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 物理室は東階段のすぐ脇にあり、準備室はその隣だ。物理室とは教室の中からも行き来でき、廊下からも入れる扉がある。  美緒は迷わず廊下に面した準備室の扉の前に立った。軽く握った右手で扉をノックしようとしたとき、部屋の中からくしゃみの音が聞こえてきた。 「いますね」  つぶやいてから、美緒はノックした扉をスライドさせた。「失礼します」と言った美緒の声に、二度目のくしゃみの音が重なった。 「すまん。こんな調子でも気にならなければ、どうぞ入って」  白い不織布マスクを顎のほうへと下げ、物理科教師の大久保卓哉はティッシュで派手に洟をかんだ。太樹は今年も彼の物理の授業を受けているが、美緒の言ったとおり、いつもはさわやかで聞き取りやすい彼の声は鼻にかかり、しゃべりにくそうだった。キリッと男らしい目もとも今は潤み、頬もやや赤らんで、せっかくの男前が台無しだった。 「大丈夫ですか、先生」  大久保に気づかう声をかける美緒に続き、太樹も物理科準備室へと足を踏み入れ、扉を閉めた。「最悪だよ」とマスクをつけ直した大久保の返事は冴えない。 「学生の頃はちょっと風邪をひいたくらいじゃ全然平気だったのに、社会人になったら急にしんどくてさ。おまけに殺人の疑いまでかけられるし、もう踏んだり蹴ったりだよ」  洟をすすりながら肩をすくめた大久保は、美緒から太樹へと視線を移した。 「つらかったな。いや、今でもつらいか。きみと明城くんが仲よくしていたことは俺も知ってる。許せないよな、こんなことになって。俺でも許せないんだから。殺人なんて……そんなの、あんまりだ」  太樹はなにも言わず、大久保の潤んだ瞳に映る悲しみの色を見つめていた。  心が麻痺し始めているのを感じる。どれだけ悔やみ、悲しんでも、翼は帰ってこないのだと頭ではすっかり理解してしまっている。それがなににも勝る悲しみだった。今すぐ翼に会いたくてたまらない。  大久保の座るデスクの上で、水色のケースに入れられたスマートフォンが短く鳴動した。赤い風船を持った幼い男の子のイラストが描かれたケースは、大久保が持つにしては少しかわいらしすぎるのではと太樹は思った。  大久保はスマートフォンの液晶画面を確認し、すぐにまた机の上にそれを伏せて置いた。
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