしれない。 「美味しい……」 「エメラルド城のシェフは腕が良いですから」 「エメラルド城? シェフ?」 「……いえ、今のは忘れて下さい」  アリアは私が話を理解出来ない事を認識したのだろう。囁きながら、小さく首を振る。  私も、きっとアリアもそれ以上何を話して良いか分からず、静かな食卓は続いた。  リゾットの他にはバニラアイスも用意されていた。  濃厚なミルクの味を楽しみながら、家族に思いを馳せる。  もう捜索願が出されたのだろうか。警察は私を見付け出してくれるだろうか。  鞄もどこへ行ってしまったか分からず、スマホで連絡を取る事も出来ない。通報する事も出来ない。 「私の鞄は何処?」 「鞄、ですか? ミユ様はそのような物をお持ちではありませんでしたよ」  やはり、か。期待はしていなかったものの、心に重たいものが圧し掛かる。  アリアは本当に私を帰す気は無いらしい。  最後の一口を食べ、ガラスの小皿をテーブルに置く。  アリアも食べ終えたらしく、一息つくと今度はクローゼットの方へと向かった。 「今夜はこちらをお召しになって下さい」  どうやらナイトウェアを取り出してくれているようだ。  白色のそれをベッドの上へと置き、ゆったりとした歩幅で此方へと戻ってきた。 「今日はこれで失礼致しますね。明日、またお会いしましょう」  食器たちをトレイに移すと、アリアはそれを持ち、ドアへと向かう。  途中で此方に振り返ると、そっと微笑み、部屋から出ていってしまった。  部屋の中がしんと静まり返る。  眠くはないけれど、もう眠ってしまおう。もしかすると、明日には誰かが迎えに来てくれるかもしれない。  僅かな期待を心に秘めながら、ゆっくりとベッドへと向かった。  茶色の編み上げブーツを脱ぎ捨て、白色の衣服も椅子に脱げ捨て、まるでヨーロッパの貴族が着ていそうなナイトドレスを身に着け、ベッドに大の字で寝ころんだ。  ダブルベッド並みに大きなこのベッドでは、何だかソワソワして気が休まらない。  瞼を閉じ、大丈夫、眠れる、私は疲れているのだと自分に言い聞かせる。  時計の秒針の音が耳にこびり付いて離れない。 ――――――――  ふと気が付いて瞼を開けた。いつの間にか私は眠ってしまったらしい。  白い天井と天蓋――どうやら昨日の出来事は夢ではないらしい。  小鳥の鳴く声が聞こえる。時間が気になり、木製の丸い掛け時計に視線を向けてみた。目を凝らしてみれば、針は八時を指していた。  むくりと起き上がり、周囲を確認してみる。  誰も居ない。  溜め息を吐き、膝を抱えた。 「そうだよね……。私の居場所なんて誰も知らないのに、助けなんか来ないよね……」  駄目だ、このまま考え込んでは涙が出てきてしまう。  少し気分転換をしよう。  そうだ。この場所が何処なのか分かれば、スマホが戻ってきた時に助けを呼べるかもしれない。  レースカーテンが掛けられた大きな窓――ううん、バルコニーを目指した。  右手でカーテンを除け、ガラス張りのドアを開る。  目の前に広がるのは空ばかりで、建物は何も無い。  どういう事だろう。此処はもしかすると高所なのだろうか。  小首を傾げ、ゆっくりと目線を下へ持っていと―― 「何……これ……」  眼下に広がったのは赤い三角屋根ばかり。日本の景色とは明らかに違う。まるでヨーロッパのような街並みだ。 「嘘……でしょ……?」  てっきり此処は日本だと思っていたのに。違うのだろうか。  そう言えば、アリアが変な事を言っていた。  ――魔法でちゃちゃっとやってしまいました――  ――貴女の使い魔だからです――  ――エメラルド城のシェフは腕が良いですから――  もし、此処が日本では――地球ではないのだとしたら。 「ミユ様、おはようございます」  今、小さくアリアの声が聞こえた気がした。  ううん、そんなものはどうでも良い。  私を助けに来てくれる人なんて居ない。私も帰る方法を知らない。  嫌だ、何も考えたくない。眩暈がする。 「ミユ様?」  どうしてこんな事になったのだろう。  きっかけは――そう、あの雫形の緑色の石だろうか。  誰が、どうしてあれを私にくれたのだろう。   「ミユ様? 何処にいらっしゃいますか?」   きっと、これはファンタジーな物語でよく見る異世界転移――  意識が遠のくのと同時に、身体は後方へと倒れていった。
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