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「きみにはもっと、心健やかに生きてほしいんだ」
羽柴はまっすぐ太樹だけを見つめて言った。
「結局のところ、魔王がこの世界を作り替えようとする行為は種の生存競争の一形態に過ぎない。魔族という種の繁栄を願い、魔王は人の世界を滅ぼすことを考える。きみは運悪く、そうした魔族の生の営みに巻き込まれてしまっただけのことなんだ。きみは被害者であり、本来ならば救済されるべきなのだが、すまない。俺にもう少し力があれば」
「そんな。謝らないでください。翼以外にも味方がいるってわかっただけで十分ですから」
羽柴だけじゃない。あるいは円藤も、大久保も、太樹が誠意を見せさえすればきっと手を差し伸べてくれる。
世の中は敵ばかりだという考えはもう捨てた。脚立に腰かけたまま姿勢を正し、太樹は羽柴に頭を下げた。
「ありがとうございます。困ったことがあったら相談に行くんで、助けてください」
羽柴は眼鏡の奥の涼やかな目を笑わせ、「もちろんだ」と返してくれた。親友は失ったが、希望が完全に消滅したわけではない。そう思えたことが嬉しかった。翼のおかげだ。
「なにをのんびりくつろいでいるんですか」
和やかな空気を引き裂くような冷たい声が太樹と羽柴の間を割る。北館四階から本館を経て中庭へと下りてきた美緒は、たいそう不機嫌な顔で太樹をにらんだ。
「立ち止まっている時間はないと言ったはずですよ」
「すまん、魔力を使いすぎた。立ち上がれない」
眩暈こそ治まったが、足に力が入らなかった。頭痛も残っているし、一人で家まで帰れる自信がない。
はぁ、と美緒は盛大にため息をついた。
「情けないですね。それでも魔王ですか」
「悪いな、期待に添えなくて」
「期待などしていません。このままその脚立に腰を貼りつけて一晩過ごしてはいかがですか」
と言いつつ、美緒は太樹を見捨てなかった。太樹の腕を強引に取り、無理やり太樹を引っ張り上げるようにして立たせる。立ちくらみがしてふらついたが、美緒が腕をつかんだままでいてくれたおかげで転ばずに済んだ。つかむ力が強くて、腕に赤く美緒の手形が残った。
「龍ちゃんを呼びます。家まで送ってもらってください」
「捜査はどうするんだ。まだ話を聞いていない人がいるだろ」
「悔しいですが、明日に持ち越しです。途中で倒れられてはたまりませんから」
「俺が付き合おう」
立ち上がった羽柴が美緒に言った。
「俺たちのもともとの任務は『勇者の剣』の捜索だからな。犯人捜しにこだわらず、別の角度から追いかけてみてもいいんじゃないか」
「そうですね。『剣』を狙う連中の動きも気になりますし」
「あぁ。翼が死んだことを知って動き出すヤツらもいるかもしれない」
「そんなにたくさんいるんですか、『勇者の剣』を狙っている人って」
美緒と羽柴の会話を聞き、太樹は目を丸くした。
「マークしてるってことですか、魔王対策チームが。テロリストみたいな感じで」
「そうだ。チームが把握しているだけでも十を超える個人や組織が『剣』を狙ってこそこそと動き回っている。今回の翼殺しの容疑者にはチームの把握している連中とつながりのある者は見受けられなかったが、我々の調査の目をかいくぐられた可能性は否定できない。運がよければ、そっちの線から犯人にたどり着けるかもしれないな」
羽柴の口調は淡々としているが、背中に悪寒を覚えずにはいられない内容だった。翼がどれだけの危険と日々隣り合わせだったか、知れば知るほど恐ろしさが募っていく。
それでも翼は、太樹の前では決して笑みを絶やさなかった。どんな気持ちで笑っていたのだろう。目を閉じても、まぶたの裏には翼の笑った顔しか映らない。
それ以上ろくな言葉は出てこず、太樹は黙ったまま西本の回してくれた車に乗って帰宅した。
なにをする気にもなれなくて、制服のままベッドの上に倒れ込む。意識はすぐに闇に溶け、翌朝には万全の体調に戻っていた。
梅雨らしい、大雨の朝だった。
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