湘南ソーダが海に弾けた

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湘南ソーダが海に弾けた

【二〇二〇年 八月二日】  南東の空に浮かぶ大きな月が、相模湾の彼方をきらきらと照らしている。稲村ヶ崎の崖には今夜も湘南の緩やかな波が打ちつける。ここに来るのも久しぶりだ。最近ぐずついていた天気も、この数日はすっかり落ち着いていて、晴れて良かった、と修司(しゅうじ)は心から思う。  グレーのリュックに手を入れると、伸びた爪がガラスにぶつかりコンッと小さく音を立てた。取り出した空瓶は夏の夜と不釣り合いにひんやりしている。海に向けて掲げてみると、ガラスの部分だけが不鮮明でどこか気怠げな風景となる。  あれから二年が経つ。ここまでの日々は、あまりにも多くの出来事に溢れていた気もするし、あっという間に過ぎ去っていった気もする。だから時々、彼女との時間もまぼろしだったんじゃないかと思う。その度にこの空瓶を手に取った。波やソーダがしゅわりと弾けるように、あの記憶が飛び去ってしまわないように。  今日の約束を、二年の月日が経っても、決して忘れてしまわないように。  *** 【二〇一八年 夏】  潮風って本当にベタつくんだな、と七月になってからよく思う。特に夜の散歩時には、風の温度は心地よいのに、滲む汗と潮の感触の不快感が惜しい。家から持ってきたソーダの瓶を取り出して修司は頬に当てる。  稲村ヶ崎の展望スペースから、東向きには切り立った崖、西側には海岸線がずっと伸びている。日中は賑やかな湘南の浜も今はとても静かで、江の島の灯りがとても目立つ。正面には穏やかな相模湾がひたすら広がる。内陸育ちには何度見ても新鮮な光景だ。  十九歳の夏、浪人生活中。前年度は東京の大学を受けて失敗した。実家から良い予備校までは遠く、かと言って都会の予備校の寮も高額だ。それなら関東の叔母の家から予備校に通えば? という話になり、鎌倉市の稲村ヶ崎近くに住む叔母一家に今はお世話になっている。  瓶のラベルには犬と猫のキャラクターと共に「鎌倉サイダー」と書かれている。蓋を回すと瓶がしゅわっと気持ちよい音を立てる。泡の弾ける音色を聴きながら一口飲んでみると、レモンの爽やかな香りが口の中を抜けていく。過剰な甘ったるさやべとつきもない。興味を持って買ってみたが、これは美味しい。  平日の日中は横浜の予備校で講義、それ以外は自習。友人にもなかなか会えないし、遊びに行く気にもなれないし、気晴らしになるのは夜の散歩くらいだ。こうやって自由に外に出るのを許してくれる叔母一家には頭が上がらない。  二一時の夜空には、半分から少しだけ膨らんだ月。上弦の月、かな。古文の知識もたまには活きるよな、と夜闇の中に波の打ちつける音を聞きながら思う。  その間隙に、しゅわっ、と小気味よい音が背後で響いた。  振り返ると、すらりと背の高い女性が瓶を傾けるところだった。灯りに照らされて、白く細い喉がごくり、ごくりと動く。飲み口を離して、んはぁ、と吐息をつけば、さらりと靡く黒髪と整った美しい顔立ちがはっきりと見えて、どきりとしてしまう。こんな綺麗な人、生で初めて見た。 「それ、鎌倉のやつ?」  虚をつかれていると、彼女がちょいちょいと指差す。修司が右手に握る瓶に向けて。 「あ、このソーダですか?」 「そうそう。私は江の島」  手元の瓶のラベルは「鎌倉サイダー」、そして彼女が見せている瓶のラベルは「江の島サイダー」。似たデザインで、なるほど、同じ会社の別商品だろうか。 「地元の人じゃないよね。観光? 迷子?」 「いや、なんでその二択なんですか」 「じゃあ飛び込み」 「縁起でもない」  場所も悪いが、身投げの前にこんなゆったりソーダを飲む奴がどこにいるのだろうか。冗談だよ、と彼女は笑いながらまたソーダを口にした。ひどいジョークだと睨みながら自分も一口飲む。 