狼月譚

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狼月譚

 その夜、「黒の森」と呼ばれるこの森は酷く静かだった。  普段ならば五月蝿い程に響いている魔物や獣が立てる騒めきすらなくて、不安感を覚える程に。  高レベルの魔物も多く棲み、昼ですら太陽の光があまり届かずなお暗いこの深い森を人は忌避する。  森を通る街道は整備され、魔物避けは施されているものの、そこを通るのも命懸けの道行となる。無事に通り抜けるには腕に自信のある冒険者か傭兵を数人雇わねばならない。  そんな危険な森の中、街道から少し外れた所に何かが暴れた跡地なのか誰かが意図的に木を切り倒したのか、僅かにだがぽっかりと木々が口を開けている場所があった。  丁度この夜は満月で、高く登った月は黒々と広がる森に穏やかな光を落としていた。梢がないその場所にも煌々と月光が降り注ぎ、そこに在るものを優しく包む。木々がなく見通しの良いこの場所は野営をするにはうってつけの場所だった。  好き好んでこの森で野営をする者は奇異だろうが、そんな奇矯者も世の中には存在する。今宵はまさにそんな賓の居る夜だった。  ぽっかり空いたその僅かな草原で黒衣の男が一人きり、焚き火の灯りと月光を頼りに静かに本を読んでいた。  黒い髪に緋い瞳、精悍な顔立ちをしたこの年若い男は名をノエル・ガデューカという。  あてどない旅の途中、奇妙な程静まり返った森は渡る風の一つもない。  普通の人間なら日程を調整し、全速力で通り抜ける旅程を立てるのがこの森だが、この辺りにいる魔物はノエルにとって肩慣らしにもならない。  魔物の方も格の違いはわかっているのだろう。初めのうちは遠巻きに此方を窺っていた気配すらいつしか遠くへと去って行った。  時折焚き木が爆ぜる音だけが響く暗い森の中、一匹狼の冒険者は小さく欠伸を噛み殺す。  そろそろ寝るか。  本を閉じて空を見上げれば間もなく月も天頂真上に登る頃で、今は真夜中といったところだろう。明日には目指していたダンジョン群のある街に辿り着くから野営とも暫くおさらば出来る。  慣れてはいるものの、野営も長期間続けば夜露を凌げる環境がやはり恋しくなるものだ。それと美味い飯と酒。これは絶対に外せない。  次に行く街には駆け出しの頃ぶりに行くから最初は多少の喧騒を起こすだろう。あらぬ言い掛かりや腕試ししたい者に巻き込まれる事を思えば少々げんなりする。望まぬ有名税だが、毎度のこととなると少々煩わしい。  しかし、目指す街とその周辺には国内ではもう数少なくなってきたノエルがまだ踏破していないダンジョンがいくつもあるのだ。  単独でダンジョンを踏破し続けるこの一匹狼の冒険者を人々は英雄として扱い、そして異端として見た。誰と組むこともなく、深く潜る程に危険になる道のりを越え、その奥底に待ち構える主を一振りの長剣と氷魔法で屠る。  人々はそんな黒衣の冒険者を「黒妖狼」や「黒狗」と渾名を付けて持て囃した。この渾名もあまり好きではなかったが、一々否定するのも面倒でノエルは好きなように人に呼ばせている。  孤高の冒険者はいつしか他人と必要以上の関わりを持たなくなった。尊敬と好奇と畏怖の視線はいつも遠巻きにノエルを見るだけで近付いて言葉を交わそうとする者は少ないから。居たとしてもそれは己の力量も分からず噛み付いてくる無謀な愚か者か、何かしらの下心を抱えた者が殆どだ。  人の為に、と手段として選んだ筈の事柄が、いつしかノエルを孤独の頂へと押し上げていた。強さというものは同時に脅威となり、過ぎた才覚は時に人を遠ざけ、忌避させる要因ともなりうる。  それでも、冒険者になりたての頃はパーティーを組んでダンジョンに潜っていたが、すぐに周りがノエルについて行けなくなった。より強いパーティーに勧誘され、そこに移籍しても結果はいつも同じ。ノエルの圧倒的な力量に合わせて戦える者はほんの一握りしかいなかった。  何度かそんな事を繰り返しているうちに、ノエルは誰かと組む事を諦めてしまった。独りの方が気楽に立ち回れる事を知ってしまったから。