第1章 4月1日

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 保住は新しい部下たちを連れて、西一号棟105号会議室に入る。一人ずつ横並びに着座したのと同時に扉が開いて、大柄な男が姿を現した。 「こんな朝から、無茶するものだ」  地の底から響いてくるような重低音。保住にとったら聞き馴染みにある声だが、安齋と大堀の体が強張るのがわかった。  副市長である澤井幸村。  ——この男には慣れてもらわないと、だな。  威圧されている二人の部下と自分との間に座る田口は、じっと真っ直ぐに男を見据えていた。  部下たちの様子を一瞬で把握してから、澤井に視線を戻した。 「おはようございます。今日一日、この時間じゃないと捕まらないかと思いまして」 「正解だな。保住。ここから夜まで予定が立て込んでいる」  大柄な澤井は邪悪なオーラをまとっている。  ——相変わらずだ。  澤井が椅子に座ると、その後ろから小柄の細身の男が顔を出した。丸顔童顔な顔つきは、彼を幼く見せた。保住は男の姿を見て頷いた。  天沼陽向(ひなた)。田口、大堀、安齋と同期で、研修の時にここにいる三人と一緒に学んだメンバーだ。  あの時、澤井から出された指示は『田口、安齋、大堀、天沼の四名の中からアニバーサリーを乗り切るメンバーを三名選べ。残りの一人はおれがもらう』と言うものだった。  苦渋の決断だった。自分が選ばなかった男を澤井に差し出すなんて。澤井の性格を知っているが故に決断した後も悩んだものだった。  結局は、サポート能力の高い天沼を差し出すことになったのだが……。彼を見るとそれを思い出して少しばかり心が痛むのだった。  田口たちは彼との再会を喜びたいところだろうが、今はそれどころではない。 「おい、資料」  椅子に座るか否や、澤井は天沼に手を差し出したのだ。 「はい」  彼は頭を下げると澤井に一部、保住の手元に一部の資料を渡した。保住はそれをさっとそれを眺めて苦笑した。 「これはこれは……」 「どうだ。とうとう始まるのだ。ご機嫌だぞ」 「地獄への観光ツアーですけどね」 「愉快、愉快。さぞや楽しい旅となるであろう」  大堀と安齋は顔を見合わせていた。 「ずいぶん、ざっくりじゃないですか」 「お前たちが動きやすいようにしてやっているのだろう」 「よく言えばですよね。悪く言えば丸投げだ」 「そういうことだな」  澤井は豪快に笑った。そんな澤井の冗談には付き合いきれないとばかりに、保住は田口の名を呼んだ。 「田口」 「はい」  田口は澤井に資料を手渡すが、澤井は大して興味もなさそうな顔でそれを乱暴に受け取った。そして書類をざっと一通り眺めてから、保住ではなく田口に視線をやった。 「お前らしい言い回しだな。田口。注意したはずだ」 「申し訳ありません」 「まあ、その辺のクズな資料よりはよっぽどいいがな」  澤井は軽く笑うと天沼に資料を渡す。ぼんやりとしていた天沼は、はっとして慌ててそれを受け取った。 「持っておけ。……保住。そのまま進めろ」 「承知しました」  腕時計を気にしていた天沼は囁いた。 「副市長。初め式です」 「わかっている」 「ありがとうございました」  保住はそう言うと頭を下げる。それを眺めてから澤井は、会議室から出ていった。  たった五分程度の邂逅だが、保住にとったら有意義な意味あるものであることには違いない。自分たちの直属のボスの許可をとっておけば、今日からすぐに身動きが取れるからだ。  澤井がいなくなると、会議室は緊張した雰囲気から解放されたかのように空気が緩むのがわかる。大堀はぽかんとしているし、冷静沈着そうな安齋は言葉に窮しているようだった。  しかし気を取り直したのか、安齋はすぐに保住に視線を向けてきた。 「あの。これはどういう……」 『全くもって仕事の流れが見えない』というところだろう。澤井と保住の会話には主語や詳しい説明など一つもない。正直言って周囲の人間からしたら、なにがやりとりされていたのかなんて、さっぱりわからないのだろう。  特に安齋は星音堂(せいおんどう)という、小さい世界にいた男だ。優秀なのかもしれないが、本庁の雰囲気に馴染めていない様子が見て取れた。    むしろ頼りなさげな大堀のほうが度胸だけは据わっている。財務部という市役所内部でも中枢を担う部署にいただけのことはある。財務部は他部署との交渉や交流が多いからだ。澤井がいても臆することなくそこに座っていた。  対照的な新しい部下たち二人と、その隣で自分の作成した文章を指摘されたことについて真面目に受け取っている田口。  三者三様であった。保住は今日からはこのメンバーでやっていくのかと実感した。    困惑したような表情の安齋を見て、保住は苦笑する。 「心配そうな顔をするな。ちゃんと説明するから」  保住はそう言うと颯爽と席を立つ。 「どれ、おれたちも仕事始めをするぞ」  保住は三人を連れて自分たちの部署に戻っていった。
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