「というか童顔ですけど、一応十九歳です」 「え、ウソ」  そんな驚くほどか? と訝しみつつ、浪人中で、春から親戚の家に引っ越してきたところだと伝えた。 「で、高校生相手かとお姉さんぶったそちらは、おいくつか聞いていいですか?」 「もう、ごめんって! んー、一応、同い年。誕生日はこれからだけど」  同い年かよ、それでよく最初からタメ口使えたな、と言いたくなるのは抑える。彼女の大人びた姿から、てっきり少し歳上かと自分も思ったのは事実だ。 「でも、浪人生がこんなとこで油売ってて大丈夫なの?」 「浪人生活にもクールダウンは必要。そっちは大学生?」 「私? あー、まあ、そっちと似た感じ? 大学浪人じゃないけど、自由きくのが夜だけで」  歯切れが悪い。高卒の就職浪人とか、中卒で働いていたけど転職活動中とか、まあ言いたくもなさそうな話を詮索する義理もない。 「鎌倉くんはよくここに来るの?」 「修司ね。そうだね、家から近いし」  江の島さんは、と言いかけると、サキって呼んでと言われた。 「サキはここが散歩コース?」 「いや、私はたまにかな。住んでるのは片瀬だから。あっ、江の島の対岸ね」  江の島の対面、片瀬海岸からはこの辺りまでが比較的勾配がマシで、この先はチャリだとしんどいし、トンネルも怖いし、というようなことを彼女は言った。 「この場所、私の定位置になりつつあったんだけどな。騒がしいカップルもこっちまで来ないし」 「譲らないよ」 「別に勝ち負けとかないじゃん、一緒に立てばいいんだよ」  しれっと修司の左側に立ち、ソーダを飲み干すサキの右手の薬指には銀色の輝きがあった。男持ちかよ、いや別に初対面で期待していた訳もないけど、と神妙な面持ちになる。 「あれって半月?」  彼女は瓶に口をつけながら言う。その唇のつややかさに見惚れそうになり、修司はふいっと視線を移す。月はさっきよりも少しだけ西側へと傾き始めていた。 「たぶん上弦の月。半月のちょっと先」 「へえ、詳しい」  ここほんと眺めいいよね、とサキは水平線に向けて手を伸ばす。白く滑らかな手が空と海の光を繋ぎ、細くしなやかな腕が光をこの場所に導いてくれているかのように見えた。  かぐや姫って、もし本当にいたのなら、こういう姿だったのかな。 「修司くん。これからさ、ここで話し相手になってくれない?」  導かれるように、修司は頷いていた。彼女は綺麗な双眸を緩める。容姿容貌だけじゃなく、彼女には不思議と惹かれるところがあった。 「じゃあ、記念にカンパイ」 「そっちもう空じゃん」  えへへ、と笑う彼女とソーダの瓶を合わせると、小さく飛沫が舞った。思わぬ出会いもあるもんだ。少し高揚しつつ、修司はソーダの残りを飲み干した。  夜の稲村ヶ崎に、彼女は週に二、三度、姿を見せた。特に示し合わせた訳でもなく、お互いにあのソーダを持参して。 「ん、味が気になる? はい、どーぞ」  にこやかに江の島サイダーの瓶の口を向けられ、修司はむせてしまった。 「いや、間接キスじゃん」 「えー、そんなん気にするのカワイイー。ちなみに鎌倉サイダーと江の島サイダーは同じ味らしいよ」  じゃあなんで飲ませようとしたんだよ、と憮然としつつ互いの瓶のラベルを見比べる。鎌倉サイダーは犬と猫のキャラが描かれ青い縁取り、江の島サイダーは亀のキャラが描かれ緑系の色の縁取り。どちらもレトロなデザインだ。 「これって結構地元の人も飲むの? 叔母さんの家では見なくて」 「どうだろ? 私はよく飲むけど」 「そっか。昔からありそうなパッケージだからさ。鎌倉サイダーは飲んだこと無いんだ?」 「んー、まあ、たまたま? 江の島の方は昔から飲んでたよ」  稲村ヶ崎は鎌倉市、片瀬海岸や江の島は藤沢市、ご当地意識ということかもしれない。この爽やかレモン味がいいよね、と彼女は言い、二人でソーダを口に含む。確かにこのくどくない後味は何度飲んでも飽きがこない。  会話はたいてい彼女から振ってきた。子供の頃のテレビやゲーム、少し前の女子アイドルの話。