第1章 4月1日

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「今朝はすまなかった。おれは室長の保住尚貴(なおたか)だ。これから三年間よろしく」  時間は8時45分。年度初め式が始まった頃であろうが、そんなことは保住には関係がない。彼は自分の新しい部署のメンバーの顔合わせを行った。  まずは自分から自己紹介。そして右隣りにいた大堀に視線をやる。彼はぼけっとしていたが、自分の番であると理解したらしい。弾かれたように顔を上げて自己紹介をした。 「財務部から異動になりました大堀(さとる)です」 「大堀ね」  保住はにこっと笑顔を見せてから、今度は安齋に視線をやった。 「教育委員会星音堂から異動してきました安齋裕仁(ひろひと)です」 「さっきはすまない。名前を知らなかったもので、眼鏡なんて呼んでしまったな」 「気にしません」  眼鏡をずり上げて安齋はきりりとする。  ——面倒な男だ。面倒は嫌いだ。ほどほど適当だといいのだけど。  田口のことは知っているけど流れ上、抜かすわけにもいかない。田口を見ると彼も畏って自己紹介をした。 「文化課振興係から異動の田口銀太(ぎんた)です。よろしくお願いします」  保住から見て右側に大堀、安齋の順で座っている。左側は田口と空いている席が一つ。大堀の後ろには電気ポットが置かれており、田口の後ろには複合コピー機が配置されているという簡単な配置だ。 「この4名でアニバーサリーを乗り切らなくてはいけない。総務もバックアップしてくれるが、他部署との連携も必要となり、かなりの忙しさが予測される。ただ、おれたちには失敗は許されない。それだけの金が動くお祭り事業だ。心してかかること」 「はい」 「それから」  安齋は『まだあるの?』そんな顔をした。 「四人しかいない仲間だ。仲良くしないとうまく回っていかないのは目に見えている。喧嘩しないように。仲良くな」 「子どもじゃないんですから」  大堀は苦笑した。 「そうは言うが気の合う者ばかりの部署がないのは知っているだろう?」 「まあ、そうですけど……」 「特にお前たちは同期だ。張り合ったり、蹴落としたいという思いが出て来るかも知れないが、それは控えろ。おれは誰かだけを評価するつもりはない。一人だけできても、他の職員がしくじったのであればそれは失敗と見なす。全ての歯車がうまくかみ合って成功はなされる。心してかかれ」  柔らかい笑みを見せ、保住がそう言い終わった時、彼の目の前の内線が鳴った。 「はい、推進室。ああ。廣木(ひろき)さん。そうですか」  さっそく財政課長である廣木からの電話だった。  ——ここからがスタートだ。茨の道の。 ***  お昼休み。初日だというのに保住は総務部と財務部との打ち合わせで不在だった。残された三人は、昼食を摂る。 「しかし。副市長の直轄部署だなんて。とんでもないところだよね」  大堀は売店で買って来た弁当を食べていたが、喉を通らないのか一口食べては箸を置いた。案外ナイーヴな性格なのかも知れないと、田口は思った。 「しかし、まだ初日だからな。これからどんなことになるんだか……」  安齋は眉間にしわを寄せて難しい顔をしていた。  午前中は自分のデスク周りの整理、関連部署の内線番号の確認、機材の使用方法の確認、書類を収める棚の割り振りなどをしていて時間が経過してしまった。  ここの(あるじ)である保住は、自己紹介の後、九時過ぎに出て行ったきり戻ってこない。  仕方がないので昼食休憩時間のチャイムが鳴ると共に田口と大堀は、売店に行ってお弁当を購入してきた。  今朝は二人で寝坊したのだ。とても弁当どころではなかった。  昨日、文化課振興係を終えたばかりで一晩しかたっていないはずなのに、なんだか別の世界の話のようだと田口はため息を吐いた。    ただ一人、弁当を持参してきている安齋は卵焼きをつつきながら田口に視線を寄越した。 「田口は澤井副市長の元にいたことがあるのか?」 「少しだけ。澤井副市長が教育委員会事務局長だった。……随分しごかれた。そのくせ進歩がないんだけどな」  先ほど自分のクセを指摘された。急ぐと出てくるクセだ。過去に保住や澤井に指摘されたところは抜けなくクリアしようと、注意を払っているつもりだが、慌てているとつい出てしまうのだろう。 「まだまだだな」  ぼそっと呟くが、二人の耳には届いていない様子だ。
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