表面上は仲間として振る舞いながら陰でコソコソと何か言われるくらいなら初めから独りでいた方がずっと良かった。  だから、彼は今日も独りであてのない旅を続けている。  不意に、西側の方から微かに物音が聞こえてきた。下生えの茂みを掻き分けているのかガサガサと立てる音は無防備で、初めは他の魔物に襲われている弱い魔物か獣が逃げているのかと思った。  しかし、物音は真っ直ぐこちらへ一体分が近付いてくるようだ。それも体躯はあまり大きくない、例えるならそう人間くらいの……。  いずれにせよ、此方に向かってくるなら面倒でしかない。そう深い溜息をついてから傍らに置いていた愛剣に手を伸ばし、引き寄せる。  するりと鞘から引き抜いた長剣の刀身は仄かな魔力を纏い、月明かりの中で薄青く輝いていた。  物音の主はもうすぐそこまで迫っている。暗闇に染まる木立の中、微かに落ちる月光の合間を影が一つ此方へと真っ直ぐに向かってきた。  剣を構えながら距離を測り、タイミングを見る。やがて茂みから飛び出し現れたのは1人の人間だった。  こんな夜更けに、酷く息を切らせながらノエルの方を見て驚いたようにたじろいだ気配がする。こんな夜更けにこの森で飛び出した先に剣を構えた人間がいたら当たり前の反応だろう。  目深に被ったフードの下から微かに覗く孔雀青の瞳が驚愕に丸くなっているのを見ながら、ノエルは奇妙な感覚に襲われていた。飛び出してきた者は止まれなかったのかフードの隙間から覗く深い灰色の髪を靡かせながら倒れ込むようにノエルの方に突っ込んでくる。  思わず咄嗟に剣を投げ出して差し出した腕に、自分自身で戸惑いを覚える中でノエルは相手の体を抱き止めた。細身の体は驚く程に軽く、少し乱暴に扱えば簡単に折れてしまいそうだった。 「っ……! おい、大丈夫か」  ノエルの腕の中の人物は逃げようともがくが、その腕にあまり力は入っていない。 「……すいませ、逃げなきゃ……」  呻くように呟かれた声は男のもので、随分切羽詰まっている。同時に彼が来た方から幾分離れた所に複数の気配を感じ、ノエルは咄嗟に自分が使っていた外套に頭まで男を包んで隠すと乱暴に地面に蹴り転がした。痛いと悲鳴混じりの不満そうな声が上がるが致し方ないだろう。  大人しくしていろとだけ声を掛け、ノエルは放り出した剣を鞘に戻して再び焚き火の傍らで本を読む体勢を取った。意識だけは物音がする方へと向けながらゆっくりページを捲る。  横に転がした男が逃げようともがくので、軽く蹴り飛ばしてもう一度大人しくしていろと声を掛ければ、漸く観念したのか静かになった。  普段ならばこういった面倒事は御免だと言うのに、どうしてだかこの男を助けてやる気になってしまった。自身らしくない行動と奇妙に高揚して騒つく胸を抑えるように深く呼吸してページを捲る。  徐々に近付いてくる気配は三つ。そのうちの幾人かは微かな金属音から鎧か何かを身に纏っているらしい。逃げてきた男の様子からしてもどうにも尋常じゃないが、今更後には退けなかった。  やがて、宵闇の落ちる木立から姿を現したのは壮年の魔導師風の男が一人とそれに付き添うように若い剣士が二人。剣士の方は冒険者を装っているのか軽装に見えるが、身のこなしに隙はない。  どこぞの偉い魔術師と護衛で付いている騎士か貴族の私兵か。そんなあたりを付けながらノエルはちらりと来訪者へと視線を向ける。 「野営中に失礼。男が一人此方へ来なかったでしょうか」  ノエルの視線を受けて魔導師風の男は薄い頭頂部に浮かぶ汗を拭いながら慇懃ぶって訊ねるが、その声音に混ざるのは強い焦りだ。どうやら転がした男を追っているらしいが、あんなに疲弊した男一人追うには妙に大掛かりに思える。 「……知らないな。此方には来ていない」 「貴様! 誤魔化してもためにならんぞ!」  短く最低限に応えてノエルが手元の本に視線を戻せば、その態度が気に入らないのか赤毛剣士が剣に手をかけ、声を荒げた。応える代わりに一瞥をくれてやれば、男はノエルの迫力に気圧されたのかたじろぎ黙り込んでしまう。 「俺は何も見ていないし、何も聞いてもいない。分かったらさっさと行け。読書の邪魔だ」 「本当に何も見掛けておりませんか? 