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帰ってきたかぐや姫
満月の夜だった。
自宅の裏手にある広い公園、その中心部分に茂っている竹やぶへと向かう。
歩くにはちょうどいい秋の夜長であった。風と月明かりが気持ちいい。
「ん? あの光はなんだ」
僕は目を疑った。
竹やぶの中が、それこそ満月のように黄金色の輝きで満ちみちているのだ。
駆け寄ってみる。すると光の中心には、腰まで届いた黒髪が印象的な女性が、紅色を基調とした、それは麗しい十二単を身にまとい、堂々とそびえ立っているではないか。
「かぐや姫?」
そうとしか言いようがなかった。
二十一世紀のこんにちまで、竹取物語で伝えられた絶世の美女。
いにしえの日本で育ち、しかし最後は月の世界の住民であることを人々に明かして、月の世界に帰っていった女性。
彼女の美貌に心惹かれ、言いよってくる男性は数知れず。
その中でも特にしつこかった五人の男性には、天竺(インド)にある御仏の石鉢を取ってこいと言ったり、唐土(中国)にある火鼠の衣を持ってきてと言ったり、現代で言う無茶ぶりの数々。けっきょく五人の男性は、かぐや姫の願いを叶えられずに失恋する。
そして、ついには当時の帝まで、かぐや姫を妻とするために登場された。
だが帝ですらも、かぐや姫の心を掴むことはできなかった。
ただしかぐや姫は、帝にだけは友情めいた感情を抱いており、そのため、姫は月世界へと去る直前に、帝に不老不死の薬を贈った。
もっとも帝は「かぐや姫のいない世界で不老不死の身体になったところで、どれほどの意味があろうか」とおっしゃって、その薬を富士山の山頂で焼いてしまわれた。不死の薬は、灰となってしまったのだが――
そのかぐや姫が、いま僕の目の前にいる。
「姫。……かぐや姫」
呼びかけてみる。
すると、かぐや姫はそっと、僕のほうへ振り向いた。
「その言葉、紛れもなくこの国のものですね。わたくしは本当に帰ってきたのですね、この国に。いえ、この地球に」
「やはりあなたは、かぐや姫なのですね。月からお戻りですか」
「ええ。わたくしはようやく、この星のこの国に戻って参りました。しかし不思議なことですね。なぜあなたは、わたくしのことを知っているのですか? わたくしがこの星にいた時代から、もう千年以上が経っています。地球人の寿命を考えれば、わたくしの知人、友人は、もう誰もこの星に残っていないはずです。不死の薬を差し上げたあの帝さえ、薬を焼き捨ててしまったと聞きました。この世界にはわたくしを知る者など、もう誰も――」
「……。理由はいろいろありますが、まず、あなたのことは、物語として長くこの国に伝わっているのですよ」
「物語として?」
かぐや姫は小首をかしげた。
そこで僕は説明した。かぐや姫の物語が、日本に長く伝えられていることを。
「まあ、恥ずかしい」
かぐや姫は顔を赤くし、その表情を僕に見せぬように袖で隠した。
「昔の話がそれほどまでに詳しく、現世に残っているなんて。ああ、いまとなっては、どうして昔のわたくしは、あれほどまでに男性の方に冷たかったのか、不思議なほどです。若気の至りとしか言いようがありません」
「姫にも若気があるのですか」
かぐや姫はまだ二十歳ほどにしか見えない。
若気、というほど老けたようには思えないが。
「もちろん、ございます。いまならば、わたくしの前に現れたあの五人の方にも、もう少し別の態度を取れましょうに」
「なんですって。それはどのような……」
「わたくしは自分を愛してくれた方を、もっと大切に思うべきだったのです。地球であれ月であれ、人間という生き物は、誰かから愛される時期は決して長くない。人生の中で限られた時間のみ、誰かからの愛を受けることができる。けれども当時のわたくしはそれが分からずに、天竺に行け、唐土まで参れと、思い上がりも甚だしい態度を。あの方たちも悪い人々ではなかった。特にあの、御仏の石鉢を取ってくるようにと言った石作皇子は、冗談が得意な明るい方でした。それなのに、わたくしは――」
「かぐや姫。そもそも姫は、なぜ地球においでになったのですか。そして、どうしてまた、月にお戻りになったのですか」