恐らくサキも、ほとんど変わり映えない毎日を送っているのだろう。 「あのセンターの子、やっぱりダンス上手かったよねー。あんなかわいいのにダンスできるってマジで天は何物?」  あるときはそんな話をした。月に照らされ、波音の上でダンスの振りを手先で再現する彼女は、まるで天からの使者のようだ。あるいは、海から上がってきた竜宮城の踊り子。 「サキもダンス上手そうじゃん」 「私ぜんぜんだよ、運動神経ないからできても手先だけ。でも歌はあの子より上手いかも」 「へえ、じゃあ何か歌える?」 「いやー。料金くれたら考える」  金欠浪人生にたかるな、と笑う。だけど実際、彼女の癖なくなめらかに耳に溶け込む声質はとても良くて、歌声もそれはきれいだろうなと思う。 「ダンス負け、歌は勝ち、顔は負けで一勝二敗かあ、悔しいなあ」 「トップアイドルと競うなよ。でもサキも顔かわいいじゃん」  彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐさま崩して「ありがとーよく言われるー」と笑った。 「でもこんな間近で言われるのは貴重だな。何? 口説き?」 「男持ちに口説く訳ないだろ、ただの褒め言葉」  そう言って修司は俯く。普段は絶対こんなこと言わないのに、と今さら恥ずかしくなってきた。思わず本音がこぼれてしまったのは、この暗い二人だけの空間だからだろうか、彼女との距離のせいだろうか、美しさに見惚れていたからだろうか。  だけど、サキはどこか微妙な笑みを浮かべている。 「……ねえ、あれって満月?」 「え? ああ、満月は過ぎたみたい。あの大雨の日」 「えー、あの日かあ。ざんねん」 「月、好きなの?」 「好きっていうか……」  きれいですね、って言ってみたかった。  彼女のつぶやきに、修司は目をしばたかせる。どういう意味かわかって、いるなら、どうして。 「ちなみに、今夜の月はなんて名前? 受験生さん」 「待って、満月から二日だから……立待月」  立待月、居待月、寝待月の話をすると、サキは風流だねえと感心していた。古典とか寝てたしなー、と笑う彼女の真意は、やっぱり見えない。 「ねえ、修司はなんで浪人したの? 賢そうなのに」  サキは修司のことをよく聞きたがった。相変わらず彼女自身のことはほとんど喋らないから、一方的に。 「どこでも良ければ受かったかもしれないけど。まあ、勉強したいこともあるし」  目指していたのは難関大で、学力不足だけでななく、対策も不足していた。予備校の授業を受け始めて、現役のときもこれが欲しかった、と修司は痛感していた。 「まあ、本心は、東京に出たかった」 「なるほどねー、わかるよ」 「でも、関東の人からしたら別の感覚だろうなあ」  修司の出身地からは、地元に残るか東京で一人暮らしか、その二択が圧倒的だった。 「いやいや割と遠いよ、うちとか新宿から小田急何日乗れば着く? みたいな」  それは盛りすぎだとは思うが。とはいえ江ノ電もJRも毎朝満員だ。きっと小一時間かけて東京まで行く通勤通学する人も大勢いる。 「東京出たいのはさ、やっぱり推しのため?」 「それもあるけど、ライブとかコミケとかさ、楽しそうなイベントもしょっちゅうあるじゃん」 「お兄さん、勉強もしろよ?」 「当たり前。それが第一」  笑い合いながら、いいなあキラキラしてる、とサキは小さく声に出す。 「私も、……」  サキは伏し目がちに、瓶を握る両手をパタパタと動かす。空になった瓶も、右薬指の指輪も、不思議に闇夜に溶けて輝きを失っている。波の蠢く音がやけに大きく聞こえる。どうしたのだろうか。こういうときの経験値が乏しい自分自身のことを、修司は恨めしく思う。 「サキは大丈夫だよ」  どうすればいいかわからないから、とにかくそう口にしてみた。顔がいいから? コミュ力あるから? 何と続くのか、自分でもわからない。 「んー、そうかな、まあ、色々だ」  ありがと、と早口でつぶやき、大きく伸びをして、サキはそれでも遠くを見ている。