物音などでも結構なのですが……」  相手は大したことは無さそうだと内心安堵しながらそう告げるが、魔導師風の男は引き下がらなかった。舌打ちしたくなるのを抑えながら首を横に振り、再び本に視線を戻す。  会話をする気はないと態度で取って見せるが、視界の端で相手はまだ食い下がろうとする素振りを見せた。一体何をやらかして逃げているのかと煩わしくなったが、その時に魔術師風の男が焚き火の横に転がした男に気が付く。 「こちらは?」  焚き火の傍に頭まですっぽり外套に包まれた人間を見つけて怪訝そうな顔をしながらも、なおもノエルに食い下がってくる相手を面倒に思い、今度こそ舌打ちを零す。 「……これは俺の連れだ。今し方見張りを交代したばかりの奴を叩き起こすつもりか?」  地を這うような低い声に追跡者達は震え上がった。元より格上の相手を前に去勢を張ったところで意味はない。  その気になれば、ノエルはこの三人を軽く叩きのめせる。声一つでその実力差を思い知らされたのだ。  剣士達と魔術師風の男は何やら二、三の言葉を交わすと、金髪の剣士だけがノエルの方へ向き直った。残る二人は逃げるように森の中へと消えていく。 「休んでいる所を邪魔して大変申し訳なかった。失礼する」  金髪の剣士はノエルに対して丁寧に頭を下げると、先に行った二人を追って東の方へに向かって夜の森を進み始める。  暫くして十分気配が遠ざかったのを見計らって、ノエルは地面に転がったままの男へと視線をやった。 「おい、もういいぞ」  ノエルの声に静かに転がっていた男はもぞもぞと身じろぎ、外套の拘束から抜け出してくる。 「ふぅ……。助けてくださってありがとうございました」  ぱさりと音を立てて外れたフードの下から現れたのは思わず息を呑むような絶佳だった。  雨が降る直前のような鈍く重い艶を纏う灰色の髪に孔雀青の瞳。それらが彩る顔立ちはまるで名工が創った彫刻のように美しく整っていた。  胸元に右手を当てて跪く最上位の礼を取る優美な絶佳の姿にノエルは思わず目を奪われる。 「あの……?」  思考が止まっていたノエルは戸惑ったような声に我に帰り、一気に頭を働かせる。この見目なら良くない連中に目を付けられる事もあるのだろう。  物腰からしても貴族か、それに準ずる立場の者らしい。それが夜半に単独でこの森の中を追われていたとあっては只事ではない。 「本当に助かりました。万策尽きたってところだったので」  その割には余裕のありそうな口調で言うと、青年はにこりと綺麗な笑みを浮かべてノエルを見た。 「冒険者の方でしょうか? 見たところお一人のようですが」 「ああ。ソロで旅してる」 「ふぅん……。お一人で旅をするなんて腕の良い方なんですね」  含みのある言い方をしながら何やら思案する様に青年は自らの顎に手をやった。そんな何気無い仕草すら絵になるものなのかとノエルは思う。  美人や美形と云われる者達は幾人も見てきたが、この青年は次元が違った。  中性的な美しさは透き通るようでいつまで見ていても飽きないだろう。長い睫毛はしっとりとした月光を吸って艶めいた銀色を纏いながら伏せられた孔雀青の瞳を彩り、身動ぐ度に揺れる濃い灰銀の髪は柔らかに白い頬に掛かって陰を作った。  白と黒と灰の陰影だけだというのに、男の存在は月明かりの下で一際鮮やかに見えた。月の神に寵愛され、創造されたと言われたら納得出来るかもしれない。  やがて男は思考を終えたのか、孔雀青の瞳をノエルに向ける。 「既に巻き込んでしまいましたし、ご迷惑ついでにお願いがあるんですが」 「……なんだ?」  普段なら冒険者ギルドを通したとて個人指名の依頼は即断るのだが、ノエルは開いたままだった本を閉じて青年の話を聴く体勢を取る。  ノエルの様子を見た青年はホッとしたように柔らかな笑みを浮かべた。どうやら此方の方もだいぶ切羽詰まっていたらしい。 「しばらく貴方の旅にご一緒させて頂けませんか? 勿論、報酬はお支払いします」 「護衛じゃねぇのか」  先程の様子では相手は追跡を諦めるつもりはないだろう。  予想外の頼み事に思わず聞き返せば、相手はひらりと手を振って見せる。 「多少の相手なら自力で逃げられますから大丈夫です。