第2章 綻び

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「おれの話よりなにより。お前なら知っているのだろう? 室長が結婚しているかどうか」 「え?」 「薬指ではないが指輪をしている。男はそういうものは好まない。結婚をしていても着けていない奴も多い。おれたちより付き合いが長いのだ。室長のプライベートを知っているのだろう?」  安齋が無駄話をすることは滅多にない。そのおかげで怯んでしまったらしい。言葉に詰まる。 「えっと」 「なんだよ。煮え切れない返答だ。知らないのか」 「いや。……未婚だ」  かろうじて事実を口にすると、安齋は意外そうに目を瞬かせた。 「そうか。モテそうなのにな。彼女程度の女でもいるということか」 「人気はあるようだけど……おれは知らない」 「プライベートの話はしないタイプか。なるほど」  いちいち田口の言葉に安齋はそこから読み取ったことを口にする。彼は何事も分析をするのが好きみたいだ。あまり余計なことを言うと墓穴を掘りそうだと思った。 「……さあどうだろうか。おれがだからな。こんなおれに話しても意味もない。どうせ、おれはつまらない男だからな」 「確かに」  ——即答か。安齋だってつまらない部類に入ると思うけど。  内心そう思うが黙って様子を見た。安齋も大堀も能力が高く、察しが良い。保住との関係を知られでもしたら大変なことになる。  田口はこの部署に来てから、その件に関して細心の注意を払っていたのだ。言葉に出ない分、雰囲気で嗅ぎつけられた経験があるからだ。  前職で後輩の十文字(じゅうもんじ)にその件を指摘された時は本当に驚いたものだった。  ——気を付けないと。  自分の心に戒めながらパソコンに向かった瞬間、賑やかな声が響いてきた。保住と大堀が帰ってきたのだった。 「いやあ、疲れました。室長。今日は帰ってもいいですか~?」  陽気な声の大堀。  ——疲れているようには到底聞こえないけど。  田口と安齋は顔を見合わせた。 「お疲れ様です」  腰をトントンしながら帰って来る保住と、その後ろをニコニコしてついてくる大堀。対照的だった。 「疲れた……」 「ずいぶんと長引きましたね」  田口の言葉に保住は椅子に座って大きくため息を吐いた。 「まあ愚痴はなしにしておこう」 「え~、文句たくさん言いたいですけど」 「大堀、疲れた。おれは帰る」 「え~」  彼はみんなを見渡してから目を瞬かせる。 「なんだ、みんなで残って」  今頃気がついたのかと田口は笑うしかない。それに、残業は日常茶飯だ。 「仕方ありません」 「終わりのない仕事ですからね」  田口と安齋の返答に保住は苦笑した。 「それはそうだな。終わりがないのならいいだろう? 今日は店じまいだ」  彼の言葉に大堀は嬉しそうに手を上げた。 「パソコン立ち上げるの面倒だし。今日は終わります!」 「大堀はいつでも店じまいできるだろう」 「んなことないし。腹減ったし」  ぶうぶう唇を尖らせて大堀は安齋に抗議をした。いつものパターンだ。保住はマイペース。安齋は大堀をからかって遊ぶ。からかわれた大堀は本気で怒り出す。そして田口は黙って様子を眺めるのだ。 「よーし! 今日は飯でも食って帰るか」  急に保住が背伸びをして大きな声を上げたので、大堀は興味津々な表情で尋ねた。 「なに食べるんですか?」  しかし保住は何度も瞬きをしてきょとんとした表情を浮かべた。 「え?」 「え? なんです?室長」 「一緒に行くんだよ。みんなで。ね?」  保住は人差し指を顎に当てて首を傾げた。それを見て安齋や大堀は急に赤面した。  ——勘弁してくれ。  田口は内心イラっとした気持ちを押し込める。 「なに?」 「い、いや」 「室長って、そんな可愛い仕草するんですね……」  大堀はあんぐりと口を開けて呟く。その隣にいる安齋ですら視線をどこに置こうかと思案しているようだ。照れているみたいだった。田口は気が気ではない。可愛い仕草なんてしないでもらいたいのだ。 「可愛いって、なんだ?」  ——本当に自分のことに、無頓着すぎだ。  内心苛々としてしまう。それに気がついて欲しくて田口は咳払いをしてみる。しかし保住にはその意図が伝わらないようだ。  『どういう意味?』と田口に助けを求めてくる保住だが、救いようもないとはこのことだ。  彼の無防備さは健在だ。きっと言ってきかせても、保住のそういう部分は改善されることはないだろうと諦めてから田口はパソコンを閉じた。 「いいですよ。お伴いたします」  彼の潔い返答に、残りの二人もそれに従うことにしたようだ。安齋はパソコンをシャットダウンした。 「このメンバーで食事って、初めてですよね」 「そうですね。全員が初めてで歓迎会もなにもあったもんじゃないですしね」 「親睦会ですか」  二人のコメントに乗じて田口もそれに言葉を添えたが、保住はそんなつもりはなかったようだ。『歓迎会? 親睦会?』と首を傾げるばかり。  他のメンバーたちが、今晩の食事会に意味をつける中、言い出した彼にとったら、ただ単に帰宅後に夕飯を作るのが面倒だというだけらしい。  そういうところも無頓着。みんなとは感覚がずれているから困ってしまう。田口は呆れて肩を落とすしかない。  ため息を吐くのを我慢して歩き出した。仕事もだが職員同士の付き合いも『前途多難』であった。
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