5人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
もちろん憶えていることもある――辺りの景色が夕焼けに染まり、このあいだの梅雨なんて知りもしないようなすずしい風にあらわれながら、かれが話してくれた――
ふだんは隣町に住んでいて、きょうは母親とふたりで遊びにきていたということ。この河川敷を歩いている最中にはぐれてしまい、とほうにくれていたこと。
大丈夫だよ、と、ぼくはいった。必ずおかあさんと会えるから。もう少しここで一緒に待っていよう。すれ違っちゃうとたいへんだからね。
「紅茶って飲んだことある? よかったらどうぞ。熱いから気をつけて」
受けとった水筒のコップをかれは宝物のように両手でもっていた。魔法瓶タイプのおかげで湯気がたっぷり立っている。元々、ここでひとり飲もうと思っていた。ハーニー&サンズのアールグレイ・スプリーム。
とても奇妙な心地だった。かれとの会話に跛行的な衝突はこれっぽっちもなかった。完成された音楽のようになめらかで、あたかもぼくらは絵本の世界の住人として、きめられた台詞の掛け合いをしているという想像すら浮かべてしまうほど。
「きれい……」
不意に、おとこの子が呟いた。河川の対岸を指さしている。川沿いにならんだ落葉広葉樹。黄緑色の葉はハートのかたち、密集した短い枝が横にのびている。
「なんだろう、あれ。風にとんでる白いやつ」
「ドロノキの綿毛だよ」
と、ぼくはいう。
「初めてきいた。なんだか雪みたい」
かれの思いがけない感想に、はっとした。一瞬でよみがえる記憶。初めてこの町におとずれ、この河川敷を歩いた、あの日。ちょうど同じ季節だった。そのときもこの幻想的な風景に出会い、星みたいに空を舞うドロノキの綿毛をみて、ぼくは雪虫と勘違いしたっけ。
そして、その年の冬に――かのじょと知り合った。
「わかるよ。きれいだよね」
こくり、と頷き、すぐに慌てたようすで目を伏せる。決まりが悪そうに困った顔。赤くなった耳。
そのきもちも何となくわかる。多感な時期の子どもにとって、好きなものを好きという難易度の高さ。
つくづく思う。ふつうに生きるのって、ままならない。可笑しくてため息がでる。ちょっと触れただけで物事はいとも容易く複雑になる。だから、正しさとか素直さをみつけるのはくたびれる。すれ違ってはぐれて、器用に諦めることに飼いならされてしまう。いつだってそう。
最初のコメントを投稿しよう!