これでも魔術には自信があるんですよ? 今は魔力が切れちゃってちょっと無理ですけど……」  苦笑混じりの言葉に、嘘は見えなかった。そもそもこの「黒の森」自体高ランクの魔物も出没するような場所だ。事情があって追われるにしても逃走経路として選ぶにはあまりにもリスクが高い。  そんな場所を選ぶなんて腕に自信がある強者か、余程物を知らない大馬鹿者のどちらかだろう。やり取りはほんの僅かしかしていないが、ノエルは即座に後者を否定した。  相手の物腰の端々には教養が滲むし、後者なら五体満足で「黒の森」の奥深くにいられる訳がない。それに柔和な笑みを浮かべて見せるが、相手も此方をはかっている最中だろう。  ノエルが信頼するに値する人間か。信用していいのかどうか、と。  なんと応えれば彼の満足する答えになるのだろうか。少しばかり思案してノエルはゆっくり口を開く。 「いいぜ。俺は次の街にあるダンジョン群に潜るつもりだ。それで良きゃ着いてくればいい」 「ダンジョン! いいですね、楽しそうです」  ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべると絶佳は楽しそうな声を挙げた。どうやら興味を引けたようだと安堵しながら改めて相手の様子を見遣る。  目に付くような武器は手にしていないし、先程抱き留めた時の体格では剣などの武器を扱うようには見えない。魔術が得意だと言っていたから魔術師なのだろう。見るからにひ弱なのだが、その美貌の所為か妙な迫力があって近寄り難いものがある。  着ているものは少々汚れやほつれがあるが、見るからに上等で大きな怪我などはなさそうだ。  この森は運だけで切り抜けられる程甘い場所ではない。中堅の冒険者が自らの実力を奢り、魔物を侮り無駄死にする者だって少なくない場所だ。  そんな危険地帯を、魔物避けのある街道を外れて単身無傷でここまで来られるだけの実力があるのならダンジョンの多少深いところへ潜っても問題ないだろう。 「お名前を伺っても?」  柔らかな声で訊ねられて、ノエルは己の勝利を確信した。 「……ノエル・ガデューカだ」  少なくとも歩み寄りを見せた相手に少し思案してから、ゆっくりと本名を告げた。  ノエルは自らのこの名を忌み嫌っている。  可愛らしい響きは自分には不釣り合いだし、何よりもこの名は死んだ母とノエル自身が負った望まぬ罪を思い出させた。だから、冒険者として登録する際には別の名を使ったし、普段の通り名もそちらを使っている。  この名はノエルにとって呪縛だった。しかし、何故だかこの男には自らの本当の名を呼んでもらいたいと思ってしまったのだ。 「ノエルさん……良い名前ですね」  穏やかな声で転がすように名を呼ばれた瞬間、ドッと心臓が跳ねる。心底嫌っていて、ほんのひと握りしかいない本名を知る人間にすら呼ばれるのは酷く不快だというのに、この男に名を呼ばれるのは全く嫌ではなかった。  むしろ、心地良さを覚えながらノエルは孔雀青の瞳をじっと見る。 「さんは付けなくていい。……あんたの事はなんて呼べばいい」  ノエルの言葉に、相手は驚いたように目を丸くするが、本名を訊ねない気遣いを気に入ったのかその瞳はすぐに柔らかく細められた。 「……ユーク。ユークと呼んでください」  穏やかな声で告げられる名に微かな違和感を覚えながらも、ノエルはその名で呼ぶ事を了承する。本当の名を尋ねれば恐らくユークはノエルを拒絶するだろうという予感があったからだ。  慎重に距離を見計らい、相手の思惑を読む。まるで狩りのようだ。目の前の男とのやり取りを心の底から楽しく思いながらノエルは笑む。ダンジョン深層で繰り広げる強敵との命懸けの攻防をこよなく愛しているが、ユークとのやり取りは少しばかりその感覚と似ていた。  奇妙な高揚感を覚えたまま、ノエルは目の前の絶佳を見る。自分から進んで道連れを作るのは初めてだが、それがコイツなら悪くない。  そんな予感を抱きながら、ノエルは握手するために手を差し出した。
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