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前編
その者は言った。
山々が深紅に染まる時、一陣の風は道を示し、その道には鬼と天使が重なっていた――と。
日本列島の中心部に位置するとある村。
数年前より過疎地域に指定され、今では人口およそ千五百人にも満たない。
その人口は今後も減少していくと見られ、数ヶ月後には近辺の村との合併が予定されていた。
そんな村には、古より受け継がれてきた言い伝えが残っている。
人々はこの村のことを次のように呼ぶ。
『鬼と天使が住まう村』
美しい人の容姿をしたその鬼は、突如として村に現れては、様々な災いを齎した。
一方、その鬼は時として大きな羽を靡かせ、その身、まるで天使のように、村に進むべき道を示したという。
鬼か天使か。
これらが共存することなどありうるのか。
人々の心が生み出した幻なのか。
真相は遥か彼方、人々の手の届かないところで何百年もの間、眠り続けていた。
これは、そんな伝説のような言い伝えを一人の少女が知り、そして、何かが目を覚ました日の話である――
◆
「行ってきまーす」
赤羽静は誰もいない部屋に響く声で挨拶をし、家を出る。
静は外に出てすぐ、一瞬動きを止めると、音が出ないようゆっくりと扉を閉め、鍵をかけた。
近い未来を想像し、大きくなり過ぎた声と調和を取ろうとしたからだった。
「大丈夫……よね?」
壁の薄いアパートの隣室に視線を送った後、静は足早に階段へと向かう。
階段を下りながら先程のことを思い返し、自分の名前と正反対な言動に、口元が緩んだ。
「早く新しい引っ越し先を見つけなきゃ」
アパートを背に、静は呟くように言った。
老朽化の進んだ静の住むアパートは、村の合併のタイミングに合わせ、取り壊しになることが決まっている。
取り壊しについての通知がされてから、静は休日に色々な物件を回る日々を送っていた。
静はこの村で生まれ育ったわけではないが、初めて一人暮らしをしたアパートだけに思い入れがあった。
しかし、こればっかりは致し方がない。
そう頭では思いつつも、このアパートに引っ越してきた時のこと、ここで過ごしてきた日々のことを思い返すと、自分でも不思議な程に、どこか足取りが重くなる。
「今日こそ、いい出会いがありますように」
乗り込んだ自家用車の鍵を回してエンジンをかけると、そんな気持ちを振り払うように、静は思いの丈を口にした。
この日、静が向かった先は村の中心部から三十分、更に山道を入り二十五分程走ったところにある物件だった。
管理会社に聞いた話によると、元々そこはペンションだったらしい。
人口の減少に伴い利用客も減り、中を改装して数年前からルームシェアという形で貸しに出し始めたのだという。
物件を探していたこのタイミングで、ちょうど利用者の一人が退去することになったらしく、勤務先からは少々遠い場所ではあったが、「なにかのご縁かも」と、静は内部見学を希望した。
「すごい工事の音……、この辺の道路でも綺麗になるのかな」
目的地付近では重機のエンジン音が響き渡っている。
あまりの大きさに静はパワーウインドウに手を掛けたが、窓は完全に閉まっていた。
工事の音から逃げるように十字路を左折すると、坂道の傾斜は緩やかなモノへと変わっていく。
そして、道路の舗装された敷地へと入ると、間もなく目的地である物件へと到着した。
車を駐車場に止めてエンジンを切り、静は上着を手に車を降りる。
「あ、やっぱり山の中は寒いなぁ」
「赤羽様、お待ちしておりました。予定よりも随分と早い到着ですね」
静が手に持った上着を羽織った時、後ろからこの物件を紹介してくれた管理会社の宇佐美が優しい声と笑顔で出迎えた。
宇佐美はこの数ヶ月、静の新居探しを手伝ってくれている。
「あ、宇佐美さん。今日はいい出会いがあると思って、ちょっと気合いが入ってしまいました」
「私もここは非常にいい物件だと思います。空気も綺麗で、仕事とプライベートを完全にわかつ静けさもあって……、職場から遠くなってしまうことを考慮しても、押しの物件の一つです」
管理会社の支店長が言っていた「ウチのエースにお任せください」という言葉がよくわかる表情で、宇佐美は相手の立場に立った言葉を告げる。
この人が言うなら大丈夫――そう思わせられる人なんだろうな、と静は言葉に変わる微笑みで返事をして頷いた。
「ところで、宇佐美さん。この近くでやっていた工事は、この物件に続く道を舗装する――モノだったりします?」
静は期待を寄せた質問を投げかける。
しかし、その答えは期待に反したモノだった。
「え、工事ですか? それは……どの辺りのことですかね?」
「すぐそこの、ほら、十字路を曲がる前の山道の辺りです」
「十字路……ですか」
「工事なんてしてたかな」と静にも届く声で、宇佐美は呟いた。
宇佐美が頬に手を当てて考えている様子を見ていると、内部見学を予定していた家の玄関が開く音とともに、「あ、どーも」と、か細くも温かみを含んだ声がした。
声の元へと視線を送ると、白色のワンピースにスウェットのパーカーを羽織る女性が会釈を繰り返しながら、二人の元へと歩いてきた。