修司はしばらくそんな彼女の横顔を見つめて、おもむろに自分のソーダの残りを一気に飲み干した。 「カンパイ」  瓶をカツンとぶつけると、サキはビックリしたように修司を見つめた。初めて、彼女の素の表情を見た、修司はそう思った。 「……カンパイの使い方、間違ってるよ」 「そっちに言われたくない。したいときにすればいいんだよ、こんなの」 「何それ」  じゃあカンパイ、とサキ。キンッ。じゃあまたカンパイ、と修司。キンッ。いい音鳴ったね、と無邪気に瓶をぶつけ合う。二人の湘南の月夜に、ようやくいつもの調子が戻ってくる。 「こう暑いと、海水浴とかサーフィンするのもなんかわかる気がする」  八月に入っていた。地獄のように暑い日が続いていて、この辺りは湿度も予備校の辺りより高い気がする。夜になっても修司のシャツには汗が滲んでいる。 「あはは。海無し地域出身だもんね。そもそも夏イコール海! って人は多いよこの辺」 「そういや、ちょうど二年後の夏か、オリンピックもこの辺でやるんだっけ。サーフィン?」 「サーフィンは千葉だったかな。確か船、セーリング?」  そう言えば日中に外に出ると、沖合に帆船がいくつも浮かんでいる。今は夜に凪いでいるこの海に、二年後はオリンピックがやってくる。なんだか信じがたい気持ちだ。  二年後かあ、と彼女は繰り返して、ソーダを口にする。 「私さ、この前、八月二日が誕生日だったんだけどさ」 「え、聞いてない」  おめでとうございます、と修司がおどけて頭を下げると、いやいやありがとうございますご丁寧に、とサキも同じ調子で頭を下げる。 「二年後の誕生日さ、鎌倉ビールとか江の島ビールってあるじゃん」 「うん、サイダーと同じメーカーの」 「あれでカンパイしてくれない? この場所で、夜に集まって」  修司も、鎌倉サイダーを買うとき、いつもビールの存在が気にはなっていた。彼女の提案は自分たちらしくて、とても魅力的なだと思う。だけど。 「来年は? どっちも二十歳だし、成人祝い」  自分の言葉を再度使うなら、カンパイは何度してもいい、だ。来年も、再来年もやればいい。 「んー、そこはほら、オリンピック記念だよ。大会を応援しつつ便乗便乗」 「夜には大会やってないんじゃ……」 「便乗だから。それに私たちと言えば夜だし?」  だから絶対そこまでには合格しろよ、とサキはにこやかに微笑む。三浪なんかしないよ、と修司は肩をすくめる。相変わらず縁起でもないことを言う。 「じゃあ、約束ね」  彼女はふわりと右手を差し出してきた。指切りか、なんだか子供っぽいな、と修司も手を差し出すと、サキはその手を強く握った。 「ちょっ、何」  その刹那、彼女の唇が修司の声を奪った。  同じレモンの香りをほんの数秒交わして、あたたかな感触が離れて、彼女は寂しそうに微笑んで夜空を見上げた。 「……月は、もう、しばらく見えないね」  繋がる手も、合わさった唇も、想像していたよりずっとなめらかだった。その柔らかさに、恍惚と困惑を覚えてしまう。  出会った日から暦は進んで、もう新月の頃に差し掛かっていた。月が無い分、星たちの瞬きはよく見えるけれど、その光をいくら集めても海を照らすのには充分ではない。  彼女の右薬指に、今日は指輪がなかったのは、きっと偶然なんかではない。  翌日、稲村ヶ崎に彼女は現れなかった。毎日来ていた訳ではないからそこが問題ではないけれど、いつも二人で立っていた場所に江の島サイダーの瓶がぽつんと置かれていたのだ。瓶は蓋が閉められ、中には手紙が入っていた。 『もうこの夏に会うことはできません。修司くんとの時間は、本当に楽しい青春の日々でした。でも、さよならは言わないよ。二年後の約束、絶対忘れないでね。 サキ』  理由はわからないけれど、こうなることは、なんとなくわかっていた。だけど、やっぱり、唐突だった。  修司はその場にしゃがみ込んだ。一夏の恋と言うには、あまりに育みきれなかった感情で、だけど単なる友情だなんて言いたくはなくて。