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「大丈夫ですか」
美緒が太樹に声をかけた。いつの間にか、太樹の瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。
「勅使河原さんは、なんと?」
太樹は小さく首を振り、痛みの引いた右手でそっと涙を拭い去る。
勅使河原なんてどうでもいい。大事なのは、翼を殺したのが誰かということだけだ。
顔を上げ、太樹は西本に言った。
「やっぱり有野芽以は、この廊下から犯人のことを見ていました」
「え?」
「どういうことですか」
西本だけでなく、美緒も眉を寄せた。
「さっき龍ちゃんが言ってましたよね。有野さんがここで足を止めたのは翼くんが殺されるよりも前のことだったはずだと。それでもあなたは、有野さんが翼くんの殺されるところを見たとおっしゃるのですか」
「あぁ、そうだ。難しく考える必要なんてなかったんだよ。最初から、犯人はあの人でしかあり得なかったんだから」
美緒と西本が驚愕の表情を突き合わせる。それぞれの横顔に向かって、太樹は言った。
「西本さん、一つ確認してほしいことがあるんですけど、協力してもらえますか」
「え、えぇ。もちろん」
前向きな返事をもらうと、太樹は守衛室でメモ用紙二枚と鉛筆を借りた。一枚は西本への頼みごとを書き記して手渡した。もう一枚にも簡潔な文言を書きつけ、渡したい人物の前に立つ。
「あんたにも、頼みがある」
美緒とまっすぐ視線を交わし、二つに折りたたんだメモ用紙を手渡した。
「翼のために、力を貸してほしい」
美緒にしか頼めないことだと思った。美緒にだったら、頼みたい。
美緒はメモ用紙に手を伸ばし、少しも表情を動かさずにそれを受け取る。中を確認することなく、顔を上げ、太樹を見た。
「わたしにできることですか」
あるいは美緒には、太樹がメモ用紙に書きつけたことをすでに見透かせているようにも見える。だとすれば、なおのこと彼女は適任だ。わかっていて、メモを受け取ることを拒否しなかったのだから。
「できるよ。翼のことを誰よりも深く想ってたあんたになら」
美緒は言った。叶わなかった翼の願いは、自分たちが叶えなければならないと。
そのときが来た。美緒になら叶えられると太樹は心から信じている。
美緒は受け取ったメモ用紙の内容を確認し、それを抱きしめるように胸もとに押し当てる。静かに伏せたまぶたの奥には、翼の笑みが浮かんでいるに違いない。
やがて顔を上げた美緒は、凜々しい表情を浮かべて太樹に言った。
「少し、時間をください」
「わかった。あとのことはあんたにまかせる。俺にできることがあったら言って。協力するよ」
「ありがとうございます。では、追って指示を」
「了解」
美緒と西本が足早に立ち去り、太樹は一人、廊下の窓から205教室に目を向ける。今は誰もいない教室を見上げ、頭の中に翼の面影を描き出す。
「ごめん、翼。俺がもっと強い人間だったら」
もっと強く、もっと前向きに生きていたら、翼は死なずに済んだかもしれない。後悔してもしきれないが、過去を書き換えることはできない。
ならばせめて、未来くらいは明るいものに変えていきたい。翼の願いを一つでも多く叶えられる未来に。
雲が切れ、空は青さを取り戻している。
太樹にできることはやった。ここから先は勇者側の問題だ。
「なぁ、翼」
廊下の窓越しに、太樹は鮮やかなスカイブルーを見上げる。
「なれるかな、俺にも。強い人間に」
翼のいないこの世界で、前を向いて生きられる人に。
美緒のように、自分の弱さを素直に受け止められる人に。
空はなにも答えてくれない。
それでも、翼がそっと背中を押してくれたように太樹には思えた。
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