「あなたは不思議な方ですね。あなたにはすべてを話したくなってしまう。こうして月夜に巡り会ったのもひとつの縁です。お話し致しましょう。そもそもわたくしは、ある罪人の娘だったのです」
「罪人の?」
「そう――」
かぐや姫は、月を見上げながら語り始めた。
月の世界で、王族に対して反乱を起こした男がいた。
その男はあっという間に捕らえられ、処刑されてしまったが、月世界は、その男の娘に対しても、血族ということで罪を与えたのだ。
「その娘こそがこのわたくし、かぐやなのです。わたくしに与えられた罰は、とても残酷なものでした。この地球に送られ、この地球の景色や人々を愛するように、また愛されるように仕向けられ、しかし地球の人々と心を通わせたころになって、わたくしを月へと連れて帰る。このようにして月世界は、わたくしに別離の苦しみを与えたのです」
「それが姫に与えられた罰ですか」
「まだ終わりません。続きがあります」
かぐや姫は切れ長の瞳を伏せて、
「月はわたくしを、千年以上もの間、幽閉いたしました。そしてこの地球に、かつてわたくしが愛した人々と景色が、完全に失われたことを確かめてから、わたくしを地球に戻したのです。かつてと同じ、満月の夜に……」
「姫のお話をうかがって、すべて合点がいきました。……そうだったのですか」
「わたくしが愛したお爺様とお婆様はもう、この世におりません。わたくしが育ったお屋敷も、わたくしが愛した都の風情も、もう地球にはひとつも残っていない。わたくしを愛してくれた方々も、いまの地球には――」
それがかぐや姫に与えられた罰なのか。
かつて愛した家族も友人も景色も、すべてがなくなった世界に戻されて。
月世界の法がどういうものか、僕は知らない。だが過ちを犯したのはかぐや姫本人ではなく、父親ではないか。それなのに、こうまで残酷な刑罰を姫にくだす必要があるのか。
「見覚えがあるのは、この竹やぶだけです」
かぐや姫は顔を上げた。
「この竹やぶは、かつてわたくしが地球にやってきたとき、お爺様と初めて出会ったあの竹やぶです。ここだけは千年前と同じように残っていたようです。わたくしはこの場所が好きでした。でも、他にはもう……」
かぐや姫が振り返る。
竹やぶの隙間から、公園の隣に建っているマンションが見えた。
かぐや姫は無言のまま、小さくかぶりを振り、袖で顔を隠した。
泣いているのだろうか。
現代文明の象徴とも言える、コンクリート。
古い日本の情景を見て育ってきたかぐや姫にとって、それは切なさと悲しさをいざなう存在なのかもしれない。
そのとき竹やぶの中に「お話中のところ、すみません。警察ですが、なにをしておられるんですか」と人が入ってきた。
警察官が、ふたり。
深夜に公園で喋っている怪しげな二人がいる、と通報が入ったのかもしれない。
僕は「友人と話をしていたんです、彼女の服装はコスプレです」と言ってごまかした。警察官たちは「夜も遅いので、もう少し声を控えめに」とだけ言って、その場を立ち去った。
「いまのお二人は、どのようなお役目を負った方々でしょうか?」
「警察官といって、いまの日本の治安を守る人たちです。検非違使のようなものです」
と、僕はかぐや姫に説明した。
検非違使とは、平安時代の警察官のことだ。
かぐや姫は、哀しそうに顔を伏せて、
「わたくしは検非違使から見て、怪しい女性だと思われたのですね」
「いや、ちょっと僕らのお喋りが、大きな声だったみたいで。……もう少し、あちらに参りましょうか」
そう言って僕は、かぐや姫を竹やぶの外に連れ出した。
目の前に、ため池が広がっている。満月の光を浴びて、水面が煌めいていた。
幻想的な景色である。かぐや姫は思わず目を細めていた。
しかしそのとき、夜空を一機の飛行機が飛んでいった。
もうそれだけで、かぐや姫は再び物憂げな顔色となって、ため息をつき、
「わたくしはもうどこにも行けません。わたくしを知っている人間はこの地球のどこにもいない。あとはただ絶望し、野垂れ死ぬだけがわたくしの人生なのです」
かぐや姫はそう言って、池を一直線に見据えると、
「もうこのまま、身投げをしてしまいたい」
「馬鹿なことを言わないでください」