泣きたいのか、叫びたいのか、判別のつかない気持ちを噛み締めながら、真下で弾けては消える波音を聞いていた。新月の夜、自分を照らすスポットライトもないまま、哀れな自分の前にはただ真夏の海が暗くゆらぎ、やがて海岸で飛沫を上げていた。  ***  ずっと、違和感があった。  湘南で生まれ育ったかのように喋りながら、サキの肌は日焼け跡もなく真っ白だった。いくら日焼け対策をしても、海を見るのが好きそうなあの様子とは、どうにもちぐはぐに思えた。  ある日、叔母に鎌倉サイダーはいつからあるのか尋ねてみたら、十年くらい前かな? と言われた。慌てて調べると発売は二〇〇九年、江の島サイダーは二〇一〇年。レトロ調なラベルに騙されていた。しかも二〇一二年から一七年まで、二つは「江の島・鎌倉サイダー」として売られていた。サキの「昔から」という発言も、小学生の頃はあったとはいえ、微妙なところだ。  決め手は「味」だった。  江の島サイダーは、当初、鎌倉サイダーとは違ってリンゴ味だったらしい。  いくらなんでも、通常の十一歳ならリンゴとレモンの風味の区別はつくはずだ。彼女は何らかの理由でウソをついていた――疑念が確信に変わった。  そんな折、ネットで偶然にも一つのローカルニュースを見かけた。突然の卒業発表後、失踪していたローカルアイドルグループの女の子が、先日無事に発見されたというニュース。藤沢市の男が暴行等の疑いで逮捕。女性の居場所は北陸地方の街。名前は清水彩雪(しみずさゆき)。十八歳の、高校三年生。  なのにタメ口だったのかよ、と修司は苦笑交じりにつぶやいていた。詳しいことはわからない。だけどこれだけは確信に近い。彼女は孤独の中、地元の人間とは違う匂いを、自分に感じて近づいてきたのだと思う。  拠り所に、なれたのかな。  修司はそんなことを思いながら、目頭を必死に抑えていた。    *** 【二〇二〇年 八月二日】  何度も読み返した手紙は、もうしわくちゃになっている。潮風を浴びたせいもあるかもしれない。  時間すら決めていない約束。今どき携帯の連絡先も交換していない。だけど、月明かりに照らされているこのメッセージを、ただ一つの頼りにして、今日ここに立ち続けていた。  足下で、力強く波が弾けた。 「ねえ、今日の月、満月?」  懐かしい声が聞こえる。 「いや、満月は二日後。今日は十三夜」 「えー、中途半端だなあ」  茶色く染まった髪を揺らしながら、彼女は左隣に立つ。肌の色は、相変わらず、その名前のように白く美しく光っている。 「受験はどうだった? 第一志望、合格した?」 「ううん。結局、併願先の大学に通ってる」 「そっか。でも、よく頑張ったね」  彼女は青色のリュックサックから瓶を取り出す。自分も空瓶をリュックに戻して、中身の入った瓶を取り出す。行きがけに買ってきたけれど、保冷剤のおかげでまだしっかり冷たい。 「オリンピック、延期になっちゃったねえ」 「ああ。でもまあ、お互い無事で良かった」 「そうだね、それが何より」  二〇二〇年、世界的に伝染病が流行した。多くの別れがあり、多くのイベントが消え、多くの分断が起こった。だけど、こうして、生きてこの場で二人で話せている。今はそれだけで上出来だ。  プシュッ、プシュッ、と気持ちのいい音が続けて響いた。実は初ビールなんだ、と彼女は楽しそうに言う。二十歳まで我慢してたのは偉い、と修司は微笑み、年齢バレてたかー、と彼女は笑う。  聞きたいことはたくさんある。だけどこれから時間はいくらでもある。お酒を楽しみながら、少しずつ空白の時間を埋めていこう。 「それじゃ、お誕生日おめでとう」  カンパイ。  二つのビール瓶が合わさる。キンッ、と心地よい音と共に、飲み口から泡が弾ける。南からの月光にきらきらと浮かび上がり、夜の海へと溶けていった。
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