「あ、加賀谷さん。お世話になります」
宇佐美の声に、加賀谷は「こちらこそ」と、肩まで伸びた髪の左側を耳に掛けた。
「こちらが今日の――」
「はい。内覧希望の赤羽様です」
その言葉を合図に、静と加賀谷は目を合わせ、互いに頭を下げる。
「赤羽様。こちら、この物件のオーナーでいらっしゃる、加賀谷さんです」
「初めまして。加賀谷紅葉です」
可愛い名前――と静は思った。
加賀谷は静と十も違わない容姿に見える。
ただそうとは思えない程に品があり、透明感のある雰囲気を纏っていた。
あまりの美しさに静は言葉に詰まったが、隣の宇佐美の笑みに肩の力が抜け、慌てて言葉を紡いでいく。
「は……、初めまして。赤羽静と申します。今日はよろしくお願いします」
加賀谷は「可愛らしい方ね」と言って微笑んだ。
ただの社交辞令にも関わらず、静は羞恥心から視線を逸らした。
「少しお時間が早いですが、もう――」
宇佐美が加賀谷の顔色を伺うように尋ねると、加賀谷は「もちろん、構いませんよ。どうぞこちらへ」と、建物の中へと案内をしてくれた。
加賀谷を先頭に、宇佐美、静の順に中へと入る。
事前情報として聞いていた話の通り、中に入った直後から元ペンションを連想させる、全てが木造で、趣のある古民家のような造りになっていた。
玄関には三足の大きさの異なる靴が置かれている。
ここでルームシェアをしている人たちの物だろう――と、静は無意識のうちにその靴から姿を想像していた。
「入ってすぐがリビングです」
加賀谷が扉を開けると、三十畳は優にある広々とした部屋が露わになる。
上が吹き抜けになっていることで、見た目以上に広く感じた。
部屋の隅には暖炉があり、天井には大きなシーリングファンが回っている。
ここは共用スペースとなっているとのことで、誰もが自由に利用でき、夜になると自然に住民全員が集まって談笑しているのだという。
中央に置かれたソファがテレビ側ではなく、あえて大きな窓を向いているのは、夜の夜景を楽しむことはもちろん、何より会話を大切にする為なのだと、加賀谷は笑顔で言った。
「ルームシェアに大切なのは程良いプライベートと、話を共有できる時間」というのが、加賀谷がペンションからルームシェアへと切り替えた際に掲げたコンセプトだそうだ。
「話し相手が欲しい」と思っていた静は、その想いに強く共感した。
ルームシェアに抵抗が無かったのも、このためだった。
その後、キッチンと浴室を見ると、三人は階段を上って二階へと向かう。
二階はプライベート空間、それぞれの部屋になっている。
共有スペースはトイレだけだった。
「この部屋が退去予定の部屋です。まだ荷物があるけど、内覧許可は貰ってるから、どうぞ入って」
「失礼します」と軽く頭を下げながら、静は部屋の中へと入る。
部屋は八畳程の大きさで、家具などを入れたとしても、一人で過ごすには充分な広さがあった。
静が部屋を見渡していると、窓側の壁に置かれた一冊の本に目が留まった。
「鬼と天使が魅せる道――」
静はその本のタイトルを口にする。
そう言った静の表情が困惑していたのか、加賀谷は静の視線の先まで行き、その本を手に取ると、ベッドの上に腰を下ろした。
「赤羽さんは――ご出身はどちら?」
加賀谷は本を数ページ捲りながら問いかける。
風に靡くその髪が、加賀谷に一層の美しさを与えていた。
「え……っと、群馬県の西側なんですけど」
「あら、じゃあここからも、そう遠くはないわね。こっちに来たのは、お仕事で?」
加賀谷は本を閉じ、視線を静へと動かして言った。
「そうです」と静は吸い込まれそうな程に大きな加賀谷の瞳を見ながら答える。
「ここに来る前に、この村について聞いたことはある?」
「村についてですか? いえ、特には何も――あ、この村が『鬼と天使が住まう村』って呼ばれてるのは、この村に来てから知りましたけど」
引っ越す前は一度物件の内部見学に来たくらいで、村の情報については調べることも、聞いたこともなかったが、この村の別名については村のあちらこちらに記載があったので、その言葉だけは知っていた。
静が加賀谷の顔色を伺うように首を傾げていると、加賀谷は本のタイトルを静に向かって見せる。
「この本のタイトル、『鬼と天使が魅せる道』っていうのはね、この村が題材になってる本なの」
「何となくそうじゃないかなとは……。でも、『悪魔と天使』――ではなく、『鬼と天使』なんですね」
少し食い気味に静は言うと、加賀谷は少し驚いた顔を見せてから「この村の歴史に興味ある?」と笑顔で言った。
「あります。実は私、今日は何かのご縁があるんじゃないかと思ってここに来て……。だから、もしかしたらこの話を聞くのも一つのご縁な気がするんです。変ですよね、お家を探しに来てるのに、こんなことばかり考えて」
「そんなことない、嬉しいわ」
加賀谷は元々大きな目をさらに見開いて立ち上がる。
村の歴史を話すことが好きなのか――静は加賀谷に両手を握られていた。
「もし良かったら近隣散策も兼ねて、少し外に出てみない? この本に出てくる、鬼が眠る場所があるの」
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