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「遅くなってすみませんね」
狭い会議室の中央にある事務机に資料を置いた瞬間、観光課長の佐々川遥が顔を出した。
彼は保住よりずっと小柄だ。身長は160センチメートル前半なのだろうか。細身で少し白髪まじりの髪を短く刈っている。少し神経質そうな雰囲気に見えるのは、金縁のメガネの影響か。左の薬指にはプラチナの指輪が収まっているところを見ると所帯持ちであることはよくわかった。保住より十歳は上だろうか。
「佐々川課長。先程は申し訳ありませんでした」
彼を見るや否や、ともかく頭を下げる。部下の失態は自分の責任だ。しかし彼は両手を目の前で振った。
「いやいや。いいよ。保住のせいじゃないでしょう? あの内容じゃ誰にも見てもらっていないんじゃないかって思って。あんなきつい物言いしたけど、保住から言うよりおれからってことのほうが角が立たないかと思ってね」
「気を使わせました」
「しかしあの安齋って職員。使いにくそうだよね。うちにいたら、困るかも」
「安齋はあれで、必死に仕事をしてくれています」
保住の返答に彼は苦笑した。
「そんな堅苦しくならないでよ。いいじゃない。本音言ったって。おれ、告げ口なんてしないし」
彼はポンポンと保住の肩を叩いた。
「保住、いいんだよ。上司だって言いたい時は言いたいもんだ。そんな格好つけなくてもさ。いいじゃない。人間だもの」
目尻に皺を寄せて笑う佐々川を見ていると、なんだか心が落ち着いた。
するとドアがノックされた。本日の会議出席者、最後の人がやってきたのだ。
「遅くなりました」
佐々川と同じような言葉で顔を出したのは、文化課課長の野原雪。保住の前職での上司だ。彼が遅刻なんて珍しい。佐々川同様、細かくて神経質な男だから。
保住は頭を下げた。
——見知った顔にほっとするとは。相当疲弊しているらしい。
「野原課長、お久しぶりです。……なんだか、雰囲気が変わりましたか」
どこかが違う。保住は「ああ」と気がついた。
「コンタクト、でしょうか?」
保住の指摘に佐々川も「あれ?」と声を上げた。野原を不思議な雰囲気に見せている瞳の色が、鳶色になっていたからだ。
「実篤……、槇がカラーのコンタクトしろって。おれは気にしないんだけど、ダメだって」
「槇って、槇さん? 私設秘書の?」
佐々川は首を傾げた。
槇実篤。野原の幼馴染であり、大事な人。安田市長の私設秘書を担っている男だ。昨年、ある事で関わった為、野原と槇のことを知った。
差し詰め、槇が野原の変わった容姿を他の人間に晒すのを良しとしなかったのだろうと保住は思った。
本当はもう少し突っ込みたいところだが、佐々川の前で大事にしている必要はないと判断して、保住は話を打ち切るように笑顔を向けた。
「お似合いですよ。野原課長」
少し照れているのか、彼は視線を泳がせてからポケットから個包装のチョコレートを鷲掴みにして取り出した。
「保住。食べる?」
「あの。ありがとうございます」
完全に用意してきたに違いない。
——いつものチョコレートか。なんだか懐かしい。
振興係時代、よく野原からチョコレートをもらったことを思い出した。苦笑していると佐々川は興味津々にそれを覗き込んだ。
「なに? それ。お駄賃?」
野原は佐々川を見てからポケットの中を漁り、ぱっとクッキーを出す。
「佐々川さんにはこれ」
「ありがとう。野原は本当お菓子メーカーみたい」
佐々川はニコニコっとする。二人は接点があったのか、お互い顔見知りの様子だった。
——意外。まさかの。
「おれの好きなクッキーじゃないか。好み覚えていてくれるなんて、嬉しいな」
野原に笑顔で話しかけている佐々川を見て、保住は彼への評価を訂正した。
——佐々川は、『神経質そうな腹の読めない男』というのは訂正。『お菓子で買収される、気遣い症のいい男』。
課長クラスの会議だと言うのに、テーブルにはお菓子が置かれた。
——お菓子を囲んでって、どうかと思うけど……。
気心知れたメンバーで安心し切っているのだろうか。野原は、さっそく大福を取り出して食べ始めた。
——マイペースでいい。このくらい腹が据わらないと課長クラスはやっていけないということだな。
内心ほっこりしたところで会議開始だ。
「ご足労ありがとうございました。本日は、我々が事業化したい企画をお二方に聞いていただき、現実可能なものにするためにアドバイスをいただきたいのです」
保住の説明に、二人は頷いた。お菓子会議開催である。
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