第10章 暗黒の誕生日

2/13
101人が本棚に入れています
本棚に追加
/174ページ
 澤井に呼び止められて、保住は副市長室に留まった。 「田口はどうしている」 「どうもこうもありませんよ。問題はないです。田口はなにも知りませんから」 「ふん。本当にお前は甘いな」  澤井は苦笑する。保住は自分の中に張り詰めているものがあるということを自覚しつつ、そこに立っていた。 「お前、どう思う?」  澤井は保住を見上げた。この週末、この件に関しては熟慮した。 「目的は田口だと思うのです。市長選への絡みでしたら、もっと市長に近いところを狙うはずです。こんな回りくどいことをしても意味がない。正直、市制100周年記念事業は、まだまだ市民にも浸透していない事業です。そんなものを潰してなんの意味があるのか。もし、この事業に的を中てるのであれば、メインイヤーの段階まで成熟しきったところで狙うのが効果的です」 「同感だ」  澤井は満足そうにうなずく。これは保住を試しているのだろうと理解する。保住の考えを聞いて、自分と相違があるかどうか確認したいという作業の一環なのだろう。内心うんざりした気持ちになるが、上司に求められている以上、話を中断するわけにはいかないのだ。 「だとすれば、田口の周囲を調べるのが得策だと思うのです。推進室が配置されている観光課は、週末も職員の出入りが多い。いくら市役所職員だからと言っても、まるで別部署の人間が出入りしていたら、いくらなんでも目立つ。犯人は観光課の職員、もしくは推進室に出入りしていても違和感のない者であると推察されるわけです」  保住の意見についての是非を口にすることなく、澤井は思いついたように声色を変えた。 「お前には話していなかったがな。あの人事課の根津という男は、お前の職員情報を嗅ぎまわっている」  保住は目を見開く。 「なぜ? という顔をしているな。あいにく、根津の真意はおれにもわからん。この件は田口にだけ伝えてはおいたのだが」  ——だから先日、根津の名を聞いて不可解な顔をしていたのだな。  保住は先日根津と出会った後に、田口の態度が腑に落ちなかったことを思い出した。 「根津は、佐々川が負傷した件もどこで聞きつけたのやら。病院から一緒に戻ってきたのには驚いたぞ。人事課には気を付けろ」 「どういうことなのでしょうか」 「人事課長の久留飛(くるび)という男は、なかなかしたたか者なのだ。さすがのおれも少々手を焼いている。若い頃はおれの部下だったこともあって、相当目をかけてやったつもりだがな。腹黒いところはおれに負けないくらいだ」 「澤井さんを困らせるって、なかなかじゃないですか。吉岡さんだって、相当やり手ですけど、澤井さんのほうが上手なのはよくわかりますよ」 「よいしょしても意味がない」 「事実じゃないですか」  保住は笑う。別におだてているわけではない。事実だからだ。吉岡はどうしても澤井を越えられない。それは傍から見ていてもわかることだからだ。 「まあいい。久留飛は安田市長続投希望だ。選挙戦前に大きいことを起こすとは思えないが、推進室に自分の影響を及ぼしたいと思っているのは事実だ。今回の推進室は、おれや吉岡の息のかかった職員で固まっているからな。なんとか人事で口を出したいようだ。お前を室長にするのも最後まで反対していた」 「そうでしたか」 「人事課職員である根津が、お前の周りを嗅ぎまわっているいうのは腑に落ちない。だがしかし、久留飛が今さらお前のパーソナルデータを調べるような話でもないはずだ。根津が一人で勝手に行動しているということもあり得る。人事課は不夜城だ。深夜帯に田口のデスクに細工をするなんて造作もないことだろうよ。なんにせよ人事課には注意をしろ」  澤井と自分では立場が違う。自分はまだまだ知らないことも多い。何事も情報が全て。情報難民は負け組だ。そんな保住の心中を察したのか、澤井は口元を緩めた。 「焦るな。お前もそのうち中枢に入れ込む。ただ、まだ時期尚早。久留飛のような輩に手出しできないところに置いておきたい。あいつは堪え性がない男だ。槙にも圧力をかけてきたくらいだ」 「槇さんに、ですか」 「槇を抱き込みたかったのだろう。安田が続投した場合でも、おれではなく自分の思うようにしたかったのだろう。野原を星音堂(せいおんどう)に島流しする人事をネタに、槇に協力を迫ったようだ」 「それはそれは」  ——野原課長なら、星音堂の人事を快く受けそうだ。そんな交渉材料では、脅しのネタにもならないだろう。  保住はマイペースな野原を思い出して苦笑した。 「槇はバカだが、そういうところの判断は今のところ正常らしい。結局は久留飛の申し出を跳ね退けたようだが」 「澤井さんと組むのが正しいとは言い難いと思いますけど」 「それはそうだ。槇にはよく言い含めている。保障はないとな」 「費用対効果を算出して澤井さんを選んだ。それが吉と出るか凶と出るかは、槇さんの運しだい——ってことでしょうね」  保住は口元を緩めてから、頭を下げる。 「業務に戻ります。田口のことをはおれたち推進室でみます。久留飛のことは承知しておきます」 「保住。——気を付けろ。お前自身もな」  澤井はいつになく真面目な顔をして保住を見ていた。 「わかっておりますよ」  彼の言いたいことはわかる。だからこそ余計なことは言わずに保住は副市長室を退室した。
/174ページ

最初のコメントを投稿しよう!