第1章 4月1日

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「ま、待て……っ! そう急かすな……っ!」  後ろから息も絶え絶えな声が聞こえて、思わず口元が緩んだ。  ——本当に。困ったお人だ。 「初日早々から遅刻とか……ありえませんよ。保住さん」  駐車場から早足で歩く男は、田口銀太。身長192センチの大型犬。髪は漆黒で短髪、灰色のスーツに白いワイシャツ、鉄紺色のネクタイは彼を真面目に見せる。  後ろから、ヘトヘトになって情けない声をあげているのは保住尚貴(なおたか)。身長168センチメートルの野良猫。長身の田口から見たら小柄で華奢な印象だ。  彼が小柄に見られるのは、田口が大きいからだ。一緒にいる男が大きいと、相対的に小柄に見えるのは仕方のないことだった。 「お前のせいだ。お前が……っ、夜更しさせるから……っ!」  保住の濃紺のネクタイは緩められ、ワイシャツのボタンは二つ外れている。『今日も一日ご苦労様でした』ぐらいの勢いの乱れ様で、黒い髪はあちらこちらが跳ね上がっていた。  田口は直したつもりだったが、思うようではなかったらしいと内心舌打ちをした。自分としたことが。新年度初日から、彼の服装を整えられなかったことが悔やまれて仕方がないのだった。  しかし、この調子だと遅刻決定だ。もう間に合わないと判断した田口は保住の腕を掴み、強引に引っ張った。 「田口! 痛い、痛いっ!」 「仕方ないではないですか。初日から遅刻ということだけは絶対に避けなければなりません!」  左手に段ボール。右手に保住。田口は全速力で庁舎に滑り込んだ。 「おはようございます」  職員玄関にいる警備員へ挨拶をし、そのまま人込みを縫うように歩く。その度に保住は左右に振られて不憫だが仕方がない。 「ぜえ、ぜえ……っ」 「おはようございます」  職場に到着すると、二人は既にそこにいた。田口は見知った顔である安齋と大堀を確認した。  彼らは表情を明るくした後、言葉を濁して困惑した顔色だった。田口の後ろにいる保住を見つけたようだった。 「あの……」 「大丈夫、ですか」  二人は責任者である保住がこないことで、どうしたものかと、荷物を抱えたまま待ちぼうけをしていたらしい。なのに遅刻ぎりぎりで入ってきた同僚と上司はぐだぐだ。それでは呆気に取られるわけだと田口は思った。  ——おれでも同感だからな。  開いた口が塞がらない様子で並んでいた二人だが、その内の一人である安齋は気を取り直したのか、きりりと表情を作り直して挨拶の声をあげた。 「おはようございます」  ぼんやりとしていた大堀も慌てて「おはようございます」と続いた。 「お、おは……、ちょ、ちょっと待て。息が上がってしまって……」  しかし保住は全くもって使い物にならない状況だ。さすがに田口は気の毒に思った。  ——駐車場から少し走っただけでこの(ざま)か。体力をつけさせないと。  田口の心配をよそに、肩で息をしていた保住は、やっとの思いという様子で指示を出した。 「眼鏡はそこ、小さいのはそこ。田口はそこ」 「眼鏡って」 「小さいって、おれですか」  大堀は苦笑しながら荷物を置いたが、『眼鏡』呼ばわりされた安齋はむっとした顔をして、指示されたデスクに段ボールを置いた。  保住の荷物は少ない。彼は紙袋に入っている荷物を抱えて、真ん中の席に座った。 「すまない。初日から見苦しいところを見せた」  椅子に座ってひと段落か。保住は「は~」と深く息を吐いてから、荷物の整理をしている一同を見渡した。 「悪いが時間がない。朝一で打ち合わが入っているので、自己紹介はその後だ」 「こんな朝一に、ですか?」  大堀と安齋は、顔を見合わせるが保住は全く持って無視。田口にメモ用紙を何枚か突き出した。 「田口、これ。すぐまとめておけ」 「はい」  メモ用紙に目を通すと、どうやら打ち合わせで使用する資料らしい。昨日まで教育委員会文化課の仕事をしていたはずなのに、もう新しい部署のコンセプト案決めていたとは。一緒にいる時間が長いのに、彼がいつそれに取り組んでいたのか気がつかなかった。 「開始は何時ですか」 「35分だ」 「了解です」  ——あと5分か。  田口は急いで真新しいパソコンを立ち上げて、書類を作成し始めた。
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