「それしかないではありませんか。いまの地球で、いまの日本で、わたくしがいったいなにをできると」
「僕がいるじゃないですか」
僕はついに、そう言ってしまった。
かぐや姫は、きょとんとした顔を見せる。
「あなたが?」
「ええ、ええ、そうです。……かぐや姫、言おうかどうか迷いました。もしもあなたが、この地球で他に、生きていくすべや、頼るべき存在があるのなら、この僕も黙って立ち去ろうと思っていた。なにしろ一度はあなたを失った身ですから。あまりにも未練がましい。そんなことはしたくなかった。でも、あなたがそれほどまでに苦しんでいるのなら、僕は……」
「なにを。……あなたはなにをおっしゃるの?」
「お分かりになりませんか。無理もない。千年以上もお会いしていないし、髪型も服装も現在の日本人に合わせていますからね。……僕はかつて、あなたに求婚した五人の男のひとり。そう、石作皇子です」
「な……」
かぐや姫は、さすがに絶句したようだった。
どういうこと、と口が動く。声は出ていない。
それだけ仰天したのだろう。
僕は声を低くしながら、
「姫がかつて、帝に差し上げた不死の薬。あの薬の大部分は確かに帝が焼き捨て、灰となりました。しかしその後、この僕が、その灰となった薬を服用したのです。薬は灰となっても効きました。僕はこうして不老不死の肉体となりました。そしてこの千年間、満月の夜になるたびに、あの竹やぶに戻っていたのです」
「そんなことを、千年以上も……?」
「そうです。だから今夜、僕とあなたが、月夜に再び巡り会えたのは、偶然でも運命でもありませんでした」
僕は、姫に向けて伝えた。
「僕が会いたかったのです。あなたに、もう一度だけでも」
竹やぶの中で、一目見ただけで分かった。
千年以上、会いたいと思っていた彼女の顔。
不死の肉体となり、家族、友人と永遠の別れを告げることになったとしても、もう一度顔を見たいと思っていた女性。
だから僕は、すぐにその名を呼ぶことができたのだ。
かぐや姫、と。
「かぐや姫、絶望をするのはまだ早い。昔の日本とはまた違う美しさが、いまの日本には、そして地球にはあるのです。新しい幸せが必ずある。僕はそれを知っています。伊達に千年も生きていません。昔はあなたを退屈させてしまったが、今度こそ姫を楽しませてみせます。素晴らしい世界をご案内致します。だから、身投げなんてよしてください。この僕と、共にいまの世界を巡りましょう。未来を決めるのは、それからでも遅くはないはず」
かぐや姫は大きく、目を見開いた。
わずかに、瞳を潤ませている。
「お変わりになりましたね。昔はもっと、こう、……頼りない感じでしたのに」
「千年も生きればこうもなります。どうでしょう、まずは月明かりの下、この千年分の日本史を僕がお聞かせしましょうか。それだけでも退屈はさせませんよ。……かぐや姫」
「……そう、いたしましょうか」
かぐや姫は、あどけない笑みを浮かべて、
「あなたと共に参ります」
千年前に、僕が聞きたかった言葉を口にしてくれた。
僕は年甲斐もなく、心を熱くさせながら、行きましょう、と言った。
月夜の下を、かぐや姫と、二人きりで歩く。
たったそれだけのことだが、僕にとっては夢のようだった。
千年以上の人生で、もっとも幸せなことだと感じられたのだ。
「それではまず、いまの日本のことを教えてください。そうですね、まずは言葉から。先ほどの、警察官と言いましたか。検非違使の言葉からして、そもそもわたくしにはよく分からなくて」
「そうですよね。かぐや姫は、先ほどの警官の言葉に、まるで反応をされていなかったから、そうじゃないかと思っていました」
かぐや姫が喋っている言葉は、最初からずっと、昔の日本語なのだ。
彼女の言葉が分かるのも、いまの日本では僕だけだろう。
「日本の言葉もこの千年でずいぶん変わりましたからね。僕がお教えしますとも」
「楽しみです。地球のことを、これからいっぱい、わたくしに教えてくださいね」
「もちろん」
僕とかぐや姫はふたり連れ立って、道の果てへと向かってゆく。
月明かりが、僕らの行き先をずっと照らしていた。
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